幸運な立花柾 1
扉が開き、眩しい真昼の日差しが一瞬差し込む。
それを遮って、どかどかわいわいと大柄な男たちが店内に入って来る。
「いらっしゃいませー!」
「マサキ、いつもの!」
「俺も!」
「はぁーい!」
がたかだと席に着く男たちに返事をして、マサキと呼ばれた彼は「いつもの」メニューを厨房にいる店主のマチスに伝える。
その後、水を用意して男たちに出した。
「あー、つっかれた〜」
「腹へった〜」
「お疲れ様。すぐできるから」
だらりと椅子に身を預ける男たちに話しかけると笑顔が返ってくる。
午前中の重労働をこなしてきた彼らは一人残らず薄汚れていた。彼らは炭鉱で働いている。どうしたって汚れてしまうから、これでも綺麗にしてきた方だ。
彼の働く定食屋があるのは炭鉱の町。朝も昼も夜も、ここを訪れるのは真っ黒になるほど働いた炭鉱夫ばかりだ。
始めのうちは声が大きく、気が荒い彼らにびくついていたものの、口が悪いだけで気のいい人たちだと知った今はもうすっかり慣れてしまった。
常連の顔は覚えたし、それぞれ頼む「いつもの」も間違えない。
この店で働き出して約半年。やっといっぱしの戦力になれたと感慨深い。
「マサキもだいぶ様になってきたな」
「でもよぉ、ひとりで大変そうだぞ。なぁ、女将。もうひとり雇ったらどうだよ。今度はかわいい女の子とか」
「そりゃあいい! 看板娘がいりゃあもっとこの店繁盛するぞ!」
先程までの疲れた様子はどこへやら、勝手なことを言って常連客は盛り上がっている。
それを尻目に威勢も体格もいい女将のターニャはせっせとできた料理を盛りつけていた。
「もうこれ以上客は来てくれなくていいよ。うちはアンタたちの腹を膨らませるので精一杯さ!」
「えぇ〜、でもよぅ」
「うちはマサキだけで十分だよ! それに大食らいのアンタたちに出す料理を女の細腕で運べるかいっ!」
「えっ、でもマサキが来る前は女将が運んでた……」
「ほら、女将の腕はマサキより太いし……」
「聞こえてるよ! 量を減らしてやろうか!」
そう言いながらもターニャは付け合わせのマッシュポテトを多めに盛る。
とにかくターニャは大皿の縁ギリギリまで、山のように盛らないと気が済まない。彼からすると赤字を心配してしまうほど気前がいい。
この定食屋を営む夫婦は炭鉱夫相手に商売をしているから口は悪いが、気は優しい。困っている人を見るとなんだかんだと言いながらも手を差し伸べる。
彼もまた、助けられたひとりだった。
彼の名前は立花柾。半年前までは普通の大学生だった。大学の帰り道に、突然落とし穴に落ちたと思ったら異世界に来ていた。
日本でそんな話は聞いたことがなかったが、こちらの世界ではごく稀に異世界から人が落ちてくるそうだ。もし異世界から来た人間を見つけたら国に報告する義務がある。
落ちて来た柾を見つけたマチスとターニャは義務に従い国へ報告し、程なく派遣されて来た役人は事務的に彼を問題なしと認定した。
報告を義務付けしているが、特に異世界人だからと保護されたり、珍重されることはないらしい。
日本へ帰る方法はないと言うのに、仕事や住居の斡旋もなく、当面の生活費として多少の金を渡して役人は帰っていった。
路頭に迷うのも秒読みといった様子の柾を見かねて助けてくれたのがマチスとターニャだった。
住む場所のない柾を居候させ、何も知らない彼にこの世界の常識から家事など、あらゆることを教えてくれた。
異世界転移してしまった時は頭が真っ白になったものだが、彼らのおかげで忙しくてもまともな生活ができている。
異世界に落っこちて、最初に会ったのが二人で柾はとても幸運だった。
しかし、このままずっとこちらの世界で生きていくことを思うと複雑な気持ちになる。
日本での彼は特に恵まれたり虐げられたりしたことのない、実に平凡な人生を歩んで来た。
友人はいたが恋人はおらず、将来就きたい職業は特に浮かばない柾はぼんやりと惰性で生きてきた。
それでも、日本に未練はあった。
最近あまり話せていなかった両親や弟ともう二度と会えないと思うと、心臓が引き絞られるような痛みを覚える。
特に、仕事と家事に忙しい母親には感謝の言葉ひとつかけてなかったことが心残りだ。
せかせかといつも忙しそうにしていたから遠慮して自分から話しかけることが出来なかった。でも、母親が忙しいなら柾が出来ることを手伝えば良かったのだと今では思う。
就職したら育てて貰った恩を返して行こうと考えていたが、こんなことになるのならもっと毎日少しずつ親孝行をしていれば良かった。それに。
(母さんの生姜焼きが食べたい……)
