葛藤
ラインハルトはセラを抱えたまま自室に向かった。
最初にセラを抱き上げた時は怒りも手伝い乱暴に、しかし今は慈しむように優しく胸に抱く。
セラはその温かで優しい腕の中に身を寄せながら、ラインハルトが変わらずにいてくれた事がとても嬉しく思えた。
噂や表向きの顔、他人の評価などどうでもいい。こうして優しくセラを抱くその人こそがセラの知る本当のラインハルトなのだから。
部屋の前には帯剣した兵士が待ち受け、王の姿を目に止めると慌てて扉を開く。
最初に入ったのは小部屋で中年の侍女が一人控えていた。
その人はラインハルトの姿に驚いたように目を見開くが平静を保つ。
「娘に着る物を。」
「承知いたしました。」
侍女が次の間に繋がる扉を開けながら答える。
そこは結構な広さのある応接間の様になっていて、前方には大きなバルコニーがあり夜の闇へと通じている。
セラはラインハルトの腕から下ろされながら部屋の中を見渡した。
中央にはテーブルとそれを囲むように長椅子が二つと一人掛けの椅子がやはり二脚。大きな暖炉があるが今はまだ夏なので綺麗に掃除されたままだ。
「ここで待っていろ。」
大きなごつごつした手が優しくセラの頬を撫でる。
「うん。」
セラが頷くとラインハルトは新たな扉に消えて行き、同時に入って来た時の扉が開き先程の中年の侍女が衣服を手に入室して来る。
「お召し変えの前にお体をお流し致しましょう。」
すこしふくよかな体つきの侍女は柔らかい物腰でセラの手を引き、ラインハルトが消えたのと反対側の扉へと足を向けた。
扉の先は二・三人が並んで歩ける程の長い廊下でその先は湯殿になっていた。
ここはラインハルト専用の湯殿だったが、彼が汚れた状態のセラを自室に連れて来たという事はここを使ってよいと言う意を含んでいた。
そもそも中年の侍女が王の側に使えて二十年余り、王が自室に女性を連れて来たのは初めての事だった。
ラインハルトは常に命を危険に曝している状態だ。
血族一同王子はもとより、息子を王位に付かせようと目論む女や権力にしがみつく家臣すら信用ならない。自室に妾を連れ込んで寝首を掻かれては元も子もないのだ。
王の自室に足を踏み入れる事を許された侍女も彼女を含め僅か三人で、その中でも彼女、アシュレイユは自分が一番の信頼を得ていると自負していた。
「あの、自分で出来ますから…」
アシュレイユがセラの服に手をかけて来たので思わず後ずさるが、イクサーンの若い侍女の時の様には行かない。
彼女は、あのラインハルトに二十年も使えているのである。セラの様な小娘如きの戯言、聞くよりも先に手が動いた。
「小さな破片でも出てきたら危のうございます。」
そう言ってセラの服をするすると剥ぎ取る。
宴での一件、既に彼女の耳には入っていた。
「いやっ、もうホントここは自分でっ!」
殆ど無理矢理に手早く頭から体を一気に洗われてしまう。
それがすむと体を拭かれ…一枚の薄いローブに袖を通され、ご丁寧に前ボタンまで留められた。
手慣れたもの…とでも言うのか。
セラは短時間で綺麗さっぱり洗われ蒸気する頬を押さえた。
アシュレイユはセラににっこり笑って一礼すると来た廊下を戻る様に進める。
セラを洗ったアシュレイユ自身もびしょ濡れになっていたが、彼女もまた別の扉から出て行くつもりだ。
セラが促されるまま応接間に戻ってもそこにラインハルトの姿はなかった。
このままここで待っていた方がいいのか、それとも―――
セラはラインハルトの消えた扉の方へ目を向けた。
そして静かに扉を押し開ける。
そこは寝室になっていた。
天蓋付きの大きな寝台が中央に頓挫し、壁際には文机やら調度品が並べられた棚やら椅子やら…そしてやはりここにも綺麗に掃除された暖炉がある。
部屋の中はもぬけの殻…と思われたが風に揺れるカーテンの向こう、バルコニーにその姿を見つける。
既にラインハルトはセラに気付いていた。
セラの様子を遠目に収めながら彼女の存在を実感していたのだ。
二人の視線が交わるとラインハルトは寝室に戻って来る。
ラインハルトも緩やかな前合わせのローブに着替えていたが、その手には剣が握られたままであった。
寝る時すら剣を手放さない習慣は死ぬまで変えようがない。
「さっきはすまなかった―――」
セラの額にかかる濡れた髪を避ける様に、指でその輪郭をなぞりながらラインハルトはセラの瞳を見つめた。
「わたしの方こそごめん。皆の前で王様に口出しするなんて…」
彼には彼の生きた時間があると言うのにそれを無視するような事をしてしまった。
「お前は―――本当に何一つ変わらぬのだな。」
容姿も声も、ラインハルトに対する接し方もその考え方一つにしても何もかもが二十五年前のまま、何一つ変わらない。
「そんなの―――」
セラにとっては当然なのだ。
結界から解放されてまだ二カ月にもならない。
けれどセラに反し二十五年と言う月日を過ごしてしまった彼らには何も変わらない、あの時のままで戻って来たセラに心を揺るがす。
「カオスのもとではどう過ごしたのだ?」
ラインハルトはセラに長椅子をすすめ、自分は剣を無造作に寝台に放り投げるとその隣に腰を下ろした。
「カオスとは毎晩夜にご飯を一緒に食べて過ごしたの。王様って忙しいのね…大抵の面倒はカオスの息子…知ってる?」
