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幸運な立花柾 2

 昼の営業時間が終わった柾は居候させて貰っている二階の部屋に犬飼を招いた。


「うっぷ……。申し訳ありません、お見苦しいところを……」

「大丈夫ですか? 横になったほうがいいですよ」

「いいえ、仕事中ですので。少しばかり膨満感を覚えているだけですから、問題ございません……。うっぷ」


 犬飼は口を押さえてえずいている。腹の虫を鳴かせてしまったばかりにマチスとターニャにたらふく料理を食べさせられたのだ。身長の割に細身の彼の体を案じたまったくの善意だった。

 凶悪な顔に似合わず物腰柔らかな犬飼は出された食事を断れなかったようで、胃袋の限界まで詰め込んだらしい。やや脂汗をかいている。


 営業終了後、隣で同じくらいの量の賄いをペロリと完食した柾を見て「もう、俺も年だな……」と遠い目をしていた。

 犬飼は二十代になったばかりの柾よりだいぶ年上に見える。三十代半ばくらいかとあたりをつけた。


「ふぅ……。ご迷惑をおかけしてしました……。改めて自己紹介をさせていただきます。私は神祇(じんぎ)庁神隠し課異世界転移係で捜査員をしております、犬飼柴と申します」

「ご丁寧にどうも……。その、俺を迎えに来てくれたんですよね?」

「はい、その通りです」


 質問をあっさり肯定されて柾はたじろいだ。

 犬飼との遭遇から時間が経ち、冷静になると不安と疑念が湧いて素直に喜べなくなっていた。


 だって柾の知る日本には異世界に渡る技術なんてなかったし、神祇庁なんてものも存在しない。犬飼は本当に柾の知る日本から来た人間なのか、彼には判断がつかなかった。


「その、犬飼さんはどうやってこちらに来たんですか? 俺みたいに落とし穴に落ちたとか……」

「いえ、違いますね。わたくしはあなたがいなくなった地点から痕跡を辿ってこの世界に来ました。捜査員とはそうやって異世界転移した人々の後を追える体質の人間にしか務まりません」

「た、体質……?」

「体質です」


 それから犬飼は柾が異世界転移した時間と場所、当日のスケジュールまで事細かに答えた。そこまで知っていたら柾も彼の話を信じざるを得ない。

 犬飼は更に柾がいなくなった後のことを話し出した。


「異世界転移してしまった人々は不思議なことに周囲から忘れてしまうのです。戸籍のような物理的なものはなくならないのですが」

「そんな……。じゃあ、みんな俺のこと忘れてるんですか?」

「いえ、全員ではありません。近しい人間なら忘れていないこともあります。あなたの場合はお母さまが覚えていらっしゃいました。自分以外がすべてあなたを忘れているので戸籍を確認したり、通っていた大学で聞き込みをしたり、ひとりで頑張っておられましたよ。お母さまの行動でこちらもあなたの失踪に気づいたので助かりました」

「……母さん」


 胸に熱いものが込み上げる。柾を記憶しているのが自分だけなんて不安だったに違いない。この半年、どれほど大変だったろう。


(日本に帰りたい)


