肉体と精神の苦痛
夜明け前にリリス王妃から速馬で届けられた手紙は、まず初めに宰相であるシールの手に渡った。
どうでもいい内容の手紙を時間に関係なく寄こすのが王妃のやり方であった為、至急と銘打った手紙にシールはぼんやりと視線を落としていた。しかし、開封を遮る為の封印がされていない事に気付くと、シールは一気に頭が冴える。
偽物か―――?
偽装の手紙を王に渡す訳にもいかないし、まして夜も明けやらぬ時間。
いつもくだらない手紙の内容をしたためるリリスであった為、そんな物の為に王の眠りを妨げる訳にもいかない。
シールは何の躊躇もなく手紙を開いき―――そこに記された驚愕の内容に目を見開くと王の寝室へと直走った。
乱れた文字で書かれてはいたが、筆跡は間違いなく王妃の手による物。封印する間もなかったと伺える内容だ。
カオスはリリスの齎した知らせに、雷で撃たれた様な衝撃を受ける。
「ウェインを呼べ!!」
その言葉に使いの者をやるではなく、シール自身がウェインの眠る騎士の宿舎まで走った。
浅い眠りに落ちていたウェインは、血相を変えたシールにただならぬ何かを感じて宿舎を飛び出しカオスの元へと向かう。
既にカオスは着替えを済ませ身支度を整えていた。
カオスから無言で渡された手紙に目を通すと、その内容にウェインは言葉を失う。
俺のせいだ―――!
一連の出来事全てがウェインを深い後悔へと導いた。
何故一番大事な時に側にいてやれなかったのか…ウィラーンへの旅に同行してからずっとセラの側で見守り続けて来たというのに、何故こうも簡単に手を離してしまったのだろう。
マウリーの言う通りだ。何故、奪い取ろうとしなかった?
それを怠った為にセラは今―――
「レトに向かいます―――」
絞り出された言葉には幾多もの感情が入り混じっていた。
「手放したのではなかったのか?」
真意を問うかにカオスの灰色の瞳がウェインを見据える。
「奪い返します、必ず―――!」
「ならば行け、国境を超えさせるな。」
ウェインは頭を下げ部屋を飛び出すと戻って来たシールと擦れ違う。
シールはカオスが既に身支度を整えているのを見て、この状況で引き止めるのは無理と判断した。
「直ぐにクレイバを呼んで参ります。それまではくれぐれも単身にてご出発なさらぬように願いますよ。」
「ラインハルトが来るぞ―――」
その言葉に今から起こるであろう出来事を想像して、シールは目眩が起こりそうになった。
床にぐったりと横たわり、セラは寒さと痛みに気を失いかけていた。
冷たい指先の感覚は失われていたが、ある一点だけが焼かれた様に熱い。
人の気配を感じてセラがうっすらと瞳を開けると、イルジュがセラの手に布を巻こうとしている所だった。
「俺は治癒の魔法が使えないんだ。」
瞼を伏せてイルジュはセラの左手に布を巻きつけるが、慣れていないようでなかなかうまく巻く事が出来ない。
「あんた馬鹿だよ。どうせ捕られるんだから素直に外しておけば指まで失わずに済んだのに。」
緩々に巻かれた布、これで出来上がりの様である。
「ここはリンハースなの?」
力なく質問すると、意外にもイルジュは答えた。
「違う、イクサーンだ。国境までまだ何日かかかる。」
セラは同じ年頃のイルジュを見上げる。
「何であいつの言う事なんて聞いてるの?」
何の迷いもなくセラの指を切断したレスティオと、不慣れな手つきでセラの傷の手当てをしたイルジュはまるで似つかわしくない。
セラを見るイルジュの目は何処となく寂しげであった。
「レスティオ様は俺を救って下さった方だから―――」
イルジュはセラの傷ついた手を見つめたまま「お前は知らないだろうけど」と続けた。
「今は大分ましになったけど、ちょっと前までは魔法使いと知れれば牢に繋がれるか処刑されるかだ。うまい具合に結界師や魔法医師としてそこを出る奴もいるけど殆どが殺される。俺は結界も作れないし治癒の力もなかったから、一生牢獄で拷問を受けながら死ぬ運命だったんだ。」
