抵抗
セラの手を握り、腰に手を回す青年。
何処となく陰湿で策略ありげな鋭い眼をした男に、マウリーは理由もなく腹が立った。
エスコートしている筈のセリドはいったい何をやっているのだと辺りを見渡せば、可哀そうな事に、媚を売りにきた陰気な男や娘に纏わり付かれてしまっている。その輩をセリドに捌ける筈もなく、いつもの猫かぶりで愛想を振りまいていた。
一番にセラと踊るのは自分だと決めていたのに―――
マウリーは大事な玩具を取られた子供の様に、セラを巧みにリードしながら踊る男を睨みつける。
一曲踊ってもリリスはマウリーの手を離さずそのまま二人は踊り続け、広間から男と姿を消すセラを捕えるとさすがのマウリーも焦った。
「あの男は誰なのです?」
「まぁ、どなたの事かしら?」
しらばっくれるリリスにマウリーは苛立ちを覚えるが、決してそれを悟られはしない。
「セラ殿と踊っていたあの青年です。」
「ああ、あの方…さて、誰だったかしらねぇ?」
リリスは踊りながら首を傾げて見せる。
「悠長な…不埒な輩でも入り込んでいたらどうするのです、リリス王妃。」
「わたくし直々の宴ですのよ、招待を受けたもの以外はネズミ一匹立ち入れませんわ―――」
でも―――
リリスは少し不安を覚える。
「実の所、あの方のお名前を思い出せませんの。でも見た記憶はちゃんとございましてよ。」
それを聞くとマウリーは無礼にも踊りを中断し、人混みに囲まれたセリドを助け出す。
リリス王妃も慌ててマウリーの後を追って来た。
「セラちゃんと踊っていたいけ好かない奴がいただろ、奴の名は?」
「…確かキシエンと名乗っていました。」
セリドは不機嫌に答え、マウリーは知っているかと無言でリリスを見降ろした。
「キシエンは確かに招待いたしておりますわ、けれど―――」
リリス王妃の顔が見る間に青ざめた。
「先程の方はキシエンではございませんわ!」
リリスが言葉を終えぬうちにマウリーは走り出していた。
「名を偽ったと?!」
ただならぬ雲行きにセリドも焦りの表情を浮かべる。
「そなた何故気付かなかったのです、キシエンは見知っておりますでしょう?!」
「知りませんよ、私は―――!」
リリスの言葉にセリドは記憶を辿る。
「十年ほど前に一度、キシエンと仲良く遊んでいたではありませんか!」
「母上―――」
その頃のセリドは三つかそこらの子供だ。
しかも十年前に一度遊んだ者の顔など覚えている筈がない。
「まあ大変―――セリド、そなたは近衛達に知らせなさい!」
言い残すとリリスはマウリーの後を追った。
マウリーはバルコニーに降り積もった雪の上に方膝を付いていた。
「マウリー、あの者は?!」
リリスの問いに無言で首を振る。
マウリーは割れたグラスの欠片を手に取り、そこに残る口紅の跡を見て冷たい旋律が走った。
セラの柔らかな唇に、マウリー自身が指でのせたその紅。
恥ずかしそうに笑ったセラの顔が脳裏を掠める。
「あの者は…リンハースのレスティオ王子ですわ!」
その言葉にマウリーは立ち上がって振り向いた。
大陸の南東に位置するリンハース王国の第四王子レスティオ―――
「噂は…真実の様ですね―――」
リンハース王国はウィラーン王国へ戦を仕掛ける手筈を整えている―――その噂は数年前から囁かれるようになっていた。
しかしウィラーンは、ラインハルト王が統治する強大な軍事国家。誰の目から見てもリンハースに勝ち目がある様には思えない。
だが―――ここでセラがリンハースの手に落ちたとなると話は別だ。
ラインハルトにとってセラは何物にも代えがたい存在。
王妃の証たる指輪までも手に入れた唯一の娘だ。
「レスティオ王子に間違いないのですね?!」
「…直接お会いしたのは五年程前ですけれど、間違いございませんわ。」
人違いでは済まされる話ではない。
「リンハースはラインハルト王に対して確執もございますし―――」
かつてリンハースは王女をラインハルトの妃として無理矢理差し出した事があった。しかしラインハルトはリンハースの王女を妃とは認めず、身分の低い妾同様に扱ったのだ。
誇りを傷つけられ怒った王女はリンハースに逃げ戻ってしった。
「国境を超えられては厄介です、私は後を追いますので王妃は陛下に―――!」
「わかしましたわ!」
マウリーは礼服姿のまま剣を取り外套を着込むと、馬に飛び乗り雪に刻まれた足跡を追った。
人の話し声が聞こえ、セラは目を覚ました。
寒く薄暗い、長い間使われていないのか埃と黴の交じった匂いのする部屋。
遠くで聞こえた様な気がしていたが、目を開けると意外にすぐそばに声の主が存在した。
一人は知っている。
椅子に腰を下ろして座っているのは、三十歳前後の青年キシエン。
先程まで手を取られ一緒に踊っていた人…もう一人はキシエンの前に立ちセラに背を向けている。
セラは冷たい床に体を横たえられていた。
(―――何?)
床の上に横たわっていたからか、何故か体中が痛い。
起き上がろうと身動きすると、その両手が重い鎖で拘束されていると気付く。
鎖の音でセラに背を向けていた者が振り返る。
黒髪に黒い瞳の、セラと同じ年頃の少年だった。
セラは痛みに震える体を起こすと二人の男を見上げた。
(もしかして…誘拐?)
