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残されたモノ  作者: momo
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思惑の中


 可憐で心に傷を負った優しく美しい聡明な王女。

 心寂しく愁いに満ちた王女を放っておけない状況を作り上げる筈…だったのだが。


 ヒリアスイがセラに近付くのを困難にしていたのはウェインでもカオス王でもなく、悪意を全く見せないリリス王妃であった。

 セラの姿を捜してやっと見つけたかと思うと、必ずと言っていい程リリスが現れヒリアスイを攫って行く。そしてヒリアスイにとっては何の意味もなさない、王妃の独壇場ともいうべきお茶の時間が始まるのだ。

 リリスは特有の鼻を効かせ、ヒリアスイがセラに接近するのを妨害し阻み続ける。

 お気に入りのセラを手放したくないと言う思いと同時に、リリスは久し振りに手に入れた玩具に満悦し独占していたいのだ。しかもヒリアスイが連れて来た従者たちは、その誰もが見目麗しく若い殿方ばかり。ヒリアスイにはもれなくそれが同行して来るのだから何ともいい気分ではないか。



 リリス王妃の追跡を潜りぬけやって来たのは騎士の鍛錬場。

 イクサーンの騎士達が剣の訓練に励む男臭いこの場所は、ヒリアスイが最も苦手とする場所でもあった。

 雪解けの季節を迎えた地面は濡れていて、ヒリアスイの真新しい靴は泥に埋まり、綺麗なドレスの裾は泥水で滲んでしまっている。

 美しさが損なわれるような状況が一番苦手で、ヒリアスイは周囲の気を引く為の『可憐でたおやかな王女』を完璧に演じきれる自信がなくなって来た。

 ただでさえリリス王妃の攻撃を受け苛立っていると言うのに―――

 昨日は午前中に対面の時間を持ったが、あれからセラと話す機会はまるでなく今日の午後を迎えていた。それもこれも全てリリスのせいだと、ヒリアスイは思いっきり癇癪を起したくて仕方がない。


 それでも広場の隅で大きな男相手に剣の練習に励むセラをみつけると、ヒリアスイはにんまりと笑った。

 やっと見つけた少ない機会を無駄にはできない。

 「行くわよ、エルンスト。」

 エルンスト以下数名の騎士を引き連れ、ヒリアスイは泥濘ぬかるみと化した鍛錬場の土を踏しめながら、騎士達が訓練に励む真ん中を何の遠慮もなく横切って行った。


 




 「あれが例のお姫様?」

 ウェインがマウリーの示す方向を振り返ると、裾の汚れを気にしながらも真っ直ぐに突き進んで来るヒリアスイの姿が目に入った。

 後ろには紺色の制服に身を包んだ数名の騎士。

 ウェインはヒリアスイよりも、その斜め後ろを歩く一人の騎士にむっとした視線を向け、それを見たマウリーは意味あり気な笑みを漏らした。

 稽古の手を止め振り返ったウェインと同じ方向を見ると、セラの目にもヒリアスイの姿が映る。

 「ヒリアスイ王女…」

 ヒリアスイはセラと目が合うと、満面の笑顔を浮かべて走り寄って来た。

 「セラ様…きゃっ―――!」

 セラに手が届く寸前、ヒリアスイは泥濘に足を取られ思わずセラにしがみ付く。

 「大丈夫ですか?!」

 非力ながらセラは必死でヒリアスイを支えた。

 「ええ、セラ様のお陰で助かりました。」

 ほっとした様に顔を綻ばせ、にっこりとほほ笑む。

 

 何でそんな事セラちゃん相手に?

 

 マウリーはヒリアスイの行動がわざとだと気付いたが、そんな『男の気を引く行動』の相手が何故セラなのか…背筋に冷たい物が伝う。

 

