恐怖の宴
二人になりたい―――
心で望みながらもラインハルトはセラと二人きりになる事を恐れた。
セラと二人になった時、ラインハルトは自制心を持ち続ける自信が持てなかったのだ。
そもそも自制心と言う言葉すらラインハルトは数十年ぶりに思い出した。
己の行動や欲望を抑える事など必要のない世界に生き、それを貫いて来たラインハルトにとってまさに不釣り合いとも言えるもの。
最初は会わずにそのままセラをカオスの元へ帰すつもりであった。
しかしセラの到着を耳にした瞬間ほんの一目と思い、その姿を目にした瞬間…思わず立ちつくし気が付けばその手に強く抱きしめていた。そして女々しくも城への滞在を許してしまったのである。
このままでは危うい。
拒絶し、遠ざけなければと思う気持ちと反してラインハルトはセラの姿に釘付のままなのだ。
二人になるのを恐れ、イクサーンの王子の歓迎と称し宴を開いた。
だと言うのに―――この状況は何だ!
ラインハルトは宴の席でセラをその膝に抱き愛おしく金の髪を撫でつけている。
その様にウェイン以外の、ラインハルト王を知る全ての者たちが呆気にとられ息を飲んでいた。
人前で膝に抱かれ注目を浴びせられるセラ本人は、恥ずかしさで頬を赤く染め恐縮してしまっている。
「あの娘、いったい何者ですの!」
声を落として女が囁く。
ラインハルトの傍迷惑な意向のお陰でウェインの周りには、異常に露出度の高い服を来た妖艶な美女達が大勢陣取っていた。
ウェインはこの手の女達が一番苦手だった。
ラインハルトが差し出す酒を断るセラを見た女の一人が再び毒付く。
「あんな事してよく打ち首になりませんわね!」
「まったくだわ!」
「この前の娘なんて何もしていないのに手打ちになったというのに…酷い話よ」
何時ものラインハルトなら酒を断った者を打ち首にするのだな…で、この女はセラにも打ち首になって欲しいと言う訳か―――
ウェインは聞こえないふりを決め込み、広間の中央で舞われる踊りから視線を離さない。
女達は皆この城において権力を競い合う者同士だ。お互い寵を競い合う敵同士だとしても敵は一人でも倒しておきたい…と言った所だろう。
セラは本当にこんな場所に飛び込む気なのだろうか…?
陰険で執拗で幾重もの顔をもつ貪欲な女達。
その中にセラが存在するなどウェインには想像がつかない。
最初のうちは王に守られたとしてもその庇護が受けられなくなったらどうなる?
この状況の中にあってはさすがに心配に思えた。
「ねぇ、ちょっといい加減おろしてよ。」
恥ずかしくてたまらないとセラは囁いた。
「ああ…そうだな」
ラインハルトはセラの瞳をみつめたまま呟く…が。
先程から続けられるこの問答にはまったく進展がない。
ラインハルトは返事をしてもセラを離そうとはしないのだ。
宴の席、広間の中央では弦を使った緩やかな曲が演奏され、曲に合わせて二人の舞姫が優雅に舞いを舞うが、宴への出席者は皆ラインハルトに大注目で話声一つしない。所々で囁き声が漏れる程度だ。
セラは埒の明かない問答を諦め向かって右手に視線を送ると、妖艶な美女に取り囲まれたウェインがうんざりした様に半眼を閉じ、杯を傾けたまま舞いをぼんやりと見つめていた。
同時にラインハルトはセラの視線の先を追う。
ラインハルトはセラと二人ウィラーンまでを旅したウェインを気にしていた。
セラ一人で来られては心配で自身が出迎えに行っていたかもしれないが、同行者がこれ程カオスの若かりし頃に似た男だとは思いもしなかったのだ。
世界が突然二十五年も過ぎてしまい寂しさを味わったであろう。そこに近親感を抱くカオスに似た男が現れたなら何の抵抗もなく受け入れそうになるかもしれない。
そんな心配は無用な程セラの心はラインハルトにあるというのに。
それにラインハルトにとってもその方が都合が良かったかも知れない。
「気になるか。」
ラインハルトはセラの腰にまわした腕の力を強めた。
「そりゃね、忙しいのに付いて来てくれたんだもん。」
ここまでセラ一人で来るつもりだった。
完全ではないにしろ魔法も使えるようになっていたし一人旅に不安は全くなかったのだ。しかし蓋を開けてみれば予想外の魔物の襲撃を受け、腕のいい騎士であるウェインの存在が非常に重要であった事を認識する。
「あの人がランカーシアン王子?」
左手一番上座に座る、一見冷たい雰囲気を醸し出しているラインハルトに似たその人に視線を向ける。
「ああ…」
ラインハルトは話題にするのも億劫な存在に話題を振られ仕方なく返事をする。
「あれと隣のマクシミリアンは虎視眈々と王位を狙っておる。」
ラインハルトは吐き捨てるように言った。