「あなた達…誰―――?」
どう見ても自分にとって有効的な状況でない事態に、セラは男を睨みつける。
この男の狙いは何だろう…始めからマウリーの事を騎士だと知っていたし、寒空の下にセラを誘ったのもこの男だ。鳩尾を殴り意識を奪って鎖で繋いで―――
何にしてもここから逃げなければならない。
セラは自身の手を拘束する鎖に対し、魔法でそれを破る術を施そうと念を投じた。
「ふぁっ!?」
念じると同時に、セラの体を痛みが突き刺す。
「イルジュ…」
名を呼ばれた少年が大丈夫だと頷ずくと、男は狡猾な笑みを浮かべてセラに歩み寄り方膝を付いた。
「無駄だ、お前の魔法は封じた。」
イルジュと呼ばれた少年は、相手の能力を封じる力を持つ魔法使いだ。
魔法においてイルジュの力はセラの足元にも及ばななかったが、能力を封じる力を持つ魔法使いは極めて珍しい。セラは封じの力を持たないため、イルジュの術にあっさりと落ちてしまっていた。
「あなた誰よ?!」
セラは苦痛の表情を浮かべながらも、目の前の男をしっかりと見据える。
「リンハース王国第四王子のレスティオ様だ。」
男に代わってイルジュが名を答える。
リンハースと聞いて、セラはウィラーンの隣に存在する国を思い浮かべた。
二十五年前、大陸に残ったのはラインハルトの治めるウィラーン王国だけだった。その後に建国された南東に存在する王国の名を耳にし、セラは眉間に皺を寄せる。
「その王子様とやらが、わたしにいったい何の用?」
「この状況で魔法を封じられていると言うのに大した娘だな」
レスティオは咽の奥に笑いを含め、セラの左手を取る。
「指輪を渡して欲しいのだよ。」
指輪?
何故リンハースの王子がこの指輪を欲しがるのかと訝しく思うセラに、レスティオは狡猾な笑みを湛えたまま先を続けた。
「リンハースはウィラーンに戦を仕掛ける。それに勝利するにはお前の持つこの王妃の指輪が必要でね―――」
そう言いながらレスティオは指輪に手をかけた。
「さすがは闇の魔法使いを封印しただけの事はある。お前の意思が強すぎて指輪が抜けないのだよ―――意思を緩めて指輪を渡してくれないか?」
「嫌よ―――っ!」
セラはレスティオの手を振り解き、逃れるように壁へとその身を擦り寄せ睨みつけた。
ウィラーンの王が妃に渡す為に作られた、たった一つの指輪。
これがラインハルトの手に届けられたなら、セラがリンハースの人質になっていると言っているも同じだ。
セラの行動を嘲笑うかにレスティオが余裕の笑みを浮かべると、イルジュが部屋の扉を開き、新たに二人の男が姿を現した。
壁際に置かれた机と椅子をイルジュが部屋の中央に引き摺ると、セラは二人の男に両腕を拘束され椅子に座らせられる。
レスティオが机を挟んで正面に立ち、懐から短剣を取り出した。
「押さえろ、指を切り落とす。」
「なっ―――?!」
セラは驚愕し渾身の力で暴れるが、二人の男に押さえつけられ無理矢理左手を机に出された。
「こんな事したってラインハルトは怯んだりしないわよ!」
「王はお前にいたく御執心とか。あの冷酷非道なラインハルト王が、お前の前では聖人に成り下がるそうじゃないか―――失笑だな。」
不敵に笑うレスティオの瞳が冷たく光る。
「お前を盾にウィラーンへと侵攻させてもらうよ。」
セラが人質となればウィラーンはリンハースに手を出せはしない。
レスティオの言葉にセラは息を飲んだ。
「あなたは…ラインハルトを少しも分かっていない―――」
「分かっていないのはお前の方だ。大事にし過ぎるあまりに手放した―――それがラインハルト王の敗因だ。」
「これはあなたの敗因よっ。」
「何―――?!」
レスティオの瞳に怒りの炎が宿る。
「あなたの言う通り、ラインハルトはわたしを大事にし過ぎてる。これを知ったらラインハルトは一歩引く所か、何があってもわたしを取り戻しにかかるわ。わたしは盾になんかなれない、その逆よ。彼は絶対にリンハースを壊滅させる!」
ラインハルトの独占欲は並大抵の物ではない。
セラを人質に取られ手出しできなくなる所か、恐らくウィラーンの全軍を率いてリンハースに攻め入り、しかも短時間で陥落させてしまうだろう。
その犠牲になるのは軍の兵士だけではない、罪もない何千何万と言うリンハースの民が命を落とす事になってしまうのだ。
冷酷非道―――ラインハルトはそんな言葉では片付けられない獰猛で果敢な男なのだ。
「あなたも王子ならウィラーンに攻めるより前に、民を守る為にすべき事がある筈じゃないのっ!」
「知った口を聞くなっ!」
レスティオの強烈な平手がセラの頬を打ち、口の端から血が流れた。
「もう一度聞く、素直に指輪を渡せっ」
セラの髪を鷲掴みにすると、額が触れそうになる程レスティオが顔を寄せて唸った。
「嫌よ―――!」
セラの瞳に強烈な意思が沸き起こる。
(絶対に渡さない―――!)
鷲掴んだセラの髪からレスティオはゆっくりと手を離すと、乱れた衣服を整える。
「押さえろ―――」
冷酷に言い渡すと、レスティオは鋭い短剣の先をセラの指の付け根にあてがい、そのまま体重をかける。
ぷつり…と、鈍い音と共に真っ赤な血が溢れ出し―――
闇を劈く悲鳴が部屋中にこだました。