迫り来る手
イクサーンは雪解けの季節を迎えていた。
セラはハウルの講義にウェインからの剣の指導、そして毎日欠かさずイルジュが囚われている塔を訪れるのを日課にしている。
イルジュは未だセラ以外とは口を聞く事が無く頑ななままだったが、セラを拒む事も塔から逃げる事もしなかった。
イルジュはリリス王妃の命を危険に曝し、王妃お気に入りの侍女(と言う事になっている)を攫った咎で塔に幽閉されていたが、未だリンハースの追及は激しく、イルジュの引き渡しを要求して来ている。
いっその事逃げ出してくれたら…対応にあたるシールはそう思わずにはいられない。
逃げ出そうと思えば逃げられる筈である。それなのにイルジュの望みは極刑で、リンハースの第四王子であったレスティオと同じように死を願っている。それをイルジュが言う度にセラが怒り出し、塔からは死ぬ死なないと二人の言い争う声が響き渡っていた。
そしてそれは突然やって来た。
いや、予想はしていたと言うべきか。
雪解けに合わせるようにしてリョクシェント王国から一人の使者がイクサーンに使わされて来た。しかも運の悪い事に日を同じくして、リンハースからもイルジュの引き渡しを求め新王自らがやって来るという気合の入れよう。これにはさすがのカオスも渋い顔になり、シールは今すぐ消えてしまいたくなった。
だがそう言う訳にもいかない。
リョクシェントからの使者は、リョクシェント王の末娘にあたると言うヒリアスイ王女が選ばれ、多くの従者を引き連れて来ていた。
金色に輝く髪は緩やかな波を打ち、潤んだ瞳は碧眼。肌は白く年の頃は二十歳で儚げな印象を持ち、思わず守りたくなるようなたおやかで美しい娘であった。
ヒリアスイ王女は元騎士であるカオスの心を擽るに相応しい交渉相手とも言えよう。
これは強敵になる―――
そう思ったシールはこの状況にはうってつけの相手を思いつく。
人の話を聞かず自分のやりたいように行動し手に余る人、リリス王妃だ。
リョクシェントの王女を相手するにあたり、リリスはカオスに次ぐ相応しい身分の相手であったし、先ずはリンハースの王の相手をするのが先だった。
セラが多忙になり暇を持て余していたリリスは、ふって湧いた話に喜んで相手をすると言う。王妃に借りを作るのは気が引けるが、先ずは数か月前に即位したばかりのリンハースの王である。
シールはリリス王妃とヒリアスイ王女を引き合わせ急ぎ応接室に向かうと、前方にセラの姿を認めた。
ああそうだ、まずはこの騒動娘を何とかしておかなければ―――
シールが早足でセラに向かって歩いて行くと、セラの方はシールに走り寄って来た。
「イルジュをリンハースに渡しちゃうの?!」
切羽詰まった声色でセラが纏わり付く。
リンハースの王がイルジュの引き渡しを要求して城を訪れた事はセラの耳にも届いていた。セラはセリドと共にハウルの講義を受けていた最中であったが、それを聞いていてもたってもいられず飛び出して来たのである。
最近ぐっと大人びて来たセラは、縋る様な瞳でシールを見上げていた。
「陛下にはそんなつもりは毛頭ありませんよ。」
シールはセラを安心させるように笑顔で答える。
「イルジュの事は陛下にお任せ下さい。それよりもセラ殿は、今すぐにウェインのもとへ行って下さいませんか?」
「何で?わたしもリンハースの王にイルジュの事をお願いしてみるわ。ラインハルトの事もちゃんと説明すれば分かってくれると思うの。」
「いいえ、それは駄目です!」
シールはセラの肩を掴んでかがむと目線を同じ高さにした。
「リンハースが再び貴方を狙わないとも限らない。それに今この城にはセラ殿を国に迎えたいとリョクシェントからの使者が来ているのです。」
「リョクシェントって…隣の国の?」
「そうです。リョクシェントはセラ殿を望んでいます。セラ殿はリョクシェントに行きたいとお思いですか?」
リョクシェントはセラにとっては未知の国だ。知る者もいないし行く理由もない。それにセラはラインハルトの言葉を最優先する。
イクサーンで幸せになれ―――
ここにいる事で周りに迷惑がかかっているのは知っていたが、城はともかく、ラインハルトが認めたこの国を出る気など全くない。
セラは強く頭を降った。
その様子にシールはほっとする。
