あすなろの唄
~ ──・・・明日は、なろう── ~
突如あたしの脳内に、心に……響く伸びやかな歌声。
ふと重い瞼を開いて、何も見えない天井を見詰めた。
透き通った空気がツンと鼻腔に沁みる。隣に横たわる影は眠っているのだと思っていたけれど、僅かに身じろぎしたのを感じて、あたしはおもむろに唇を動かした。
「氷ノ樹……起きているの?」
その問い掛けに、触れ合う肩先が震える。
「ああ、ゴメン……起こしちゃったね。懐かしい唄が頭をよぎって、つい口ずさんでしまったみたいだ」
少しバツの悪そうな彼の声と含み笑いは、暗闇にじんわり溶けていった。
涼やかな青年らしい声音。いつの間にか声変わりをして、急に大人びてしまった「双子の兄」。
「あたしもその唄好きだからいいわ。ね、続きを歌って」
「そう? じゃあ歌うよ、君の為に──明日梛」
再び脳内に、心に……兄の柔らかい歌声が響き渡った。
彼が歌っているのは、「あすなろ」を人に譬えた唄だ。
「「ひのき」に憧れ、明日には(ひのきに)なろう、『あす』には『なろ』う」と願った為に、名付けられた翌檜。
檜に似ているのに、檜にはなれない悲しい大樹。
あたしもずっと「ヒノキ」に憧れてきた哀れな「アスナロ」だった。
美しい声・容貌、髪は艶やかで滑らかで、何より聡明で何歩も先を歩く兄。
けれどあたしも明日には檜になる。兄を追い越した存在になれる。
「もう明日なのね。嬉しいような……淋しいような気もする」
唄の終わりを告げるような吐息が聞こえて、あたしもやんわりと溜息を零した。
「淋しいなんて……嬉しいよ。でも僕は、明日梛が自由になれるのが一番嬉しい」
「うん……ありがとう。あたしもよ、氷ノ樹」
見えないお互いの視線がかち合った気がして、あたしははにかみながら、重なり合う肩先に掌を添えた。
明日──あたし達は「二人」になる。この繋がった肩先を切り離して、一体から二体へと。
氷ノ樹と明日梛、二卵性双生児であるあたし達は……いわゆる結合双生児なのだ。
世の中にはそうして生まれてきた兄弟・姉妹が、これまでも沢山存在した。一生くっついたままで終える二人、分離手術を受けて普通の生活を始めた二人。でもあたし達よりも以前は、全員が「一卵性」双生児だった。「二卵性」の結合双生児なんて、世界でも初めての奇跡だという。
「よっぽど仲の宜しいご兄妹なのでしょうね」
周りの人達は勝手な思い込みと慰めで、そう言いのけてくれるけれど。
そんな言い草に笑顔で応えて、そういう兄妹を演じてきたけれど。
たった肩先一ヶ所が繋がっただけで、どれだけの苦労をしてきたのか、あたし達の想いを一体誰が理解出来るというの?
街を歩けば奇異な物を見る眼差しに晒され、服を着るのも一苦労な日常生活、更に思春期を迎えたあたし達は──片割れが異性であることを、まざまざと思い知らされ始めた。
だから氷ノ樹とあたしは決断をした。一か八かの分離手術という道を。
あたし達の決意を知って、両親もお医者様もこの想いを受け入れてくれた。受け止めてくれた。
でも……知っているの。あたしだけは──分離をしたら、氷ノ樹は助からないということを。
氷ノ樹の首から上は、あたしと同じ年相応だ。でもその下は……とても未熟な状態のまま。全ての臓器は備えているけれど、どれも幼児期から成長していない。だから彼はいつもあたしの肩にしがみついて、あたしの動きに寄り添ってきた。
「離れれば、君の口から摂取したエネルギーは、全て君の身体を造る要素となるからね」
お医者様は兄にそう告げて微笑んだ。でも……本当のところは違うのだ。
氷ノ樹だけが眠りに落ちた一週間前、あたしは寝た振りをしながら聞いてしまった。手術がどんなに完璧だったとしても、兄の身体は朽ちるのだと。
両親とお医者様はあたし達の意を汲みながら──あたしだけでも生かそうと覚悟したのだ。
だからあたしも覚悟したの。氷ノ樹の分まで生きてあげる。これからは一人の身体で、二人分の素晴らしい人生を生きてやる。
「ね、氷ノ樹。この間途中になってしまった宇宙のお話の続きを聞かせて?」
歌い終えて満足した様子の静かな兄に、あたしは最後のおねだりをした。
──彼が居なくなる前に、彼の全てを手に入れよう。
あれから一週間。その為だけに彼の機嫌を窺っては、あたしは兄の手にする知識に、深く深く聞き入った。陶酔するようなあたしの表情にほだされたのか、氷ノ樹は饒舌に自分の中身を引き出し続けた。彼の言葉は耳からだけでなく、繋がった肩先を通して、不思議と淀みなくあたしの一部になっていく。まるで内部に染み透るかのように、細胞の一つ一つが彼の言葉を刻んでいく。
この物語を我が身に宿して、必ず兄にも負けない賢い大人になってみせる。
とうとう「アスナロ」が「ヒノキ」になって、輝かしい未来を生きるんだ!