料理の腕前は店主の方が上だと舌ではわかっていても、母親の手料理が懐かしかった。
もう二度食べられないと思うと、くたくたに炒めた甘い玉ねぎと薄い豚肉の、なんでもない母親の生姜焼きが無性に恋しい。
しかし、帰る方法はないと役人に断言されてしまったし、探しに行こうにもこの中世ヨーロッパ風の異世界は日本に比べてかなり治安が悪い。
どうやらこの町がある国はたびたび隣の国と戦争をしている。そのせいで以前にも増して治安は悪化しているそうだ。
日本では放火や殺人が一件でも起これば大々的に取り上げられるが、こちらではそんなものは日常茶飯事だ。よっぽど酷いことでないと人々の話題にも上らない。
「人の命は地球より重い」。そんな言葉すらある日本で育った彼では帰る方法を探す旅になんて出たらすぐ死ぬだろう。
だから比較的治安もよく、気のいい人ばかり住むこの町で暮らしている柾は本当に、本当に幸運なのだ。
そう言い聞かせ、自分を納得させていた。
時々日本のことを思い出して落ち込むが、仕事が忙しく、そんな時間は長くは続かない。
このまま日本のことを忘れて、この世界に馴染んでいくのだと、覚悟を決めていた。
大きな軋みの音を立てて扉が開く。新しい客が来たと、続いた微かな足音で柾は知った。
この町の人間にしては珍しい静けさを不思議に思いながら振り向く。
「いらっしゃいませー……」
柾は客の姿を見て絶句した。
平均的な身長の彼より少し背の高い、痩せぎすな男が入り口に立っている。柾がまず目を囚われたのは、彼の着衣だ。
黒いスーツ。
日本のサラリーマンの戦闘服である。こちらの世界には似た形の服はあってもまったく同じものはない。
三つ揃いのジャケットにシミひとつない真っ白なワイシャツ。真っ直ぐに折り目のついたスラックスは日本のものにしか見えなかった。
男の足元はピカピカに磨かれた革靴で、髪は整髪料できっちりとまとめられている。大変清潔感のある装いだ。ただし。
(顔怖っ!)
日本のビジネスマン風の彼は、とても顔が怖かった。
すっと通った鼻筋や細い顎は鋭く尖っていて、眉間には常に皺が寄っていた。何より黒々とした立派な隈を備えた三白眼が険しすぎる。
可愛い柴犬柄のネクタイを着けているが、それでも中和できない凶悪な面相だ。
どう見ても、ヤのつく自由業の方にしか見えない。
久々に会う同郷かもしれない人間が反社会的組織に属する者とは、どう反応すればいいのだろう。手放しに喜べない。
彼は真っ直ぐ柾を見ている。いや、メンチを切っていると言うのが正しい。
今までの人生でそういった人間とまったく関わり合いのなかった柾は何故因縁をつけられているのかわからず、戸惑うばかりだ。普段は煩い客やターニャたちも見慣れぬ訪問者に訝しげにしている。
彼は自然な動作でジャケット内側に手を差し込む。柾は思わず震えた。ヤのつく方々がジャケットから取り出すものと言えば黒くて危ないアレしか思い浮かばない。
冷や汗をかき、みんなに危険を知らせようとして、目の前に差し出されたものを見て固まった。
「初めまして。私はこういう者です」
それは白くて四角い――名刺だった。
両手で丁寧にそれを差し出した男はさらに続ける。
「あなた様は立花柾様でお間違いありませんか?」
「えっ、は、はい」
名前を確認されて咄嗟に返事をしていた。男は名刺を受け取れとでも言うようにずいっと押しつけて来る。柾は反射的に受け取っていた。
「本日よりあなたの担当となりました。犬飼柴と申します。以後よろしくお願いします」
「し、しばさん?」
それは本名だろうか。咄嗟にネクタイに目が行ってしまう。柴だから柴犬のネクタイ。何かの冗談か芸名のような名前だ。柾は次に名刺へ目を落とした。
そこには真ん中に大きく「犬飼柴」と記されている。
所属部署やこの世界では無意味な電話番号、メールアドレスだけのシンプルな名刺だ。
(か、神? な、なんだこれ……)
まるで呪文のような部署名に読むのを諦めた。
もしかして、ヤのつく自由業ではなく、宗教団体の構成員だろうか。異世界にまで布教に来るとは根性のある宗教家である。
異分子の登場に混乱した柾はそんなことを考えて現実逃避をしていたが、犬飼という名の男は至極落ち払って話を続けた。
「本日は、あなたをお迎えにあがりました」
低くドスの効いた声で、そんな有り得ないことを言い出した。
信じられない気持ちで柾は立ち尽くした。諦めようとしていた日本への帰還。こちらに方法がないなら日本にもあるはずがないと思っていたのに、迎えが来てしまった。
柾と同じく事態を理解できず静まり返る店内に「ぐぅうぅぅ」と犬飼の腹の虫の音が高らかに響き渡った。