頭痛
扉から入室してきた二人の人物を目の当たりにし、セラは眉間に皺を寄せた。
一人はセラが目覚めて最初に出会った青年・イクサーン王国の宰相と名乗ったシール。
年の頃は二十代前半程で、肩ほどの長さの銀色の髪と灰色の瞳の整った容姿をしている。そしてもう一人は年の頃は五十代前半と言った所だろうか。灰色の髪と瞳で、隣に立つシールよりも背が高くがっしりとした体つきの男性は左腰に帯剣しているが、騎士や兵士にはそぐわない、一見して分かる程上等の服を身に纏っていた。
二人は真っ直ぐセラの座る寝台に近付いて来ると、シールは少し離れた場所で歩みを止め、もう一人は寝台の傍らに膝を付き、迷う事無くセラの手を優しく取った。
「気分はどうだ?」
大きくごつごつした温かい手。
温もりに視線を落とし、セラは首を傾げながら答える。
「はぁ…おかげさまで」
館の持ち主だろうか? 自分達を保護してくれているのだとしたらあまり失礼な事は出来ないなと考えながらセラは首をひねった。
(あれ? そう言えば宰相とか言ってなかったっけ??)
少し離れた場所にいかにも控えてますーっと言った風に佇む青年を見上げる。
宰相と言えば国の政治にかかわる王の右腕のような人。要するにとっても位の高い人と言う事だ。ずい分若い宰相…っとそんな事はまあどうでもいいのだが…
「私だ、カオスだ。セラ、分かるか?」
手を握る男が一言ずつゆっくりと告げる。
「どうも。初めまして、セラです。」
ああ…あなたのお名前もカオスと言うのですね…カオス違いです…とでも言うようにセラは何とも言えない表情をシールに向けた。
そんなセラの様子にカオスと名乗った男、イクサーン王国の王は瞳を細めるとセラの座る寝台の上に座り直す。
「セラ、落ち着いて聞いてほしい。あれから…レバノ山でアスギルと戦ってから二十五年の時が過ぎている。セラはあの時アスギルを結界の中に引きずり込んだまま戻って来る事がなかった。アスギルを封印してから二十五年が過ぎたんだ。」
二十五年―――
カオスはその時の流れを何度もセラに語った。
闇の魔法使いとの戦いは二十五年前に終わった事。二十五年前に自分を含む四人でアスギルと戦い、最後にはセラが犠牲となってアスギルを結界に閉じ込めた事。今目の前にいる自分がその時共に命をかけてアスギルと戦ったカオス本人であり、二十五年の時間が自分を老いさせている事。それをカオスは何度も何度も繰り返し語る。
セラはその言葉を黙って聞いていた。
が、視線は二十五年後と名乗るカオスに合わせたままで、右手を勢いよくさっとシールに差し出し。
「鏡ッ!!」
きっぱりと宣言するかに言い放った。
「え?!あ…あぁ、はい…」
言い放たれたシールはその言葉に思考が付いて行けず、一瞬何を言われたのか理解できなかったが、呟くように返事をして寝台の傍ら、セラの死角に置かれた小さな引き出しから手鏡を取り出して差し出した。
「どうぞ…」
セラはカオスから視線を離す事無く右手で鏡を受け取ると、大きく肩で息を付いて鏡を覗き込み…眉間に皺を寄せた。
「わたし、十六歳のままみたいだけど…?」
鏡の角度を変えてみてもここで目覚める前と何ら変わりない。
「そのようだな…おそらく、結界の中と外では時間の流れが違うのだろう。」
「わたし、さっきまでアスギルと魔法打ち込み合ってたのよ。多分、数時間程度だと思うけど…」
「それが、外界では二十五年に値する時の流れだったのだろうな。」
「あっさり…言ってくれるわねぇ…」
セラは握りしめた鏡を膝に下ろした。
「そんな馬鹿げた話信じろって言うの? あなたが本当に二十五年後のカオスって証拠がどこにあるのよ?」
セラはカオスの顔をまじまじと覗き込む。
確かに…カオスに似ているようには見える。カオスの瞳の色は灰色で髪は銀色だ。髪は年を重ねて銀から灰色に変わったのかもしれないが、それにしてもにわかに信じられる事ではない。
セラの当然の反応にカオスは上着のボタンを外し、左の胸をはだけさせ鎖骨のすぐ下を示した。
「あの時最初に受けた傷だ、分かるか?」
そこには少し窪んで引き攣れた、丸い傷跡があった。
一見して随分と古い傷だと分かるが、セラはその言葉と傷に動揺する。
あの時…セラにとっては昨日の出来事。