 「エルンストさん、王女をこんな所に連れて来ては危ないですよ。」

 セラは転びそうになったヒリアスイを支えようともしない騎士に不満を覚える。

 騎士が女性に優しくあらねばならないとは思わないが、少なくともヒリアスイはエルンストの主で守るべき存在の筈だ。

 「いいえセラ様。わたくしがセラ様にお会いしたくてここまで来たのです。エルンストはわたくしの我儘に従ったまで…何も悪くはないのです。」

 首を横に振り、切なそうにセラを見た。

 「そうですか…でもわたしはまだ訓練がありますのでヒリアスイ様は城に戻っていて下さい。終わったら直ぐにお伺いますから。」

 城に―――

 そうするとまたリリスに捕まる可能性は高い。

 「わたくし明々後日にはリョクシェントに帰らなければならないのです。あと僅かしかセラ様と一緒に過ごせないのに…」

 何とかなりませんか―――と、切ない潤んだ瞳でセラを見た後、そのままウェインを見上げてみる。

 苦手だ…この手の女はどうも苦手だとウェインはすかさず視線を反らした。

 「剣はわたしがやると決めて始めた必要な事なんです。ですから―――」

 途中で切り上げるつもりはなかった。

 「そうですか…」

 セラの言葉にヒリアスイはとても残念そうに瞼を伏せる。

 (うう…心が痛む)

 だが、譲れない所もあるのだ。

 「では、こちらで見学しながら待たせて頂いても構いませんか?」

 「それは―――」

 セラはウェインを見上げた。

 「別にいいんじゃないのか?」

 責任者が質問で返してどうするの?


 まあそんな訳でヒリアスイはセラを少し離れた場所から観戦し、熱い眼差し(?)を送り続けた。

 



 

 すっかり日が沈んで辺りが暗くなってから、セラを城まで送ったウェインが騎士宿舎に戻って来た。

 マウリーはそれを待ちわびたかに出迎える。

 

 「あのお姫様ってセラちゃんを連れに来たんだったよね?」

 稽古の間中セラに釘付けで見入っていたヒリアスイの様子は全くそうは見えなかった。

 剣を手にし、ウェインの様な大きな男を相手に向かって行くセラをヒリアスイは心配そうに眺めながら、時折身を震わせはらはらした様子で見守っていた。


 それにマウリーが違和感を覚えたのは、ヒリアスイと目が合った時。

 ヒリアスイはマウリーと目が合った瞬間、綻ぶように優雅な微笑みを湛え首を傾げると、にっこりと余裕の挨拶を交わして再びセラへと視線を向けたのだ。

 その時はまたもとの怯えた様な、セラを心配する表情を浮かべていた。

 

 「リョクシェントとしてはそうだが、あの王女にそのつもりはなさそうだな。」

 疲れた表情をしたウェインは共同の応接室に置かれた長椅子に体を沈める。

 「ホントにそう思う?」

 マウリーは壁に体を預けると腕を組んでウェインを見下ろした。

 「攫おうって気なら容赦はしないが、今の所そんな素振りはないぞ。」

 「でもあのお姫様変だよ、妙な小芝居打ってるし。」

 か弱そうにつまずいて見せたり、心配そうな素振りを見せたり―――

 「芝居打つ女なんて珍しくも何ともないだろう?」

 「でもセラちゃんにあんな態度とってどうするのさ。」

 男に媚を売る為に自分を良く見せようとする女は何処にでもいる。

 だがセラとヒリアスイは女同士だ。

 「そう言う趣味なんだろう。」

 ウェインが面倒くさそうに言うと、マウリーが即答した。

 「違うね。僕も最初はそうかなと思ったけど、あのお姫様は間違いなくストレートだよ。しかも相当な猫かぶりでキツイ性格じゃないのかな?」

 妙に自信有り気なマウリーに、長椅子に体を沈めていたウェインも身を起した。

 「…そうなのか?」

 ウェインも最初は妙に感じたが、人には色々な…隠しておきたい趣味もある。ヒリアスイが女色だとしてもセラがそうではないのだからと、ウェインはそれ以上は何も考えてはいなかった。

 だが、マウリーがそう言うのであれば間違いあるまい。

 ヒリアスイが女色の趣味でないなら、何故セラにあのような接し方をするのか。

 「狩ろうってか?」

 偽りの心で接してセラを手に入れようと目論んでいるのだとしたら。

 「許せんな」

 「だね。」

 もしヒリアスイがセラに話した事が偽りだとしたら、それを知った時セラは深く傷つくだろう。何しろセラはヒリアスイの言葉を信じて疑わず心を開いてしまっているのだ。

 外見に対しての言われない誹謗中傷などセラは屁とも思わなかったが、心に入り込んだ、信じた者の裏切りに対してはどうなのだろう―――

 「あの王女…これ以上セラに近付けない方がよさそうだな。」

 あの手の女は排除し難い。だったら近付けないのが一番の方法だろう。

 「今回はリリス王妃が大活躍しているみたいだからそのままお願いしちゃったら?」

 リリス王妃か…

 出来るなら避けて通りたい存在だが、今回大活躍なのは事実。

 「そこはシールにまかせてみよう。」

 リリスに頼み事をすると後が厄介だ。

 城の中の事はシールにまかせ、後の厄介事も引き受けてもらう事にするか。

  