物心ついた時から光の射さない地下の牢獄にいた。
抵抗する意欲を削ぐ為と称して毎日の様に鞭打たれ、爪を剥がれ殴られると言った拷問を受ける。歯を抜かれる物、耳を削がれる者や目を抉り取られる者もいたので、その中にあってイルジュはまだましな待遇だった。
それが普通の世界なのだと信じていたイルジュは抵抗する事なく牢の隅で震えて過ごし、時々牢の床に投げ捨てられる腐った食料を奪い合って何とか生き長らえていた。
その生き地獄から光の世界に救い出してくれたのがレスティオだった。
温かい塒とまっとうな食事を与えられ、手を貸して欲しいと言われた時、イルジュはその温かい言葉の意味がまったく理解できなかった。それでも、全てに怯えていた幼い少年にはレスティオが輝く神様の様な人に映っていた。
時が過ぎるとレスティオがイルジュを利用する為に牢獄から連れ出したのだと言う事を知るが、そんな事どうでもいい話だ。
地獄から救い出してくれた―――それだけは何物にも変えられない真実なのだから。
「あんたはいいよな、世界を救った魔法使いとして崇拝される。でも俺らは一生大手を振って外を歩けはしないんだ。」
妬みを孕んでいる訳ではないが、その言葉はセラの胸に突き刺さった。
セラは魔法使いである前に外見上の理由で恐れ忌み嫌われた。だが、目の前の少年は魔法使いと言う理由でいわれない迫害を受け、地獄の様な世界に突き落とされていたのである。
リンハースと言う国が魔法使いに対してそれ程の扱いをしていると言う事実に、セラは大きな衝撃を受けた。
全てはアスギルと言う強大な魔法使いの力を恐れた結果だ。
あれ程凄まじい力を持った魔法使いなど恐らくもうこの世には存在していないだろう。唯一それに近い魔法使いもいたが、そのフィルネスであってもアスギルには到底敵いはしないのだ。
人は、異形と力を恐れすぎている。
だけど、本当に怖いのは人間の欲なのではないのか?
魔法使いに対する迫害も、全て人の我儘から生みだされた物ではないのだろうか。
「レスティオがやろうとしている事は分かってるんでしょう、どうして止めようとしないの?本当にラインハルトに勝てると思ってる?!無駄な戦争で沢山の罪のない人たちが死んじゃうんだよ!」
「罪のない人間なんて何処にいるんだ?」
否定ではなく疑問だった。
「俺はそんな人間なんか一人も知らない。あんたは何の罪もない人間なのか、罪があれば死んでもいいのか?」
確かにイルジュの言う通り何の罪もない人間なんていないのかもしれない。
だけど―――
「罪のあるなしで死んでいい人なんていない。戦争がなければ死ななくてもいい命が失われるって事よ。失った命は二度と戻らないから、そう簡単に扱っては駄目なんじゃないのかな。」
イルジュはセラの言葉に俯いて考える様な仕草をする。
「でも俺はレスティオ様がいいならそれでいい。レスティオ様が望めばあんただって殺せるよ。」
イルジュにとってはレスティオが全てだった。
「もうすぐ夜が明ける、その前に出発するから抵抗するなよ。」
抵抗しても痛い目を見るだけだとイルジュは警告した。
南に位置するウィラーンで雪が降るのは稀である。
しかしイクサーンとの国境付近にあるタオリクの町には珍しく小雪が降り注いでいた。
不穏な動きを見せるリンハースに送った間者の情報では、リンハースの第四王子率いる一軍がウィラーンに攻め入る為軍を寄せて来ているとの事。
弱小国が楯突くとは忌々しい―――ラインハルトはマクシミリアンと軍を引き連れ、リンハースとの国境にも近いタオリクに滞在していた。
落ちては溶ける雪を眺めながら、久し振りの戦いを前に騒ぐ胸を落ち着ける。
少しは手応えを見せてくれるのだろうな―――
肉を切る感触を思い出しラインハルトが口角を上げた時、リンハースの使者と名乗る男がラインハルトの前に連れて来られた。
男は大きな革の包みを抱えており、それは幾重にも厳重に包まれていたが隙間をぬって水滴が止めどなく滴り落ちていた。
リンハースの使者が何を持って来た?