セラは若い娘を侍らせ杯に口を付ける深紅の髪の少年に一瞥を送る。
「どうかしたか?」
マクシミリアンとの昼間の一件を思い出し、セラは胸が騒ぐ。
人の命を軽く見過ぎるその人に、かつてのラインハルトを見た様な気もした。
かつて…と言うがセラがシールから受けた講義によれば、現在のラインハルトもさほど変わらないような内容を伺わせはしていたが。
「ラインハルト、わたし―――」
セラが言いかけると同時に傍でガラスの弾ける音がした。
冷やりと、冷たい真っ赤な液体がセラと…ラインハルト王の下肢を濡らす。
新しい酒を持って来た侍女が緊張のあまりか粗相をし、あろう事か盆から酒瓶を落下させそれがラインハルトの手にする杯と接触…割れてしまったのだ。
曲が止まり舞いが中断され、静寂が訪れる。
「もっ…申し訳っ―――!!!」
侍女はがたがたと震え悲鳴を上げ床に平伏した。
皆が固唾をのんで見守る中、パリンとガラスの砕ける音が響く。
ラインハルトがその場に立ちあがり落ちたガラスを踏んだのだ。
その漆黒の瞳は怒りに満ちて、無言の威圧がそこに存在した。
「女、そこになおれ」
ラインハルトが剣に手をかける。
「どうかっ…どうかお許しくださいませっ!!」
震え涙を流す女にも容赦はない。
王の御膳、客人を迎えた宴の場で割れたガラス…それは刃を向けたに等しいのだ。しかも、ガラスはラインハルトとセラの下肢に散乱していた。
女は決して犯してはならない所業を、それだけの事を犯してしまったのだ。
問答無用とばかりにラインハルトが剣を抜こうと力を込めると同時に、剣に重さを感じる。
「―――なっ!」
「あっ!」
「ひぃっ!?」
それぞれ何処からともなく悲鳴が上がる。
ガラスの破片と赤い液体にまみれたセラが膝を付き、ラインハルトの剣に触れていたのだ。
戦いの国であるウィラーンにおいて剣は主の命に等しい。その王の剣に許しなく触れると言うのは死の覚悟を持って―――ウィラーンの常識である。
勿論そんな常識、セラは忘れていた。
かつてラインハルトから聞いた事があったしシールの講義でもあったような気がするが、忘れたのだ。
「何をする?」
「何する気?」
二人の言葉が重なる。
セラは眉間に皺を寄せ、険しい表情でラインハルトを見上げていた。
「離せ―――!」
抑制を受ける事になれないラインハルトは苛々した口調で言い放つ。
「嫌よ。」
手を離せば目の前に平伏す人を切ると分かっていて離せるわけがない。
「恐れながら申し上げますっ!」
初老の男が目前に現れ、床に傾れ込むように平伏した。
「レラフォルト、言葉は許しておらぬぞ、下がれっ!」
その一括は台地を揺るがす程低く恐ろしさを湛えていたが、ウィラーンの宰相は伏したまま言葉を続けた。
「恐れながらセラ様に申し上げます―――この一件、捨ておけば次には酒瓶に毒が盛られ、割れた破片が皮膚を傷つけようものならそこから毒が侵入し王の命が危ぶまれます。王に万一の事があれば国は揺るぎ民も危うくなりましょう。これは王の為、国の為、領民の為なのでございます!」
前例を作れば隙が出来る、危険を回避する為にも重要な事なのだ。
そもそもこの件が何の策もなく単なる粗相と証明される訳でもない。
国を守る為の犠牲―――
その言葉にセラは唇を噛む。
政治の事など分からない。だが、ラインハルトと言う人が何時も危険と隣り合わせなのだと言うのは分かる。ここはセラの生きた世界でもイクサーンでもない…ラインハルトの統治するウィラーンと言う国家なのだ。
「セラ、分かったのなら手を離せ!」
ラインハルトは苛々を募らせていた。
狼藉を働いた女にも言葉を許していないのに余計な事を口走ったレラフォルトにも、剣を妨げるセラにもだ。
「まだ―――人は死ななきゃいけないの?」
セラの瞳が寂しそうに揺らめく。
その言葉と表情に、ラインハルトは遠い昔のある時を思い出した。
『いつまで人は死ななきゃいけないの―――?』
アスギルによって壊滅した村…焼け焦げ異臭を放つ死体を前に寂しそうにセラが呟いた。
わずかに焼け残った死肉を烏がついばむ地獄で、セラの心が何処かに飛んで行きそうだった瞬間。
セラはあの時と同じ、遠い瞳をしている。
ラインハルトは腕にぐっと力を入れると、その怒りを剣の鞘ごと大理石の床に付き立てた。
鈍い音が響き、床が僅かに砕ける。
「もういい、行けっ!」
誰に向けた言葉なのか捕えられなかった。
「女には城への出入りを禁ずる。セラ、お前はもう行け!」
「―――陛下それでは示しが!」
許しなく再び言葉を発したレラフォルトをラインハルトは睨みつけ口を封じた。
レラフォルトは事の顛末に呆気にとられた。
王は…ラインハルト王がこの狼藉を許すと言うのか?!