 最近のセラは何事にも真面目に取り組んでいる。

 最初の頃はやる気のなかった勉強も笑顔で根気よく教えてくれるハウルのお陰で、この頃は少しだけだが楽しくなって来ていた。

 宰相時代は鬼の様に厳しかったと言うハウルであったが、引退した今はセリドとセラの世話を焼く事に生き甲斐を感じている様子だ。寒さが緩み再会された授業にも気合を入れていて、休みの名残か、ほぼ毎日のように宿題を出すようになっていた。


 今日は古代語の文を訳すという宿題。

 量は少ないが、ルー帝国より遥か昔に使われていた文字なのでセラには解読不能…だったが、最近の努力で大分読めるようになって来ていた。これが読めるから何かの役に立つと言う訳でもないのだが、セリドの様な王族には必要な『知識と教養』らしい。セラには不要だが、セリドの学友でもある為一緒に覚える。

 部屋に籠り一人頑張っていると、その途中で解らない一文が出て来た。

 それさえ訳せれば完璧と言う所まで来ているのに、今のセラではどうにも解読不能で悩んでも仕方がない状況に陥る。

 このまま解けない状態で明日セリドに馬鹿にされるのもしゃくだ。

 図書室に行って調べれば直ぐに解りそうな感じなので、セラは宿題の本を持って部屋を出ると図書室に向かった。



 夜の図書室は人の影がまったくなく、真っ暗なうえ予想に反して寒い。

 セラは夜目が利く方なので小さな燭台一つでも十分だったが、さすがに本の字を読むには苦心しそうだ。


 セラが目当ての本を探していると人の気配を感じて振り返る。

 誰もいないと思っていたのだが―――

 小さな灯に浮かびだされたのは背の高い男性。

 「エルンストさん?」

 ここは図書室、セラの前に立っていたのは有り得ない人物だった。

 「貴方の姿を見かけて付いて来てしまいました。」

 「そうですか…」

 その後しばしの沈黙が流れる。

 見かけたからと言ってこんな時間にわざわざ暗い図書室までついて来たのだから、何か用があるのではないのか?

 取り合えず相手の出方を待っていると、やっとエルンストが口を開いた。

 「セラ殿には王女の事でお願いしたい事があるのです。」

 「ヒリアスイ様?」

 暗い室内でエルンストが頷く。

 「セラ殿には王女にあまり構って頂きたくない。」

 意味が分からずセラは眉間に皺を寄せた。

 「どう言う事ですか?」

 初めて会った時花をくれたので悪い人ではないように思っていたが、昼間のヒリアスイに対する態度といい今の言葉といい…だんだんと良い印象は失われて行く。


 「王女はセラ殿をとても気に入られ、セラ殿も王女に優しくして頂きそれには深く感謝しています。しかしリョクシェントでの王女は周りに頼る者もなく、他の王侯貴族達からの辛い仕打ちばかり受けておられる方なのです。一時の優しさで構って頂いてもリョクシェントに戻ってしまえばそれも失われる。その時王女の受ける心の寂しさは相当なものです。辛い日々に貴方の事を思い出し、更に涙される事でしょう。触れなければよかった優しさを求めて苦しい思いをなさるのは王女なのです。うわべだけ、一時だけの優しさは王女にとっては毒に等しい。」

 リョクシェントでのヒリアスイはなまじ王女としての位を持ってしまった事で、時間と暇を持て余し人を見下すことしか考えていない輩にとっては手に届く蔑みの対象だ。生まれた時からその世界で育ったヒリアスイは彼らに逆らう事も出来ずに怯えて暮らし、それでも必死に生きて来たのだと言う。