誰もがそれに意識を集中させる中、ラインハルトは座を立つと男の前で止まる。
「面を上げよ」
ラインハルトの言葉に従い男が顔を上げると、その瞳は強い意志と死の陰りを湛えていた。
当然だともいえよう。
この時期リンハースから寄こされる使者と言えば開戦を伝える為意外にはない。敵国となった瞬間、使者が再び生きて祖国の地を踏める事などあり得はしないのだから。
使者を寄こす暇があるならさっさと攻め入ればよいものを―――さすれば即刻返り討ちにしてやる。
しかし、開戦を伝えるにしては持参して来た物は腑に落ちない。
「それは何だ」
「リン…ハース、第四王子…レスティオ様よりの…でっ…伝言でございますっ―――」
ラインハルトに睨まれた男は恐怖のあまり震えて上手く言葉が出せず、顔を伏せ革の包みに手を伸ばすと紐を解いた。
中には大きな氷の塊。
都のキエフリトまで持たせるつもりだったので、氷は溶け切らず大きな塊のままだった。
これは何だと眉間に皺を寄せる。
ラインハルトは氷の中心にある小さなものが何であるのか一瞬解らなかった。
そこにある物が何であるか確認できるに従い、ラインハルトの表情が怒りに変わり―――今まで発した事もない異様な殺気が全身から溢れだす。
結して見紛う事はないそれが氷漬にされ、ラインハルトの前に舞い戻って来ていた。
青い輝きを放つそれは、ラインハルトがセラの指に嵌め与えたもの。
この世に二つと存在しない、ラインハルトの持つそれと対となる王妃の指輪。
そしてその指輪は、氷の中であってさえもセラの指を離れる事なく輝いていた。
「指を切ったのか?!」
声をあげたマクシミリアンは顔面蒼白で剣を抜き、男に向かって振り下ろした。
刹那―――剣と剣が交わる鈍い音が響く。
「陛下っ、やらせてくれ!」
ラインハルトが己の剣を抜き、男を切り裂こうとしたマクシミリアンの剣を受け止めていた。
視線は男を見降ろしたまま―――沸々と湧きあがるラインハルトの怒りがマクシミリアンにも伝わって来た。
「楽には逝かせん―――」
ラインハルトは近くにいた兵士に命じる。
「まず指を落とせ。全ての指を落としたら鼻と口と耳、それから陰部を切り落とし目を抉れ。最後に両手両足を落とし楔に繋いで獣にくれてやるのだ―――切り落とす間は結して意識を失わせるな。」
覚悟はしていたものの、男はこれから訪れる拷問の恐怖に身震いを起こす。
ラインハルトはそれを見逃さなかった。
「奴の居場所を言え―――さすればひと思いに殺してやる。」
その言葉に男はぐっと口を噤んだ。
ラインハルトは男を連れて行けと命じると、手にした剣の先で氷を一突きで砕く。
凍りついた小さな指に触れ、そっと指輪を抜き取る。
セラの意思が強くレスティオ達では抜き取る事の出来なかったその指輪は、あまりにも呆気なく、ラインハルトの手によってすんなりと外れる。
ラインハルトは凍った指輪をその大きな手に握り締め、残ったセラの薬指は氷で固めたまま氷室に移すように命じた。
「国中から全軍を呼び集めよ―――」
仕掛けて来るのを待つのではなくこちらから仕掛けてやる―――!