「でしたらウェインの所へ行って側を離れないで下さい。もしウェインが見当たらなければマウリーでも構いません。リョクシェントは多くの従者を連れてきていますので見つからないように行けますか?」
「それは大丈夫。」
「私が迎えに行くまでウェインの側を結して離れないで下さい、いいですね?」
シールが念を押すとセラは大きく頷いた。
「分かった。ちゃんと言う事聞くからイルジュをリンハースに戻したりしないであげて…」
本当なら今すぐイルジュの側に行って見張っていたいくらいだった。だけど国の情事に関わる事もあるのだし、今はシールの言う通りにするのが賢明なのだろう。
セラが姿を消すとシールは琥珀色の守りの石を取り出し、ぐっと握りしめた。
シールが応接室の扉を開くと、カオスのうんざりした声が耳に飛び込んで来た。
「ですからあれは我が妃に害をなした輩…それ故我が国で極刑に伏すのが筋と言うものであろう。」
何度言えば分かるのかと、カオスはリンハースの新王…シンクラウ王から視線を外した。
「そう言われますがあれは未だ刑に伏されてはおりますまい。聞けば牢にも入れられていないとか。」
ウィラーンの侵攻を受け、先王の直系が廃された後に即位させられた王はまだ若く三十歳。先王の甥ではあるが、本来ならリンハースの王位に就くにはあまりにも遠い継承順位であった。
保守的になるのはそのせいもあったが、王として即位したからには自国の民を守り良き王になりたいという気持ちも強い。その為にも最初に成そうとしたのが、ウィラーンに対し敬意を払うと言う事。イルジュを戦犯として裁き、現リンハースはウィラーンに仇成さぬ存在であると確実に見せつけたいのである。
そんな事せずともラインハルトが引いた時点で理解すればよいものを―――
カオスはため息交じりに答える。
「地下に繋ぐばかりが牢とは限らぬであろう。」
「王妃に仇なした忌々しい魔法使いにまで同情されるか?」
忌々しい魔法使い。
その言葉にカオスはピクリと反応する。
「それはいかなる意味か?」
カオスの鋭い眼光が向けられシンクラウは一瞬怯むが、自分は対等なリンハースの王だと自身を奮い立たせ胸を張る。
「でははっきり申し上げよう。カオス王が魔法使い肯定派であるのは周知の事実。それに対して私は何も申しはしません。しかし、あの魔法使いは我がリンハースの者。戦犯たるレスティオの右腕として働き、リンハースに多大なる被害をもたらした。それ故に我が国にて相応しい刑を与えるのが筋と言うものではあるまいか。こちらとてカオス王が言われるよう、リリス王妃に害をなした輩に相応しい刑を用意致しておりますぞ。」
確かに―――シンクラウの言う通りだとシールは心で頷く。
リリス王妃に害をなしたと言うのはこちらの勝手な言い分だ。リンハースとてそんな事解り切っているからわざわざ非公式とは言え、王自らがイクサーンに出向き決着を付けに来たのである。このまま手ぶらで帰る訳にはいかないだろうし、シンクラウの言う通りイルジュは戦犯としてリンハースで裁かれるのが正しい。
カオスは深く溜息をつき腕を組んで考え込む。
暫く沈黙が続いた後、カオスはシンクラウを正面から見据えた。
「リンハース王…貴方はラインハルトがリンハースに進行し、陥落直前まで行きながらも軍を引いたその意味を理解しておられるか?」
「軍を引いた意味?」
それははっきり言ってシンクラウにも先王達にも謎だった。
セラを攫ったのはリンハースの王位を狙ったレスティオのまったくの単独行動。
確実にウィラーンを落とせると豪語し、先陣としてレスティオの軍がウィラーンの国境を目指したまでは周知の事だが、まさかそこにたった一人の娘が関わっていよう等とは思いもしない。
「リンハースの…レスティオの敗因は、レスティオがラインハルトの大切なモノを傷つけた故その逆鱗に触れたからだ。そしてその逆鱗を止めリンハースを救ったモノは、あの魔法使いにいたく執心しておる。それ故、私もあの魔法使いに刑を下せずに至っておると言えば…ご理解いただけようか?」
ラインハルトの大切なもの―――
あの王が自身の誇り以外に大事にするモノなどあると言うのか?
シンクラウは何を言い出すと言った呆れた顔でカオスを見据え、その真剣な眼差しに押されもう一度思案を巡らせる。
他に何かあるのか?