「もう遅いよ? 明日は手術だし……大丈夫?」
「うん! 身体が繋がっている内に、氷ノ樹の声を中から聞きたいの。この心地良い言葉の震動は、もう明日の今頃には感じられないのだもの」
「そ? ……じゃあ──」
あたし達だけが存在する病室という空間が、語り出す氷ノ樹の声で無限に広がった。
暗闇に溢れ出す言葉の数々が光の玉に変わって、それは蛍のように四方に舞い散り、宇宙を形成する星となった。
氷ノ樹、貴方の知識はあたしの血潮となり、貴方はあたしの中で生き続ける。
だから全てを語り尽くして。明日からの明日梛の糧となって──。
■ ■ ■
【SIDE:氷ノ樹】
隣ですやすやと寝息を立てている可愛い妹──明日梛。
いつの間にか少女から女性への階段を昇り始めた彼女の肌に、僕は極力触れずにいた。
しがみつくのは繋がった肩先の周囲のみ。どうしてってそれ以上触れてしまったら、きっと僕は決断出来なかったから。
分離手術──彼女と結ばれている、という幸せを捨て去るこの哀しい行為を。
もちろん僕は妹に恋している訳じゃない。
ずっと共に生きてきたんだ。それがすぐには手の届かない所へ行ってしまうなんて……自分の肉体の一部を失うが如き辛い所業だ。
彼女は見た目に幾つかのコンプレックスを抱えているらしいが、それらは全て僕にはチャーミングに思えた。隣から眺める弓なりの鼻筋も、短い睫毛も、ほんのり紅みのある頬も──どれも愛らしく愛おしい双子の妹。
そんな彼女が唯一望んだ未来に、僕は逆らえる筈もなかった。異を唱える気もなかった。
それでもまた別の新たな麗しい生活が始まるのかも知れない。彼女と離れれば、妹は僕を真正面から見詰めて、優しく微笑んでくれるのかも知れない、と。
けれどそんな淡い希望は、一週間前にあっけなく崩された。
僕さえも寝た振りをしていたという事実に、どうやら妹は気付かなかったみたいだ。僕だって気付いていたさ。肉体を分かてば、僕の命はもたないのだと話す、あの三人のヒソヒソ話を。
だから僕は君に全てを語ることに決めたんだ。同じように君は僕の全てを求めた。さすが双子だと感じた瞬間だったよ。僕達の希望は一致した。
一週間、君は聞き逃さないよう僕の瞳をじっと見詰めてくれたね。でも明日の手術を目前にして、まだ話しそびれていた宇宙の話を思い出したんだ。だから僕は今から君を目覚めさせる。さて……どうやって起こせばいい?
そうだ……君の好きなあの唄を歌うよ。翌檜を人に譬えたあの童謡。
~ ──・・・明日は、なろう── ~
ほら。やっぱり君は目を覚ましてくれた。
「氷ノ樹……起きているの?」
お次に君は、きっとこうもお願いするよね?
「ね、氷ノ樹。この間途中になってしまった宇宙のお話の続きを聞かせて?」
君もあの物語が、僕からの最後のプレゼントだと気付いていたから──。
「そ? ……じゃあ──」
もちろん話してあげよう。君に全てを与えると決めたのだから。
そして僕はその情報と共に、君の血液に脳細胞に、全ての器官に自分の意識を写し込む。
全てを語り終えた時、僕の肉体は抜け殻になるんだ。僕という人格は君の全てを侵食し、君という存在に移されるから。
「ヒノキ」になりたかった可愛い「アスナロ」ちゃん。
でも明日には「ヒノキ」が「アスナロ」になるんだよ。
「アスナロ」はいつまで経っても「ヒノキ」にはなれないのさ、フフ……。
──……いや。
これもまた「アスナロ」が「ヒノキ」になるということかもね?
明日から僕は、僕の意志で君に触れる。鏡に映された君を真っ直ぐ見詰める。
そしていつでも歌ってあげるよ──君の大好きなあの「あすなろの唄」を──。
【Towards the tomorrow・・・】
【以前、目次背景が設定出来ていた時に使用していた画像です】
*最後までお読みくださり、誠にありがとうございます*
元々は「ヒノキ」と「アスナ(ロ)」というキャラ名で、何か作品を書きたいというぼんやりとした想いと、「翌檜」を謳ったとある童謡がとても好きなので、使ってみたいという気持ちが合わさり出来上がった作品です。
残念ながら当サイトの規定「作詞家没後五十年に満たない歌詞は掲載不可」という条件がクリア出来ていない為、歌詞を使用する事は断念致しました。何となくでもその童謡が皆様に伝わっていましたら幸いでございます*
(ちなみに「氷ノ樹」はご覧の通り、「樹」を使って檜を想像させていますが、「明日梛」という名前も、末尾の「梛」を「梛の木」という熊野神社の御神木から戴いています)