「リンハースへ進軍し一気に都を落とせ!!」
マクシミリアンに命じると、ラインハルトは男の口を割らせる為自ら拷問の場に足を運んだ。
馬車に転がされ、ぐったりと横たわるセラの正面には苛つくレスティオと、不思議そうにセラを見下ろすイルジュが座っていた。
セラの左手に布は巻かれておらず、代わりに奇怪な方向に曲がってしまった四本の指がぶら下がっていた。
右手は小指と薬指の二本が紫色に変色し内出血の痕を伺わせる。
セラの持つ守りの力はあまりにも強大で、他の王子たちを退けリンハースの王位を狙うレスティオはその力がどうしても欲しかった。ウィラーンを落とし、その後に大陸を支配するのにもいづれ必要になる力。
レスティオに従うのを拒否する度にセラは一日に一本、指を折られ続けていた。
思い通りにならないセラの強い意思だったが、レスティオはいずれはセラを落とせる自信があった。
だからこの苛つきはそのせいではない。
近年稀に見るイクサーンの大雪はレスティオの行く手を遮るかに降り注ぎ、予定よりも遥かに後れをとっていた。
本来ならもうすぐ国境に差し掛かってもいい頃だったのだが、雪に馬車の車輪が取られ思うように進めないのだ。
このままではウィラーンへの進軍に間に合わない。
セラの指ごと送った指輪は既にラインハルトに届いている筈だ。それを見て軍を整えたラインハルトが侵攻して来るまでに、レスティオは何としてもセラを連れ、国境に向かわせた軍に合流しなければならなかった。
馬を使えばもっと早くイクサーンを出られるが人目にもつく。しかし街道にはすでにいくつもの関所が設けられていて、どちらにしても見つかる可能性が高くなってしまった。
レスティオはまだ陽の高いうちに次の塒に到着すると、夜を待って馬でリンハースへと立つ事を決める。
体を休める為に使うのは、かつてここがルー帝国と呼ばれていた時代に建てられ、後に戦火に焼かれ廃墟となって見捨てられた建物だ。その為周囲に人の気配がなく好都合であった。
「馬車を捨てここからは馬で移動する。娘は耐えられそうか?」
この七日、セラは殆ど何も口にしておらず、イルジュの魔法と指を折られる責めを受け続けているせいで気力も何も尽き果てていた。ただぐったりと横たわったまま息をしていると言う状態だ。
だからと言ってレスティオは手を緩める気など毛頭ない。
「運が良ければ―――」
イルジュはセラを抱き上げ、もともとは立派な屋敷であったであろう崩れた建物の中に入る。
このセラの状態で夜の冷気は相当堪えるだろう。
冬の夜を駆ける馬の上で過ごす事は到底無理な話だ。
だがレスティオがそれを望んでいる。だったらイルジュには反対する意思はない。
この日レスティオはセラに対する拷問は行わなかった。
馬に乗せる為気を使った訳ではなく、殆ど意識を失っている状態では意味がないと判断したからだ。
イルジュは主の望みを叶えるべく、ありったけの毛布でセラを包み体を温める。
セラの氷の様に冷たくなった手足をさすり、少しでも生気を取り戻させようとするが殆ど効果はなかった。
いっその事セラの能力を封じるのを止めてみようか―――
戒めを解けばセラの体力も少しはましなものになるだろう。
だがそれはイルジュ達にとってはとても危険な行為だ。
体がどんなに傷ついていようとも、セラ程の魔法使いなら意識さえあればいくらでも魔法は使える。
それで回復され鎖を解き逃げられてしまうのは厄介だ。
結界を張られてしまえば、たとえ目の前にいても見付ける事は出来なくなってしまうだろう。
「やっぱりあんたは馬鹿だ、レスティオ様に従いさえすれば死なずに済むのに―――」
何故この娘は首を縦に振らないのだろう。
苦痛から逃れる方法はいとも簡単だ。差し伸べられる手があるのだからさっさと取ってしまえばいいのに。
なのにこの娘は結してその手を取ろうとしない。
イルジュにはそれが不思議でならなかった。
その時突然扉が開かれ、剣を携えたレスティオが飛び込んで来ると素早い動きでイルジュからセラを奪い取る。
セラを片腕に抱き項垂れた顔を天に向かせると、その細い首筋に剣を突き付けた。
その後に続いて数人の男達が部屋へとなだれ込み―――凍りつくように立ち止った。
「剣を退いてもらおうか―――」
レスティオは不敵な笑みを漏らす。
そこに立っていたのはイクサーンの騎士、ウェインとマウリー。
そしてその後方にはカオス王の姿もあった。