それは、あの噂の事を言っているのか?
長きにわたり王妃を迎えなかったラインハルト王が年甲斐もなく見染めた娘がいると言う。その娘に王妃の指輪を与えた―――
しかしその噂が流れてから暫く立つが、ラインハルト王が王妃を迎えた話は未だに伝わって来る事なく、事実も掴めない。それ所か、あのラインハルト王が娘一人の為に腰をあげて何かを遣り遂げるなど考えられるだろうか。
そんな荒唐無稽な話―――信じられよう筈がない。
逆に何を企んでいると言うシンクラウの表情に、やはり信じる事が出来ないかとカオスは頭を抱えた。
たとえそれが事実だとしても、あのラインハルトがセラに悲しい思いをさせたくないが為、それだけの理由で、陥落直前まで攻めたリンハースから手を引いたなどと言う馬鹿げた話―――いったい誰が信じると言うのか。
なるべく嘘っぽくならないよう話そうとしても、あまりに有り得ないラインハルトの状況が全てを嘘に変えてしまう。
もう勝手にやってくれとも言いたいが、イルジュを渡せば確実にセラは後を追い、再びラインハルトが出て来てややこしくなってしまう。
カオスとて、もう二度とあの地獄絵図の様な血みどろの戦場は見たくはなかった。
「それにあの時のラインハルトは魔法使いなど眼中になかったぞ。それをわざわざ蒸し返しすは、リンハースを再び危険に曝す事になるとは思いはせぬか?」
「それは…何処までが事実か掴みかねるが―――」
ほう…こちらに食い付くか。
「しかし…カオス王が我が国を思って下さるは有り難き事ではあるが、あれが戦犯である事には変わりがない。我が民は我が国へ連れ帰るのが妥当と言うもの。」
「あくまで戦犯扱いに拘られるか―――」
イルジュの身を守れるなら渡しても問題無いのではあるが、リンハースの魔法使いに対する扱いは目に余るものがある。
「シンクラウ王よ、残念ながらあの魔法使いは大きな火種になるやもしれん。その覚悟があるならリンハースへ連れ帰られるがよい。だがその火種が大火事を起こそうとイクサーンは今後一切構いはせぬぞ。」
これで終わりだと突き放して見る。
するとリンハースの若き王は、カオスの言葉に思いを巡らしている様子だ。
何しろカオスはラインハルトと共に世界を救った王なのである。
ラインハルトとは逆に、誠実で悪い噂一つない王がこれ程言うのだ。イルジュの引き渡しを拒否され続け痺れを切らして乗り込んで来ては見たが、覚悟して連れて帰れと言われてしまうと、何とも歯切れの悪いものになってしまう。
「あれに何があると?」
イルジュは魔法使いだが大した術が使える訳ではない。癒しの力も結界を張って何かを守る事もできず、人を傷つける魔法も大して使えなかった筈だ。
「あの魔法使いに何かある訳ではなく、リンハースがあれに行った非道な扱いに腹を立てている者がいると言うだけだ。」
「それはカオス王自身の思惑では?」
「そう思われるなら国を賭け確かめられるとよかろう」
「解りました、私も自国の民をこれ以上危険に曝したくはない。カオス王の助言を聞き入れこのまま退散致すとしましょう。」
シンクラウの言葉にカオスはやっと肩の荷を下ろす。
「解って頂けると有り難い。」
「黙って退散する前に、あれに二つ三つ聞きたい事があるのだが宜しいか?」
王とは言えリンハースの者とイルジュを引き合わせるには不安があったが、断る理由もなくカオスはそれを許可する。
「宜しいのですか?」
シールは不安を覚えた。
何しろイルジュはレスティオを追って死ぬ事を望んでいるのだ。シンクラウとイルジュを会わせて何か問題が起こればセラが騒ぎだす。
「セラはどうしている?」
「呼びに行くまでは戻るなと言ってウェインの所に行かせました。」
「なら大丈夫であろう。シンクラウ王を塔に案内してくれ。」
外を見やると陽が傾きかけていた。
「これからリョクシェントの王女の相手をするのか―――」
遠い昔の騎士時代ならともかく、王となった今あの手の貴婦人は苦手な部類だ。
ラインハルトがカオスの立場なら…セラを渡せと言われた時点でリョクシェントに武力行使だな―――
「まったく参考にならん奴め」
日頃の政務の方がどれほど楽かと、カオスはシールが戻るまでしばしの間執務室に逃げ込む事にした。
イルジュは目の前に現れたシールとシンクラウに敵意を剥き出しにした。
無言で二人を睨みつけ、近寄るなと黒い瞳が語っている。
「こちらはリンハースの新王、シンクラウ陛下です。」
イルジュが無言かつ無愛想なのはいつもの事。