 たまに優しくされて心を開けば裏切られ、苛まれ続ける日々。

 たとえわずかな期間セラと楽しく過ごせても、別れの日が来るのは確実な事。その別れがヒリアスイを更に苦しめるのだとエルンストは語った。


 「どうして…誰もヒリアスイ様を守ってあげないの?」

 王は…母親は何をしているのだ。

 「陛下にとって王女は数ある娘の中の一人に過ぎません。いづれ手駒として臣下に嫁がせる程度の利用価値しかないと思われている。母君はとうの昔にお亡くなりになられました。」

 「あなたは?そんなに王女を心配しているのなら、どうして手を差し伸べて守ってあげないの?」

 「そう言う者は全て王女から遠ざけられます。私も周囲に悟られないよう王女に接していたつもりでいたのですが…私が王女をお守り出来たのはほんの僅かな期間でした。今回私がイクサーンへの旅に同行出来たのは、他に同行したいと願う騎士がいなかったからです。」

 「でも沢山の騎士が来てるじゃない?」

 ヒリアスイは多くの従者を引き連れて来ている。

 「それは体面上陛下がご命令なされたからです。奴らは王女の動向を観察し、国に戻ればそれぞれの主に報告して王女の汚点を作り上げる。」

 エルンストがセラに一歩近付き、心許無い燭台の光にその姿を照らす。

 「王女は貴方を国に連れ帰るよう、リョクシェント王の厳命を受けてここへ来ました。しかし王女にそのつもりは全くありません。セラ殿はレバノの封印を守るのに必要な方…更にあのような欲望渦巻く王宮に連れ帰り、ご自分の様に辛い目に合わせたくないとお考えなのです。」

 「私をリョクシェントに連れ帰れなかったら王女はどうなるの?」

 「―――何も。何も変わりません。」

 燭台の小さな光を受け、エルンストの瞳が寂しそうに揺らいでいた。

 「連れ帰れなければ王女を責める理由を奴らに与えるだけ。もし王女が貴方をリョクシェントに連れ帰ってもただそれだけで、王女に対する風当たりが良くなる事は結してない。ただ…王女にとっては貴方が側にいる事は生きる糧になる事でしょう。」

 セラと過ごすヒリアスイはとても嬉しそうに輝いていて、そして寂しそうな眼をしていた事を思い出した。


 リョクシェントと言う国がセラを欲しがるのは、闇の魔法使いと戦った者の一人だからだ。

 カオスはイクサーンの王、ラインハルトはウィラーンの王として君臨している。リョクシェントとリンハースは、残ったフィルネスを我が国にと望んだが行方知れずとなって姿を隠した。やがてアスギルと同じ魔法使いを迫害し、それにも関わらず二十五年たって現れたセラの力を欲している。

 結局は自国の力を誇示する為に利用したいだけなのだ。


 だが、ヒリアスイは純粋に『セラ』と言う個人を求めているとエルンストは言っている。

 「ですが貴方はリョクシェントにはおいでになられない。それなら初めから王女に優しくなさらないで頂きたいのです。失った時の悲しさは…王女にはもう耐えられないでしょうから―――」


 失った時の悲しさ―――


 カオスとラインハルトは二十五年も傷ついたままだった。

 守れなかった…巻き込んで犠牲にしたと心に傷を抱えて生き続けていた。

 セラは衣服の内側にしまった首飾りに通された指輪を、服の上からそっと握り締める。

 共に歩む事が出来なくなって今は愛する人と離れて暮らしてはいるが、セラは今もカオスの側で守られているし、他にも優しく大事に扱ってくれる人たちに囲まれている。

 それなのに王女に生まれたヒリアスイは、リョクシェントに心許せる人が一人もいない。

 それは…その辛さはセラにも痛い程わかる。

 大事な人を戦火で失ってから暫くセラは一人きりだったのだ。一年振りに会いに来てくれたカオスが別れを言いに来たと知った時、あの時の孤独感は言葉に表す事など到底出来なかった。

 だからと言ってセラがリョクシェントに、ヒリアスイに同情だけでついて行く訳にはいかない。

 

