表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

青い部屋の少女

作者: 小茉莉朱々
掲載日:2022/02/06

この作品は、前作『青い薔薇』の続き……のようなものです。

 わたしは薄暗い部屋が好き。

 この部屋が好き。薄暗いこの部屋が好き。

 部屋に明かりは点けないで、街灯の灯だけが窓から差し込んできて。物の輪郭だけがぼんやりと見えるくらいの明るさで。物音はしないの。何も動かないの。

 薄暗い静かな部屋。ベッドの上に寝転んで、じっと天井を見るの。壊さないように。何も壊してしまわないように。

 この静かな空間を壊してしまわないように、じっとしているの。


 私は窓辺に立ちました。昨夜までは青かった薔薇が、柔らかな朝日に照らされています。青かった薔薇が。今はもう枯れて、黒く変色してしまった薔薇が。

 私は薔薇を窓の外へそっと放ります。花はばらばらになって、はらはらと、落ちていきます。はらはらと、はらはらと、落ちていきます。

 私は、どこまでも落ちていく花びらから目を離し、あの部屋を見ました。向かいのマンションの空き部屋です。もう何年も人の住んでいない、空き部屋です。

 でも私はそこに少女がいるのを知っています。もう何年も前からずっと、そこに少女がいるのを知っています。


 私は毎朝薔薇を一輪買います。真っ青な、綺麗な、薔薇を。

 仕事に行く道の途中にある花屋で、薔薇を買います。屋根だけが青で、他は全部黒の、花屋です。小さな、腰の曲がったおばあさんが一人で切り盛りしている、お洒落な店です。青い絵の具にそのままとっぷりと浸したような、綺麗な青い薔薇しか置いていない店です。

 私は毎朝、あの少女のことを想って、真っ青な薔薇を買います。


 少し歩くと、会社に着きます。ロビーは、黒いスーツを着たたくさんの人で、埋め尽くされています。

 廊下を歩いていると、客人とすれ違いました。白いスーツを着た、若い女性です。髪がふんわりと肩にかかっている、桃色の唇の、若くて美しい女性です。

 すれ違う時、女性は軽く会釈をしました。私も軽く会釈を返しました。女性はふんわりと笑いました。私はそのまま通り過ぎました。


 私の職場は、とても美しいところです。壁も床も天井も真っ白です。机も椅子もカーテンも真っ白です。真っ白で、とても美しい職場です。

 私の机の上には、黒い花瓶が置いてあります。黒い、黒い花瓶です。私は毎朝この花瓶に、青い薔薇を挿します。真っ青な、綺麗な、薔薇を。

 隣の席の同僚が、会議の資料を回してきました。同僚は、頭から爪先までずぶ濡れでした。

「急に雨が降ってきたんだ」

 私は今朝のことを思い出しました。雲一つない快晴でした。道も少しも濡れていませんでした。穏やかな朝日が降り注いでいました。 

 私は黙ってうなずきました。同僚もうん、とうなずいて机に向き直りました。

 私はしわ一つない資料をファイルにしまいました。同僚の黒いスーツからしたたり落ちる滴が、だんだんと大きくなっていく水たまりにぽたり、ぽたりと落ちる音が聞こえてきました。


 仕事が終わると、私は薔薇を鞄に入れ、家路につきます。帰りには、あの花屋はなくなっています。

 家の窓辺には、透き通るように薄い、ほっそりとした水色の花瓶が置いてあります。シンプルだけど、美しい花瓶です。

 私は花瓶に青い薔薇を挿します。向かいの空き部屋にいる少女のことを想って、窓辺に薔薇を飾ります。真っ青な、綺麗な、薔薇を。

 薔薇は、翌朝には枯れています。


 地面に柔らかな光を投げかけていた木漏れ日は次第に力強くなり、木々は赤く黄色く茶色に色付いて北風に揺られるようになりました。

 季節が移ろっても、私は変わらず、青い薔薇を買います。お洒落な花屋で、真っ青な薔薇を。あの少女のことを想って、薔薇を買います。


 木枯らしの吹く中、私はいつものように薔薇を買いました。真っ青な、綺麗な、薔薇を。

 鞄に入れようとして、薔薇に棘が一つ残っているのに気が付きました。いつもは残っていないのに、今日は一つだけ、棘が残っていました。

 私は右手で薔薇を持って、じっと棘を見ました。おもむろに左手を上げて、人差し指をそっと棘の先に当てました。かすかな痛みが走りました。指先に、血がにじんできました。とても、とても真っ赤な、血の球でした。私はしばらくの間、その赤色に魅入られて、店の前にじっと立っていました。赤い血の球に魅入られて、一人でじっと、立っていました。