シールは構わずリンハースの新しい王を紹介すると、イルジュの敵意が一瞬緩み、シンクラウに視線を向けた。
警戒しながらもシンクラウはイルジュに近寄る。
「随分と愉快な暮らしをしているようだな」
さすがにこの状況には驚かされる。
塔の最上階に幽閉され自由は無いが部屋は清潔にされている。粗末とは言えない寝台には温かそうな寝具がかけられ、壁際には小さな机と椅子が備え付けられていて、その机の上には白い花冠まで置かれてあった。
イルジュの身体的要素から察するに、食事も満足なものが与えられているのであろう。血色のよい肌に、リンハースの魔法使いとは思えない程健康そうな姿をしている。
リンハースではほんの少し前まで、魔法使いと言えば有無を言わさず地下の牢に繋ぐか処刑されていた。今はそれも少しは落ち着いて来ているが大差なく、魔法使いと知られると何かと理由を付けられ陽の射さない地下牢に放り込まれる。不衛生な環境と腐った僅かな食べ物で命を繋ぐものもあるが、その殆どがそこで命を落として行く運命にあるのだ。
国と考え方の違いだとしても、イクサーンは何故これ程まで魔法使いに寛大になれるのか。
いつ何時掌を返されるとも限らない危険な存在。その怖さをカオス王は身をもって知っている筈なのに―――
「俺を迎えに来たのか?」
口を開いたイルジュにシールは驚いた。
塔から漏れ聞こえる声は耳にした事があったが、それはセラが側にいた時に限られた。今までセラ以外の者に対して結して口を開いた事の無いイルジュが、リンハースの王に質問したのだ。
「慣れ親しんだリンハースの牢獄が恋しいか」
シンクラウの皮肉が飛ぶ。
あそこは人の生きれる場所ではない。
「あんたは、俺を殺しに来たんじゃないのか?」
それがイルジュの望みだった。
何の役にも立たない魔法使い。レスティオがいない今、主を失ったイルジュに生きる意味はない。
「死にたいなら己で死ね。」
王自らが魔法使い如きに手を下したりはしないと、そう言っているようだった。
側で聞いていたシールは、リンハースの魔法使いに対する迫害が想像以上なのだと認識する。
ラインハルトの治めるウィラーンは大陸一の魔法使い否定国だが、だからと言ってそれはアスギルが原因で始まった訳ではない。自ら剣を取り自国を守ると言う軍事国の精神の様な物で、魔法使いを見付けては捕え、拷問すると言った事は決してない。ウィラーンは魔物も多く存在している為、魔物を切る聖剣は魔法使いにしか作れず、事実は不明だが、聖剣を生産する為の魔法使いの村が何処知れず存在すると噂まであった。
反してシンクラウは、自国の民を守る精神は持ち合わせているにしろ、魔法使いを人とは認めていない節が伺える。
こんな状態でイルジュをリンハースに戻すのは余りに非情な判断ではないか。
シールはイルジュを引き渡してもいいと考えていた自分が、いかに無知で非道な人間だろうと恥ずかしくなる。
ここにセラがいたらどれ程の怒りを爆発させたであろう。
「シンクラウ王、この者に訪ねたき事があったのでは?」
非礼だと思いつつもシールは口出しし、一刻も早くイルジュからシンクラウを引き離したいと思った。
「これは失礼した―――」
罪人でもある魔法使いを前にシールが側にいるのも忘れていた。
シンクラウは己を取り戻し、改めてイルジュに向き直る。
「お前とレスティオはいったい何をしていたのだ。」
前王の時代からリンハースはウィラーンに対し敵対心を持っていた。身の程も知らずウィラーンを手中にせんと画策しては無駄に終わり、それでもあきらめない様はシンクラウが見ても滑稽で。その中でも冷静に虎視眈々と王位を狙っていた第四王子のレスティオが、急にウィラーンへ軍を進めたかと思うと行方知れずのまま訃報が届く。そしてリンハースはあっと言う間にウィラーンの侵攻を受け、陥落寸前まで追い込まれた。
ラインハルトが軍を引いた原因はいったい何なのか―――疑問に思う事ばかりだ。
「レスティオ様はリンハースの為に動いたんだ。本当なら今頃あんたじゃなくレスティオ様が王になっていた筈なのに…」
どんな理由にせよ、イルジュを地獄から救い出してくれたのはレスティオだ。目の前にいる男は絶対に魔法使いの手を取り、地獄から引き出してくれたりはしない。
「ウィラーンに勝てる自信は何処から来ていた?」
シンクラウはイルジュの胸倉を掴むんで締め上げる。
息苦しさに顔が歪むが、イルジュは抵抗する事なくシンクラウを煽った。
「レスティオ様に出来た事が新王にはできないか…」
魔法使い如きが―――!