 「エルンストさんはヒリアスイ様の事を大切に思っているんですね。突き放す優しさって言うのはよく理解できないけど―――そういう人をわたしは一人知っています。」

 ラインハルトはセラを守る為に付き離し、別々の道を生きる事を選んだ。

 セラはまだそれをちゃんと飲み込めている訳ではない。表面上は理解しているつもりでいるが、心の方ではラインハルトの温もりを感じていたいという想いで溢れている。

 「わたしは未熟です。ごめんなさい…何もできない―――」

 セラは俯いて瞼をぎゅっと閉じた。

 ラインハルトへの想いとヒリアスイが抱えている孤独感を同時に感じ、セラの心が震えていた。

 脇に抱えていた本がすり抜け床に落下し、その音が暗い図書室に響き渡る。

 セラの足元に落下した本に、先に手を伸ばしたのはエルンストだった。

 「辛い思いをさせるつもりはなかった―――」

 エルンストは拾い上げた本をセラに差し出す。

 「貴方も大切な何かを失ったのですね」

 そう言ったエルンストの指がセラの頬に触れた。

 「あ―――!?」

 それによって初めてセラは自分の頬に伝う涙に気付く。

 「泣かせるつもりはなかったのです、お許しください」

 考えまいとすればするほど脳裏に浮かび、払い除ける事が出来ない愛する人への想いと過去に感じた孤独感。

 いつかは乗り越えなければいけない壁だと分かっているのに、ふとした瞬間に心が震え涙が溢れてしまう。

 いや…泣けるうちはまだ大丈夫なのだ。

 本当に辛い時は涙すら出ない。

 (わたしはまだまだ平気だ―――!)


 セラはもう一度瞼を閉じて溜まった涙を追い出した。

 するとエルンストが再び涙を指で拭いそのまま指をセラの顎まで這わせると、親指でゆっくりとセラの下唇をなぞる。

 セラはその仕草に驚いて顎を引き、一歩後ろに後ずさった。

 「ごめんなさい、わたし―――失礼します」

 慌てて走り去ろうとしたセラだったが、エルンストの横を通り過ぎる際に腕を掴まれてしまう。

 「あのっ…!」

 見上げるとそこにはエルンストの強い眼差しが合った。

 男の人など怖くはない、セラはそれを払い除けるだけの力を持っている。

 しかし今、セラはその瞳に射抜かれた様に凍り付き動けなかった。

 何故だか分からない―――怖い訳でもないのに―――


 「これを―――」

 エルンストは掴んだ腕を離し、セラの前に一冊の本を差し出す。

 先程セラが取り落とし、エルンストが拾い上げたものだ。

 「忘れ物です。」

 そう言ってエルンストは優しく微笑むとセラに本を手渡した。

 「―――ありがとう」

 ぼんやりと本を受け取るとセラは宿題を調べるのも忘れて図書室を出て行った。






 暗い図書室でエルンストがセラを見送っていると、間もなくして本棚の影から女が姿を現わした。

 

 冷たい空気の中で柔らかな金の髪がふわりと揺れる。

 「あなたが手を出さないなんて意外な事もあるのね。」

 ヒリアスイは珍しい物でも見る様な目でエルンストを見上げた。

 「素直で一途そうなああいうの、好きでしょ?」

 純粋そうな娘ほどもであそんでやりたくなる。

 まったくその通りだとでも言うようにエルンストは口角を上げた。

 「今手を出しても抵抗されて終わりですよ。」

 小娘と言えど、相手はあの世界を救った魔法使い…迂闊に手を出して拒絶されたら全てが一貫の終わりだ。 

 リョクシェントに連れ帰れば時間はいくらでもある。


 「所で…わたくしの母はまだまだ元気よ?」

 ヒリアスイの母親はすでに死んでいるとセラに話した。

 そう言った方が不幸を語るにあたり臨場感が湧くと言うものだ。

 「城にはお住まいでないのですから大して変わりはしないでしょう。」

 いてもいなくてもそんな事はどうでもいい。

 今はいかにしてセラの同情を煽り、心の隙を付いて入り込むかだ。

 「実質あと二日…時間は無いけど何とかなりそうね。」

 ヒリアスイはくすりと笑う。

 「ええ、心やさしいお嬢さんで本当に助かりました。」

 エルンストはセラの去った方向を再び仰ぎ見た。


 そこはただ闇が広がるだけ。

 その闇の中に彼らの望む者が、あと少しで手に入る所まで来ている。

 エルンストはセラの唇を撫でた感触を思い出し、己の指を舐めた。

 

 

 

 

 


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