共に旅して生きた彼らに自分よりも年上の子供が存在する。
それを説明するのが何だか歯痒かった。
「当然熟知しておる。」
だから遠慮なく話せとラインハルトは先を進めた。
「大抵は宰相やってるシールさんがわたしの面倒をみてくれて、あれからどうなったかとか今の世界の事とかいろんな事を教えてくれたわ。」
勉強したのだと嬉しそうに見上げるセラにラインハルトも思わず笑みを返した。
「それと剣の稽古はウェインが付けてくれているの。アスギルに魔法力全部使い果たしちゃったみたいで、ここに立つ寸前まで魔法がまったく使えなかったから必要だと思って。」
魔法力の喪失はラインハルトにも予測が付く。
もう一人の魔法使いフィルネスも戦いの後魔法力を使い果たし、あの時は治癒魔法すら使えなくなっていた。十年ほど前に突然やって来た時ですら、まだ完全に魔法力が戻っていないと言っていたのだ。
「あの王子には驚いたのではないか?」
あの王子…ウェインの事である。
「うん、びっくりした。最近は剣技にもカオスを垣間見る事がある。」
利き手は違うのに、ウェインが剣に磨きをかければかける程カオスを垣間見る。最近は聖剣を振るい魔物を倒す様にそれを感じた事すらあった。
「あの剣…もしかしてフィルが入ってる?」
セラは寝台に無造作に置かれたラインハルトの剣を指差す。
「分かるのか?」
ラインハルトは剣を取るとセラに差し出した。
「うっ…」
セラが受け取ると物凄い重みが腕を伝い剣がそのままセラに圧し掛かる。
「重っ…重いっ、潰れるぅぅぅ…!」
圧死する…とまではいかないが、それ程の重みのある剣だ。
それをラインハルトは軽々と持ち上げた。
「カオスの持つ…今はあの王子が帯剣してあったな…あの聖剣と同じだ。これは我と、我が血を受けし者にしか持てぬし、抜く事も出来ぬ。」
フィルネスがカオスとラインハルトの両名に十年前施した魔法。
剣を聖剣に変え、その聖剣はそれぞれとその血を引く者にのみ扱えるように施された。
その血を受けぬ者には重すぎて扱えず、鞘から抜き去る事すら叶わない。
「へぇ~、フィルってばそんな面白い事やってたんだね。」
さすがだ、嫌味は伊達じゃないとセラは感嘆する。
そんな他愛もない話をしているうちに一度話が途切れた。
その途切れた話を繕ったのが…寂しい眼差しに変わったラインハルトだった。
「お前はイクサーンに戻れ―――」
決意を鈍らすセラの顔を見ないようにする為、ラインハルトはセラを胸に抱きしめる。
「イクサーンはここと違い平和で安全だ。カオスにならお前を預けられる。」
ウィラーンは軍事大国…そして血生臭い国でラインハルトの周りは侮れない敵が多すぎる。
この手に抱いてどんなに守っても、やがてそれが叶わぬ時がやって来てしまうのだ。
そう遠くない未来に―――
愛する人をこの手で守り切れない現実がどれほど悔しいか…これで二度目となってしまうのだ。
一度目はアスギルにみすみすくれてやった。
そして、それが原因で二度目が訪れてしまう。
「わたしはラインハルトの妻よ、ここに生きるって決めたの。」
ただの娘が王妃になる決断をした。
望むものは地位や権力ではない…ただ、ラインハルトの側にいたいという思いだけで。
セラはラインハルトにしがみつく。
「わたしを守ると言ったでしょう?」
濡れた瞳がラインハルトを見上げる。
セラを守ると言った、その気持ちは今でも決して変わらない。
いま再び失った愛する人をかき抱いていると、それを更に強く思う。
「セラっ―――!」
ラインハルトはセラの髪を後頭部から鷲掴みにするとそのまま唇を重ねた。
再会を果たし時にセラがラインハルトにした様な優しい物ではない。
情熱的で…貪るような接吻。
「ふぅッ…!」
空気を求めてセラの吐息が漏れるが、ラインハルトはそれすら逃げる事を許さず執拗に接吻を続け、セラもそれを受け入れた。
頬に触れ、愛しく髪を撫でては繰り返される接吻と抱擁。
瞼からこめかみ、頬を伝い耳を…そして首筋を強く吸う。
「―――つうっっ!」
強い吸引にセラの声が上がる。
「―――!」
その声にラインハルトははっとし、セラから唇を離す。
セラの白い肌が高揚し肌蹴た胸元が大きく上下している。
そしてその首筋には薔薇の花弁のように赤い吸引痕が生々しく存在を強調していた。
ラインハルトは自身が付けたその痕に釘付けになる。
いったい何を―――?!
我に返りラインハルトは己を深く後悔した。
「…ラインハルト…?」
突然止まってしまった抱擁にセラが潤んだ眼差しを向ける。
ラインハルトの瞳は驚愕の色を宿していた。
ラインハルトはセラの肌蹴た胸元を合わせ、何時の間にか自分が外してしまっていたボタンを一つ一つ留めて行く。
「すまない…私は…そなたを…妃に―――」
言いかけの言葉に反応したセラは、ラインハルトの下から逃れる様にするりと這い出した。
「聞かないっ!」
セラはギュッと自身の胸元を握りしめラインハルトに背を向ける。
その握られた手が小さく震え、あまりにきつく握るので爪が刺さって血が滲んだ。
「わたしは生半可な決心でここに来たんじゃない―――!」
セラは振り返る事もせずに部屋を飛び出して行った。