1.
この世界には天使がいる。悪魔がいる。そして──人間がいる。
天使の済む領域の最端に建つ一つ施設。
そこは"サクリの施設"と呼ばれている。
そこには"サクリ"と呼ばれる子ども達と、その子ども達を見守る大人達が一つ屋根の下で住んでいる。
私は施設の外を知らない。
二階の廊下で立ち止まり窓の方を向く。
ぼんやりと外を眺める。ガラスの向こう側には高く聳える山。その山の向こうには多くの天使様が住んでいるのだという。
今は想像を膨らませることしかできない。
人間よりも遥かに偉い存在。今の私達には手の届かない存在。
ふとガラスに薄く映る人の顔が見えてくる。
赤みがかった瞳と髪。黄ばんだ肌。何よりも顔に蔓延る深い深い傷痕。その傷が美しい顔を台無しにしている。
もし男の子だったらそれは男の勲章になっていただろうか。
ガラスに映る私が傷痕にそっと手を当てていた。
否。きっと男の子だろうがその傷は一生不名誉となるものだろう。
なぜならその傷は悪魔から受けた傷だから。
悪魔とは天使に仇なす存在であり、忌み嫌われる存在である。この傷は悪魔の下卑なオーラが残っている。
悲しくて憎くてやり切れないけど、どこか憎めずただそれを触れていた。
ゆっくりと瞼を閉じた。
思い出されていく忌々しい姿。
人型に近い異形。遠くからなら人間にも見えるが、近くで見れば人間とはかけ離れた姿。真っ黒い靄が全身を覆っている。顔は歪んだ笑みだけが浮かんでいる。
この施設は関係者以外立ち寄ることができない。
その時までは理解出来なかった。悪魔は勿論のこと、天使の土地にあるというのに天使にあったこともないし、施設の大人達やサクリ以外の人間にもあったことはない。
閉鎖された空間の中で血の繋がっていない家族とともに過ごしていく日々。
家族と一生を過ごすものだと思っていた。
その時はまだ関係者以外の存在と会うことがあるとは思いもしなかった。それが最も出会う可能性が低いと思われる悪魔ということなど知るよしもなかった。
この施設は悪魔の侵入を防いでいたのだろう。
だからこんなにも厳重なのだ。
出ることも入ることもできない。それは全て危険な存在である悪魔の侵入を防ぐため。
それでも悪魔は施設に入り込んだ。
どのように入り込んだのかは未だ分からないらしい。ただ、その事実だけが取り残された。
突然現れた悪魔。
悪魔は身につけている剣の刀身を顕にしながら、施設を彷徨いていた。
そこに私が鉢合わせた。
「ミツケタ。マナニアダナスモノ……」邪険なオーラで私を睨んだ。
そして邪険な雰囲気を醸し出しながら近づいてきた。
『ウルドス』
悪魔の繰り出した剣技が私の顔を裂いた。
斬られた一瞬はたった数秒の出来事なのに、その一瞬は一年もの時が過ぎたような気がした。
血は出ることはなく痛みも死ぬこともなかった。代わりに、顔に消えない痕を残した。
余りにも長すぎる走馬灯と、突然見知らぬ異形に殺されそうになったという恐怖が体を止めた。
何もできず、ただ震えながら立ち止まる。退くことも立ち向かうこともできない。ただそこに立つだけ。
悪魔は待ってはくれなかった。
悪魔が剣を構えた。
『ヴェルダンディオ』
凄まじい威力を乗せた刀が私に向かって放たれる。
怖さが何も感じさせなかった。
「殺させませんよ」どこからともなく声がした。
剣と剣がぶつかり合い威力が相殺される。
私のすぐ後ろには執事長のグランバトがいた。
すっきりとした黒スーツを着た彼から放たれる力強い貫禄と剣の技術。年の功が為せる実力で悪魔と張り合った。
均衡した剣と剣の穿ち合い。
攻めきれないと踏んだ悪魔は距離を置いた。
「マタジャマヲ……。シカタナシ」
悪魔は悔しいオーラを放ちながらどこかへとふっと消えた。
瞬間移動とはまた違った消失のような消え方だった。
悪魔が逃げたことによって、施設には再び穏やかな風が流れた。
安堵感に襲われたのか私は全身から脱力していた。
グランバトは当然のような顔で空を眺めていた後、私の頭を優しく撫でた。
優しくて、温かいのに。どこかぎこちない。
彼は申し訳ないように彼は呟いた。
「もっとはやく気づいていたのならば……。こんな深い傷がつくことがなかったのに」
小さく悔やんでいた。
私は心の中でグランバトのせいじゃないよ、と言い放った。これがその時の私が出せた全力の声だった。
開眼。
窓ガラスに映る私。
この傷痕は不名誉なものだ。あの時、偶然にも悪魔と遭遇し攻撃されたことによってつけられた。
あの日から私は悪魔に対して恐怖心を覚えるようになった。
そして、もう一つ。
私は心の隅でグランバトに憧れの念を抱くようになっていた。
いつか彼のような執事になれたらな。なんてことを考えながらぼんやりと外の景色を眺めていた。
ナルミ──
どこからともなく名前を呼ばれた。
振り返るとそこには。
私は外の景色を後にした。
【悪魔とは一体なんなのか】