 切実にそう思った。

 この際犬飼の怪しさなどどうでもよくなった。早く帰って母親に元気な顔を見せたい。そして、ひとりでも探してくれてありがとうと感謝の言葉を伝えたかった。

 でも、こちらからは日本へ行けないと断言されてしまっている。本当に帰れるのだろうか。


「立花様のご希望は帰還されるということでよろしいですか?」

「帰りたいです! 帰れるんですか!?」

「ご安心ください。どのような世界に行こうと真っ直ぐ日本に戻れる体質でなければ捜査員は務まりませんので」

「体質、ですか……」


 また根拠が体質だ。いまいち不安だが、今は藁にも縋りたい気持ちなので、犬飼を信じるしかない。


「このまますぐ帰還なさいますか? それともこちらで仲良くなられた方々とお別れをなさいますか」

「あっ……」


 そう質問されてハッとする。もう二度帰れないと思っていた日本へ帰るということは、こちらの世界の人々との永遠の別れになる。

 あんなに親身になってくれたマチスとターニャに何も返さず帰るのは気が咎めた。


「あ、あのー、犬飼さん。お別れだけじゃなく、帰還を何日か遅らせることはできませんか」


 思わずそう言っていた。今も母親が必死で柾を探しているとはわかっていたが、貰った恩を少しも返さずにこの地を去ることはできなかった。


 柾の提案に犬飼は(おもむろ)にスーツの内ポケットから何かを取り出す。目の前に差し出されたのは写真でしか見たことのない手巻きの懐中時計だった。


「こちらの世界は今何時くらいかわかりますか?」

「えっと、だいたい午後の三時くらいではないかと」


 時計はこちらの世界ではまだ一般に普及していない。役所や教会などにはあるので、そういうところが鐘を鳴らして時間を知らせていた。

 鐘は朝の六時から三時間毎に五回鳴る。こちらの時計がどれほど正確かは知らないが、少し前に四回目の鐘が鳴ったので、だいたい午後の三時になるはずだ。


「この時計は日本の時間に合わせてあります」


 犬飼の時計の針も三時を少し過ぎたくらいを指していた。


「こちらの異世界は、日本と時間の流れ方が変わらないようです。一日は二十四時間でしょうか?」

「こっちの時計を見たことがないのでちょっとわかりませんが、オレは生活してて違和感はないです」


 こちらに来てからは日の出と共に起きて、真っ暗になれば寝るという規則正しい生活をしている。不規則だった日本と比べればずっと正しい体内時計は異常を訴えてはいなかった。


「では、迎えに来る期日を指定していただけたら、その日にまた来ましょう。如何なさいますか?」

「いいんですか!?」

「はい。多少お迎えの時間に誤差があるかもしれませんが」

「構いません! ありがとうございます!」


 柾は一週間後の午前中に迎えに来て貰えるように頼んだ。犬飼は特に理由は聞かず、帰還する際の注意点を話し始めた。


「鞄などのお荷物は五分の確率で紛失する可能性があるのでお持ちにならない方が賢明です」

「……そういえば、オレの鞄……」

「あちらで見つかってませんから、お持ちでないなら異世界転移する時に次元の彼方に消えたのかもしれません。申し訳ありませんが、私が追えるのは生きた人間だけなので……」


 柾はがっくりと肩を落とす。帰れるとなると学生証や貴重品、講義で使う資料など、大切なものがすべて入った鞄の紛失は痛かった。

 犬飼が言うには、無くなるだけではなく、異世界に転移する際に電子機器は大抵壊れてしまうそうだ。彼が手ぶらで古い手巻きの懐中時計を使っているのはそういう理由らしい。

 それなら鞄が無事でも一番大事なスマホも壊れてしまっているだろう。泣く泣く柾は諦めた。


「何かあちらに持ち帰りたいものがあるなら服のポケットに入れてください。服は多分大丈夫です」

「……多分?」

「今まで異世界に行って服が消えたという報告はございませんので」


 報告がないだけで、存在しないとは犬飼は言わなかった。鞄が消えるなら服が消えることもあるかもしれない。

 そこで柾は深く考えるのをやめた。柾は鞄を紛失したが、服は無事だった。だから行った瞬間全裸になる異世界の可能性を追及する必要はないのだ。

 犬飼は他にもいくつかの注意と柾の質問に答えてから席を立った。


「それでは失礼致します。また一週間にお伺いします」

「あ、はい」


 犬飼は一礼して扉に手をかける。柾は俄に緊張した。

 本当に帰れるのか。

 そして、本当にまた迎えに来てくれるのか。

 不安が渦巻くが、信じるしかないのだ。


 犬飼はそんな柾に気づいていないのか、振り向くことなく扉を潜り、部屋を出て行った。パタンと音を立てて扉が閉まる。柾は見送ろうと続いて扉を開いた。


「マサキ、お茶とクッキー持って来たよ」


 廊下に出たら、飲み物とどっさりクッキーを盛った皿を載せた盆を持ったターニャに声を掛けられる。さっき出て行ったはずの犬飼の姿は影も形もなかった。


「おや、あの人帰っちまったのかい? もっとゆっくりしてきゃいいのに」

「う、うん。そうみたい」


 キョロキョロと周囲を探す。隠れるような場所は無く、犬飼はどこにも見当たらなかった。その瞬間をしかと見ることはできなかったが、犬飼は本当に日本と異世界を行き来できるのだ。