シンクラウは怒りにまかせイルジュの胸倉を掴んだまま壁に放り投げる。
投げられたイルジュは頭を壁に激突させ唸り声をあげた。
額から赤い血が流れ落ちる。
それに構わずシンクラウは拳を振り上げた。
「シンクラウ王っ!」
罪人とは言え余りの暴挙にシールが止めに入ろうとすると、目前を金色の何かが走り抜けた。
ガツッ…
鈍い音が響く。
金色の何かがイルジュを守る様に覆い被さっていた。
「な―――んで?」
イルジュの声が漏れる。
「セラっ!!」
小さな部屋にセラを追って来たウェインの声が響き、続いてシールがその名を呼ぶ。
「セラ殿?!」
拳を振り下ろした本人は突然現れた金色の髪を持つ娘と、故意ではないとは言え娘を殴ってしまった現実に怯んでいた。
セラはイルジュを守る様に首と頭に手を伸ばし、力任せに抱きしめている。
「何が―――」
何があったのかとウェインが口を開く。
シンクラウが拳を下ろす瞬間をウェインは見ていなかったのだ。
「離せよ」
イルジュはセラを引き離そうとするが、セラはイルジュの肩に顔を埋めたままいやいやと無言で頭を降るばかり。
「これは…失礼を―――」
セラが背中を向けている為魔法使いとは気が付かず、シンクラウはさすがに女性に手をあげたと焦って詫びを入れる。
「シンクラウ王、ここは一度お引き下さいませんか。」
女性に手をあげばつの悪いシンクラウは、シールの願いを素直に聞き入れ塔から退散した。
「セラ殿、もう大丈夫です。顔をあげて下さい。」
シールは背中をさすり優しく語りかけるが、セラは頭を振るばかりで一向にイルジュから離れようとはしない。
まさか突然セラがここに来るとは思いもしなかった。
シールはセラを追って来たウェインに視線を送ると、ウェインは更に訳が解らない顔をしている。
「泣いている…とか言って突然走り出したんだ。」
シールに言われた通り、あの後セラはウェインの元に向かった。
どうせウェインの側にいるのだからと鍛錬場で剣の稽古に励んでいると、セラの耳に…イルジュの泣き声が届いた様な気がしたのだ。
セラは稽古の手を止めると剣を放り出し、突然走り出したのである。
「なんであんたが泣いてんだよ―――」
イルジュの耳元でセラの嗚咽が上がる。
嗚咽をあげながら、セラはやっと言葉を絞り出した。
「何でッ…なんでイルジュはっ…生きたいって言ってくれないのっ―――」
死ぬ事ばかり、追う事ばかり考えるの!
「生きたくって…生きる為にっ…レスティオの手を取ったんじゃないのっ?!」
嗚咽交じりの言葉。
救ってくれたレスティオが死んで、その後を追う事ばかりを考えていた。
縋り付く相手がいなくなって再び、またあの世界に突き落とされたように感じていて…
死にたいと思った。
ずっと、いつもいつも死んでいなくなってしまいたいと思っていた。
それなのに―――どうして自分は生きているんだろう?
『己で死ね』とシンクラウ王の言葉通り、ここに囚われた最初の頃はそのつもりだった。
それが…毎日の様にやって来るおせっかいのせいで、何時の間にかそれすら出来なくなってしまっていた。
イルジュは抱き付いて泣くセラの背に震える手を回す。
最初は遠慮がちに…やがて金の髪を鷲掴みにして縋り付く。
「俺は―――あんたなんか嫌いだ―――」
セラと同じように、イルジュはセラの肩に顔を埋めて泣いた。
翌朝――――
セラが塔を訪れると、そこにイルジュの姿はなかった。
何時かセラが贈った白い花冠も、その日からイルジュと共に忽然と消えていた。