それは絶対にあり得ない…夢や錯覚…幻聴ではなかろうか?
思いながらもレラフォルトは後の始末を付けに取りかかる。
セラは取りあえず助かった命にほっとしながらも、ラインハルト達のやり方に納得出来ないにしても口を挟んでしまった事に申し訳なく思った。
そして服も酒に濡れて真っ赤に染まっている事だし、取りあえずラインハルトの言葉に従う事にする。
しかし―――
これからどうすれば?
何処かに部屋が用意されている筈だがセラには分からない。広間から出れば人に案内させると言う常識がなかったのだ。
セラは取り合えずウェインの元に歩いた。
「行けって言われた。」
「…その様だな。」
ウェインは胡坐をかいたままセラを見上げる。
とんでもない物を鑑賞してしまったが、自分も大概に辟易していた所だ、このままどさくさに紛れて座を後にしよう。
ウェインが立ちあがろうとすると、傍らにいた露出度の極めて高い衣の女がウェインの腕を掴んでセラに吠えた。
小声で…だが。
「ちょっとあなたっ、この状況で男と宴を離れようなんて無責任にも程がありましてよっ!このままあなたが出て行こうものならここは間違いなく血の海でしてよ!」
綺麗な顔を迷う事なく引き攣らせまくしたてた。
誰の目に見てもあり得ない事が起こっていたのだ。
侍女の無礼にレラフォルトの進言…このどちらもラインハルトが心より許していないのは明白である。即刻手打ちにされるべき女をセラが止め、余計な口をレラフォルトが紡いだ。セラとて周りから見ればいったい何度切り捨てられていても可笑しくないのだ。そうならずにいられるのは全てセラがラインハルトにとって唯一の特別な存在…そんなモノが存在すると言うのも信じがたいが…であるからである。
「ラインハルトはそんなことしないよ。」
「するわよっ!」
冗談言わないでよと女はセラに詰め寄った。
「陛下が行動を妨げられて不機嫌にならない訳ないでしょ、見なさいよあれを!」
女が示す先のラインハルトは必死で抑えてはいるが怒りのオーラを醸し出していた。
セラを膝に抱いていた為にさほど濡れてはいなかったが、苛々した様子で片付けをする新たな侍女にも不機嫌を募らせている。それでもこの場から離れないのは…セラの姿が見えなくなれば…とでも考えているのではなかろうか?
相変わらず場の雰囲気は最悪で、誰もが腫れものに触るように固唾をのんで成り行きを見守っている。
セラは小さく溜息をつくとラインハルトの側に戻り、目前に立った。
ぽたぽたと赤い酒の滴が伝って落ちる。
「一緒に行こう。」
セラの顔を見ようともせずに命令する。
「案内させろ」
無視…するつもりだろうかと思い、セラはラインハルトの前にしゃがみ込むとその手を取って顔を覗き込んだ。
セラの青と赤の瞳がラインハルトの黒い瞳を射抜く。
「一緒に、行こうよ。」
皆がラインハルトを恐れる気持ちは分かる、確かにその形相は怖いのだから。
ラインハルトは暫く何かをこらえる様にしていたが、やがて意を決したようにセラの手を払い立ちあがると瞬時に無言のままセラを抱き上げた。
「うわっ…!」
セラの身が反転し、ラインハルトの逞しい腕の中に閉じ込められる。
ラインハルトはそのままセラを腕に抱き、宴の席を後にした。
残された人々の中―――
マクシミリアンが盃を一気に飲み干すと不敵な笑みを浮かべる。
その様をウェインは見逃さなかった。