誘拐?
『セラは預かる』
シールは一瞬目眩を感じた。
例の大声を持つ侍女…セラとシールの噂の発生源でもある侍女が、今にも失神しそうな勢いで執務室の扉を開け放って入室し、その場にカオス王の姿も認めたものだから更に興奮…蒼白のまま口をパクパクさせ一枚の紙切れをシールに差し出した。
全く侍女頭はいったいどういう教育をしているのだ、近々釘を刺さねばと思いながら受け取った紙切れに視線を落とし―――シールは硬直する。
「何事だ?」
カオス王はシールの持つ紙切れに手を伸ばして受け取ると口角を上げた。
「ウェインか―――」
王も宰相も筆跡に見覚えがあった。
セラは預かる―――それだけが殴り書きにされている。
「直ちに連れ戻して参ります。」
執務室を後にしようとするシールにその必要はないとカオス王は告げた。
「ウェインが一緒ならば大丈夫であろう。」
「しかし陛下、何か起こってからでは遅いのですよ!」
セラが城に連れて来られてから直ぐにカオス王は戒厳令を強いた。
レバノの封印から現れた少女を隠すため、関わった兵士を拘束同然に連日封印の任に付けている。娘に会わせろと言う重臣達には王の独裁とも取れる一方的な命令で拒否し続け、本来なら封印の異変は何を置いても真っ先に他国へも知らせねばならないと言うのに、ウィラーン王国のラインハルト王にのみ私的な書簡を送った後は他は全くの先送りにしたままだ。
それもこれも、セラが時間を超えて封印から現れた魔法使いだと言う事が関係している。
セラの存在は今の大陸全土において大きな財産だ。
魔法使いが迫害され、もともと表舞台に立ちたがらない魔法使いたちが闇に身を隠してしまった。残った結界師達の数も圧倒的に不足し聖剣の生産すらままならないのが現状。
そんな今の世界において、闇の魔法使いと戦ったセラは貴重な存在かつ手に入れれば他国への脅威となる。魔法使いが迫害されているとは言え、英雄とも言えるセラをその対象にはし難いのだから。
「情報が漏れたとて、昨日の今日でセラを攫いに来れる輩もおるまい」
「何を悠長な…最近の情勢では侮れませんよ。」
「異国が無理にセラを奪おうならウィラーンの全大軍が押し寄せてくるかもな。」
「ウィラーンが?」
「ラインハルトの逆鱗に触れると言う事だ。」
それだけ言うと、カオス王は机に山と積まれた書類に手を伸ばし視線を落とす。
「それに、ウェインがセラを連れ出したのはお前への当て付けではないのか?」
噂は聞いているぞと、シールに書類を渡す。
「陛下…あれは全くの…!!」
でたらめです…と言シールは言いかけるがカオスは気にしてもない様子で言葉を続けた。
「取りあえずお前の時間が開いた、先にこれを処理しておいてくれ。」
シールは何も言わずにそれを受け取った。
「朝の散歩…じゃなかったっけ?」
ウェインに連れられてセラは城下につながる小高い丘を下りていた。
散歩と言うのでその辺をふらっとするのかと思えば、ウェインは城を抜けさっさと丘を下りて行く。セラはその背を追うように早足で後を追った。
「何処まで行く気よ」
「朝市の見回りだ、付き合え」
セラは知らないがウェインは騎士団に所属する騎士で階級は上から二番目の騎士団長…ちなみにその上は国王の傍らで身を守る近衛騎士団長だ…都の警備は騎士団が受け持ち、二十四時間交代で見回りが行われている。そしてイクサーンではカオス王の方針で、騎士団の団長と言えどもその役目は交代で行われるようになっていた。
「それって仕事じゃないの!?何でわたしが付き合わされなきゃいけないのよっ」
それは日頃、何の問題も起こらない見回りを一人でしても退屈だからだ。そこへ二日前、セラの存在が降って湧いて来た。闇の魔法使いを封印した伝説の英雄?にしては頼りない少女だが興味はそそられる。退屈凌ぎに話を聞くにはちょうどいい相手だ。
しかも…
「お前シールに襲われたんだってな―――城中の女達の間でもっぱらの噂だぞ」
一見堅物のシールに関する噂でこんなにも突拍子もなく面白い物は過去に一度もなかった。いや…これからも二度とはないであろう。
セラはウェインの言葉に絶句した。
「ちがっ…それ、ちがっっっっ!!!!!!」
あまりの事に声にならない。
「違うってか?目撃した奴もいるって話だぞ。」
城中の女達が夢中になっている噂はこうだ。
カオス王ご執心の若い娘に懸想した宰相が入浴中のその娘を強奪し、嫌がる娘を無理やり手篭めにした…娘を組み敷く宰相を目撃したカオス王が宰相の頬を殴った…
と言うもの。
それ…何一つ事実ではないのですけど―――
あまりに履き違えていた為に言葉もない。
「それ、まっっったくの、嘘…」
物凄い噂だ。何をどうすれば一晩でそんな風になってしまうのだろう???