「じゃあ、下に行くかい? あの人も誘ってみんなで食べようか」

「うん。あっ、お盆、オレが持つよ。あと、話したいことがあるんだけど」


 階下へ戻るターニャの手から盆を受け取る。大ぶりで分厚いクッキーはザクザクとした食感でどこか懐かしい味がする。日本へ帰れるとなったら、母親の生姜焼きを恋しく思ったように今度はターニャの作るこのクッキーを懐かしく思う日が来るのだ。

 残り一週間、後悔なく過ごそうと柾は決意した。




 約束の日、犬飼はちょうど朝の営業時間が終わった頃に姿を現した。何度見ても人身売買でもしていそうな人相である。

 すっかり準備が整っていた柾はそのまま帰ることもできたのだが、ターニャに引き留められて食事をしてから帰ることになった。また、犬飼が腹の虫を鳴かせてしまったのだ。


「うっぷ……。すみません」

「大丈夫ですか? 無理せず残したらよかったのに」

「いえ、残すのは罪悪感があるので」


 顔は怖いが、真面目な人である。ターニャのデカ盛りをなんとか完食した犬飼はまた脂汗をかいて、来た時より顔色が悪くなっていた。

 それでもなんでもない表情を取り繕って周囲を見渡す。


「それにしても、綺麗になりましたね。お店」

「そうなんです。全面改装は無理でしたけど、傷んでるところを直して貰ったんですよ」


 古びた定食屋の店内は一週間前より少し新しくなっていた。開けば大きな軋みの音のする扉は直され、椅子やテーブルは新品に代わっている。歩くと沈むところがある床も貼り替えて貰った。

 こちらに来てから貯めていた給料で大工に依頼して直したのだ。


 あまり物は持って帰れないと言われていたし、こちらの通貨は日本では使えないから全部使い切った。

 大した戦力にはならないが、柾も大工に混じって少しばかり手伝った店内はピカピカ、とまではいかないが、傷んで壊れそうになっていた場所は無くなっている。


 犬飼が来たその日にマチスとターニャには日本に帰れることを話した。二人共とても喜んでくれたが、店の改装に給料を注ぎ込むことは止めた。

 自分のために使えば良いと言われたが、元々二人から貰った金であるし、気持ち良く日本へ帰るために必要なことだ。間違いなく自分のためである。


 夫婦から話を聞いた店の常連たちには帰還を惜しまれ、柾が店を直しているのを知ると仕事の合間を縫って手伝ってくれた。おかげで短い期間でもある程度形になったのだ。


 今の柾はこちらに来た時に着ていた服に着替えている。手荷物は何もないが、ジーンズの尻ポケットまでぱんぱんにものが詰め込まれていた。常連客が餞別だと色々入れていったのだ。


 この町に住む人々は決して豊かな生活をしている訳ではない。それでも当たり前のように助け合い、別れの際には少しでも餞別を渡す、優しい心を持っている。


 そんな人々と二度と会えないと思うと悲しいが、柾はどうしても日本に帰りたい。やらなくて後悔したことがたくさんあるのだ。


(異世界転移して良かった)


 帰還を目の前にした今、しみじみとそう思う。

 普通がいかにかけがえのないものか、身に染みて理解できたし、普通の人生では決して味わえない経験をさせて貰った。

 日本に帰れないと知って苦しんだこともあったが、結局迎えが来てくれたし、柾は本当に幸運だ。


「行くのか?」


 寡黙なマチスに声をかけられてそちらを見る。ターニャよりも一回り大きい彼は号泣している妻の肩を抱いていた。


「はい。今まで本当にお世話になりました」


 想いを込めて深々と頭を下げた。十秒数えてから顔を上げると二人に抱きしめられる。頭を撫でる力強い手は暖かく、柾の目にも涙が滲んだ。


「元気でね……!」

「体に気をつけろよ」

「本当に、ありがとうございました!」


 名残り惜しいがいつまでもこうしてはいられない。別れの言葉を交わして二人から離れ、静かに見守っていた犬飼へ振り返った。


「では、帰りましょう」


 犬飼の骨張った手が差し出される。柾はその手をとった。

 犬飼は柾の手を引いて、店の扉を開く。

 扉の向こうに広がるのはいつもと同じ町の風景。ここに来て柾の心に不安が過ぎる。


(本当に帰れるのか)


 こちらに背を向ける犬飼の表情は見えないが、足取りに躊躇いはない。

 柾は不安を抱えたまま、手を引かれるままに扉を潜った。

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