セラの防御魔法で防ぎきれなかったアスギルの攻撃。その防げなかった最初の一撃がカオスの左胸を貫いた。血が溢れ出るその場所にセラ自身が治癒の魔法を施したのだが、アスギルの魔法で受けた傷を完全に癒す事も、癒す時間すらもなかったのだ。
あの時の血と肉の感触…まだ真新しくセラの掌に残っている。
セラはそっと、引き攣ったカオスの傷跡に触れた。
昨日…だろうか。触れた時は火のように熱を帯び生々しかった傷が今は硬くざらざらとしている。ふと視線を落とすと、カオスの左腰に見事な細工の施された剣が目に付いた。
「剣が…」
セラの呟きにカオスがああと答える。
「私はもう左腕では剣を握れない。アスギルとの闘いは人知を超えたものだったからな。」
カオスは左利きである。当然剣は右腰にある筈だった。しかし、アスギルと剣を交えるにあたり肉体が限界を超えたのだろう。体全体としてはある程度まで回復しても、左腕は再び剣を握れる状態にまで回復する事はなかった。
「そんな…」
カオスの振るう剣は繊細で隙がなく、何処までも美しく強かった。誰の相手をしてもどんな魔物と戦っても決して負ける事無く、彼と剣を交えるものは命をかける覚悟が必要なほどで。どんな者が相手でもカオスを本気にさせる事が出来ないほど彼は圧倒的に強かった。唯一、共に戦ったラインハルトだけがカオスの真の実力を発揮させる事が出来たのだ。
「憐れむな。年老いた今とてセラになら右腕一本でも負けはせぬぞ」
それより…と、カオスは寝台から立ち上がるとセラを窓辺へと導く。
窓辺にある大きな窓からは緑豊かな世界が広がっていた。
部屋が建物の上階にあるせいもあるが、眼下に街並みとその向こうにはなだらかで緑豊かな高い山が見える。
「ここはレバノ山の麓、イクサーン王国の都だ。」
「レバノ山…」
昨日までの景色とまるで違う。
アスギルを追ってたどり着いたレバノ山の麓は土気色の瓦礫の山で、行き場のない汚れた人間がその瓦礫の中に身を隠しながら、何とかその日一日を生活をしていた。それが今は一つの王国の都となり、緑豊かな大地に変貌を遂げている。
もともとこの場所はルー帝国が繁栄を極めた際にあった大都市の跡で、アスギルとの戦いの後にカオスが中心となって復興を手助けした。それが始まりとなってここに住んでいた人々が舞い戻り、やがてはアスギルを封印したカオスが祭り上げられ、王となり、一つの国として再び繁栄を始めたのだ。
カオスは感情を失った瞳で窓の外を見つめるセラの横顔を見下ろし、肩を叩く。
恐らくセラの心中を察せる者など存在しないだろう。
カオスにとっては二十五年の月日が過ぎ去った。しかし、セラにとってはまだあの戦いの続きなのだ。結界の中一人きりでアスギルと戦い、そして生きて戻って来てくれた。
二十五年前の自分を思い出す。
戦いの後に襲ってきた感情。訳の分からないやり場のない思い。何もかもが壊れた世界の中で、目の前の現実に一心不乱となって力を注ぎ込む事しか出来なかった。自分と出会ったせいで巻き込んでしまった幼い少女を失い、後悔とやり場のない思いを押し殺し、通り過ごした。
自分には国の復興と、その後は祭り上げられてしまったとは言え王としての責務があった。しかしセラは突然あの混沌とした世界から全く違った異世界へと飛ばされてしまったと言ってもいい。現状を把握し、飲み込むまで時間が必要だろう。
「取り合えずしばらくは体を休めろ、話はそれからでも遅くはないのだから。」
セラが結界から出て来て一晩しかたっていない。汚れた服を着替えさせた者の話では見た所外傷はなかったらしいが、セラ自身はアスギルとの戦いの後である。これからその体にどんな後遺症が現れるかも分からない。
「ラインハルトとフィルはどうしているの、無事だったんでしょう?」
当然と言えば当然の質問が今になってこぼれる。
「ああ一応はな。ラインハルトはウィラーンに戻り王位を継いだ。フィルは十年ほど前に顔を見せて以来音信不通だ。」
フィルネスは何処かに属する魔法使いではない。同じ場所に留まる事も好まず、アスギルを倒す目的のためとは言え二年近く共に旅をして来たが、一緒にいて誰かとつるむ性格ではない事はセラにも分かっていた。二十五年も過ぎているのなら音信不通になってもフィルネスなら当然なのかもしれない。ラインハルトが王位を継いだと言うのも、彼はもともとが王子様なので当然と言えば当然の成り行きだろう。
セラはポリポリと頭を掻く。
「で、あなたはここで何をしているの?」