シールの名誉のために真実をはっきりさせなければ…
「しかも、シールさんを殴ったのってわたしだし―――」
全く関わっていないカオスまで登場させられているなんて。
「殴るだけの何かはあったんだろ?」
「ううん、何も。逆に助けてもらったのにわたしが勘違いして殴りかかったの。」
シールは全くの殴られ損なのだ。
「…やはりガセか」
事実なら面白い事になったのにと舌打ちする。
にしてもあのシールを殴り飛ばすとは…そう言えば今朝方自分にも鋭い蹴りが飛んで来た事を思い出す。職業柄あの程度の蹴りならかわすのは容易いが、油断していたなら鳩尾にくらって膝を付いたかもしれない。もしそんな事になっていたなら騎士団長としていい笑い物だ。
丘を下って行くと街に入る前に小さな小川が流れているのを認め、セラはまだ顔も洗っていなかった事を思い出して小川に駆け寄って行った。
方向転換したセラに何事かと思いながらもシールはその場でセラの後ろ姿を眺める。
勢いを付けて飛べば子供でも飛び越せそうなほどの小さな小川はレバノ山の恵みだろうか。セラが覗き込むと水は澄んで朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
叩き起こされた揚句に急いで部屋から出て来たものだから顔を洗うと言う事すら忘れていた。
無理矢理至福の時を奪われ、散歩と名を打った我儘に付き合わされる我が身の不幸を呪う。
(今頃いい夢見てた筈なのに…)
まぁここまで来たのだからごねても仕方がない。こうなったら都の朝市とやらを楽しませてもらうとするか―――
小川の水は思った以上に冷たく気持ちよかった。
ごしごしと顔を洗うと拭く物がなかったのでスカートの裾で顔の水分を遠慮気味に抑え拭きした。薄い紫の布地が水を含んだ部分だけ濃くなるがこの陽気ですぐに乾くだろう。
セラがウェインの待つ方に戻って行くと、呆気にとられた様な彼の顔がセラを見ていた。
「何にも持って来なかったんだもん、仕方ないじゃない。」
照れ隠しで笑ってみせ、先に進む。
「そうだな。」
ウェインはその背を追いながら、セラに顔を洗う時間も与えなかった事を思い出す。
セラの背の中ほどを弾む金色の髪は所々絡まって寝癖がついていた。
朝の女と言う物は時間のかかる人種だ。人前に出る時は僅かでも自分を美しく見せる事に拘りを持つ。ウェインは綺麗な女は好きだが、それを必死に作り出す姿は醜いと嫌悪していた。それでも、年頃の娘にちゃんとした身支度すらさせる時間も与えなかった事に僅かに後悔の念を抱く。
ウェインは弾む金色の髪に指を伸ばした。
指に絡まった髪が引っ掛かりセラの頭が後ろにカクンと反れる。
「痛い…」
セラは振り返り頭を押さえた。
「ぐちゃぐちゃになってた?」
起き抜けだからなぁと照れ笑いをしながら手櫛で髪をなでると、ウェインが前を向くように告げる。
「絡まってるぞ、解いてやるから先を歩け」
セラの歩みに合わせウェインは後ろからセラの髪に指をかける。
ウェインの指に絡む髪は柔らかで細い金糸のように綺麗だった。
「わたしの髪って細いからすぐに絡まっちゃうの。邪魔だから切りたいんだけど女は髪を伸ばすものだって皆が言うから―――」
死と隣り合わせの旅でセラは見た目に拘る事を忘れてしまっていた。一四歳で共に旅をし出した男達の中にあっても自分が女である事をあまり自覚しなかったように思う。
伸びて来て鬱陶しく感じた髪に剣を当て切ろうとした時に、最初にカオスが声を上げて反対した。続いてラインハルト。二人はセラは女なのだからと言って伸ばすのを進めた。それでも邪魔なのだと言うセラに、フィルネスは髪には魔法が宿り利用価値が高いから切るなと命令。魔法使いとして師匠のような存在であったフィルネスの言葉を受け、それから髪を伸ばす様にしたけれど…。
「今の時代も女は髪が長いものなの?」
「今も昔も女の髪は長いものだぞ」
髪は女の魅力の一つだ。
特にセラのような美しく豊かな金髪なら更に際立つ。それをいとも簡単に邪魔だから切りたいと思うなど変わった事を言う娘だと思う。
セラの髪に触れながら、ウェインは抱く時以外で女の髪に触れたのは初めてだと気付いた。
「出来たぞ―――」
何故だか胸が騒ぎ、それを隠すかのように、最後の方は少し乱暴に絡まった髪を扱った。
「ありがとう。」
先に進んでも行き先が分からないのでセラがウェインの隣に並ぶと、ウェインは自分の肩よりも背の低いセラの温もりを間近に感じる。
セラの金髪がふわりと風で舞い、ウェインの頬を撫でた。