 会社のロビーは、今日もたくさんの人で埋め尽くされていました。いつの間にか、左手の血は止まっていました。

 廊下を歩いていると、白いスーツを着た客人とすれ違いました。ふんわりとした髪に、桃色の唇の、若い女性の客人です。

 すれ違う時、女性はそっと絆創膏を差し出しました。私は礼を言って受け取りました。女性はふんわりと笑いました。私はそのまま通り過ぎました。受け取った絆創膏は、そのままポケットにしまいました。


 私はいつものように、薔薇を花瓶に挿しました。隣の席の同僚が、私の顔をじっと見つめているのに気が付きました。まばたきもせずに、じっと私を見つめていました。

「指」

 同僚は私を指さして、一言そう言いました。私はうなずきました。

 薔薇に、棘が残っていたんだ。

 同僚は、そうか、とつぶやきました。そして、私が同僚の足下の水たまりを見ているのに気が付いて言いました。

「急に雨が降ってきたんだ」

 私は黙ってうなずきました。同僚もうん、とうなずいて机に向き直りました。

 私は花瓶に挿した薔薇を見ました。黒い花瓶は、薔薇の茎までは見せてくれません。あの棘も見せてくれません。でも私には、棘の先から細く薄く血が流れて、瓶の中でゆらめいている様が、目の奥に鮮明に浮かび上がって見えました。


 仕事が終わって、私は薔薇を鞄に入れました。隣からぽたり、ぽたりという音が聞こえてきました。同僚が、朝と同じように私をじっと見つめていました。黒いスーツからしたたり落ちる滴のことは何も気にせずに、じっと私を見つめていました。

 私は同僚に軽く会釈をして、職場を後にしました。同僚は何も言わずにじっと私を見つめていました。


 私は街灯に照らされた道を歩きました。家に向かって、歩きました。

 私はふいに足を止めました。あの花屋がありました。私が毎朝、青い薔薇を買う花屋です。屋根だけが青で、他は全部黒の、お洒落な店です。朝にしか見かけない店です。いつもは、夕方にはなくなっている店です。

 店は、橙色の明かりを灯していました。青い薔薇が、骨董品のように艶やかに照らされていました。棚にも、店の中に置かれている籠の中にも、ぎっしりと詰められている、青い薔薇が。たくさんの薔薇が、橙色の明かりに照らされて、作り物のように妖しく光っていました。

 私はそのまま通り過ぎました。


 少し歩くと、家に着きます。人通りの少ない道に面した、マンションです。少し古びているけど、落ち着いた雰囲気の、良いマンションです。

 私は扉に右手を伸ばしました。でもそのまま手を止めてしまいました。心がそっと引かれたからです。細く張った糸に指先で軽く触れ、くっとかすかに引いたような、そんな感じでした。

 私は顔を上げました。あの部屋が目に入りました。向かいのマンションの、空き部屋です。少女がいる、あの部屋です。

 左手に、かすかな痛みが走りました。手を上げて見てみると、指先に血がにじんできていました。とても、とても真っ赤な、血の球でした。

 私は、ポケットに入った絆創膏のことを思い出しました。廊下ですれ違った時に、白いスーツの女性からもらった、絆創膏です。

 指から、血がぽたりと落ちました。私は前に踏み出しました。そのまま、まっすぐ歩きました。あの部屋のあるマンションの方へと、歩いていきました。指先から、血がぽたり、ぽたりと落ちました。


 気が付くと、扉の前に立っていました。黒い、黒い扉です。私はドアノブに手を伸ばしました。扉は、すんなり開きました。

 薄暗い部屋でした。部屋に明かりはなく、街灯の白い灯だけがかすかに部屋に差し込んでいました。

 床は、青い薔薇の花びらで埋め尽くされていました。真っ青な、綺麗な薔薇の花びらです。花びら自体が光を放っているかのように、部屋はかすかに青く照らされていました。

 私は足を踏み出しました。くるぶしまで、花びらに埋まりました。私がそのまま歩いても、花びらは何の音も立てませんでした。まるで清流の中を歩くように、私は進みました。

 部屋の隅に、古いベッドがありました。白いシーツがかけられたベッドは、長い間使われた形跡がありませんでした。でもシーツは、洗い立てのようにとても清潔でした。

 その時、後ろの方で花びらがかすかな音を立てるのが聞こえました。まるで、誰かが花びらの間をぬってこちらに歩いてくるようでした。

 音は、私のすぐ後ろで止まりました。私は静かに目を閉じました。そしてそのまま意識が途切れました。


 わたしは薄暗い静かな部屋が好き。この優しい空間が好き。この静かな優しい空間を壊してしまわないように、じっとしているの。じっと、じっと、するのよ。

 ああ、花びらの音がする。床の花びらが、かさかさ、かさかさと――。

 今日も、また、――。

 おやすみなさい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