カオスはセラが生きていた喜びに浮かれ、現在の自分が置かれた状況を全く説明していなかった事を思い出す。
「ここ、イクサーンの王だ。」
片眉を上げて冗談めかした。
今の状況でなんとなく予測していた答えにセラは深いため息を落とす。
「これって…フィルが見せてる幻影じゃないでしょうね。」
だったらいいのに…
手に持ったままの鏡を覗き込むが何かが変わる訳でもない。
その時再び扉がノックされ、シールが返事をすると一人の侍従らしき中年の男性が顔を覗かせた。
「陛下、皆様方がお待ちでございます」
侍従がセラにちらりと視線を送った後で遠慮がちに告げと、カオスは分かっていると返事をして残念とも申し訳なさそうとも取れる顔をセラに向けた。
「すまんが少し立て込んでいてな、夕食は一緒に取ろう。それまでここにいるシールがお前の面倒をみてくれるからなんでも言ってくれ。」
「誰かさんが突然現れたもんだから急に忙しくなったって事? 王様も大変ね。」
アスギルを封印して二十五年の歳月が流れ平穏な日常にあるとは言え、結界にかかわる変化はイクサーンだけの問題ではすまされない。カオスがイクサーンの王でなければこのままセラを普通の一人の民として過ごさせる事が出来たであろうが、今この状況ではそうもいかなかった。
カオスはセラの前から名残惜しそうに立ち去りながら言い忘れたとシールを指さす。
「これは私の息子だ。」
「むっ…息子?!」
カオス結婚してたのっ…と、セラから声にならない悲鳴があがる。カオス自身は二十五年も時間がたっているのだから結婚して子供がいても何ら不思議な事はないのだが、時間に取り残されたセラにとっては晴天の霹靂であった。
声を上げ高らかに笑いながら部屋を後にするカオスを唖然とした表情で見送ると、セラは首だけを回して顔をシールへと向けた。
「…ホント?」
ずっと二人の会話を傍らで聞いていたシールは、自分に向けられたセラの視線にほんの僅かに肩をビクリとさせる。
「ほ…本当です。」
「…王子様?」
「はぁ…宰相になるにあたり継承権は拒否しておりますので王子と言う呼び方はそぐいませんが、一応イクサーン王の第一王子ではあります。」
どうも…セラを相手にすると会話がし難いとシールは目を細めた。
育った場所や環境の違いもあるのだろうが、セラはシールの周りにいるような人種ではない。王に対する態度も共に闇の魔法使いと戦った仲間であるからなのであろうが、それにしてもこれが十代半ばの少女と五十を過ぎたイクサーン王のやり取りだと思うとシールはかなりの違和感を覚えた。しかも…この少女の前では、王はシールが今まで見た事もない姿を見せるのだ。
「ねぇ、あなた何歳?」
「今年で二十二になりますが…」
それを聞いたセは頭を抱え、とても深い大きなため息を落とす。
「二十二…カオスの子がわたしよりも年上だなんてっ!」
あり得ない…
そう呟くと再び溜息を落とす。
そして暫く沈黙が流れた。
「…あ…あの、セラ殿?」
落ち込んでいる?
この少女はあの父と共にアスギルを封印した者だとは言え、まだ幼さの残る十六歳の娘に過ぎないのだ。大人とも子供とも付かない微妙な年頃の少女が、今置かれた状況に即座に対応できるはずもない。
保護欲でもかきたてられたのか、シールがセラに手を伸ばしかけた時セラがパッと顔を上げシールに視線を向けた。
赤と青の異質な瞳に釘付けになる。
「お風呂に入りたいわ。」
「…え?」
会話が急でシールは再び戸惑った。
「だからお風呂に入りたいのよ、髪と体がベトベトして気持ち悪いわ。」
一房ごとに固まってべとつく金色の髪を両手で摘みあげる。
セラがアスギルと勘違いされて檻に入れられここに連れてこられた時、その体はべっとりとした液体のような何かに覆われていた。汚れた衣服を着替えさせる際にある程度は拭き取られていたが洗い流すには至らない。
「分かりました。すぐに用意させて参りますのでこのままここでお待ちください。」
シールは小さな溜息を隠すために一礼すると扉に向かい…扉を開く前に一度セラを振り返った。
そこには金色の髪を両手で摘みあげたままのセラの姿が。
そう言えば…先程この部屋に戻った時も、セラはシールが出て行った時と同じ体勢で寝台に座ったままではなかったか?
(なんだか頭痛がして来たぞ…)
父王に厄介なものを押しつけられた気分だった。