お説教
「あなた達は何を考えているんですか!!」
クラッヒト家の広大な屋敷に凄まじい怒号が響き渡る、一瞬使用人達が肩を跳ね上げその手を止めるが、いつものこととばかりに溜息をついてすぐに作業を再開する。
心優しく、使用人達を常に気遣う敬愛すべき奥様がこの様な声を上げるときは一つしか無い。大英雄と剣聖がお説教を受けているときである。
「全く、私は常日頃から申しているはずです! お兄様もダリスも思慮が足りないと! 後から知らせを受けてどれだけ私が心配したか! あなた達がついていても万が一はあるのですよ!? もう少し私の気持ちを考えて頂けますか!! あなた達は人の気持ちの機微に鈍すぎます!」
「そうですよ! 全くです!」
怒り心頭のジャクリーン、興奮冷めやらぬ彼女の膝で眉間に皺を寄せうんうんと頷いているのは騒ぎの張本人、マルスその人である。
「いや、マルス……連れて行けと駄々をこねたのはお前……」
「本当に二人とも人の気持ちを分かってないです! 折角手応えがある相手が出てきたと思ったら勝手に倒しちゃうんですから!」
「あぁ……そっちか……」
「ま~る~す~ちゃ~ん? あなたもよ? 怪我が無かったから良いものの……あなたのトレーニングに口出しはしません、ですけど勇敢と蛮勇は似て非なるものです、いいですか? 魔物とは非常に恐ろしいもので……」
ジャクリーンのいつものお説教が始まる……こうなったら非常に長いことをマルス達は経験から知っている。上手く別の話に誘導するか……? いやいや、それはそれで説教が長引く恐れも……。
「だが……あの地竜を見て『恐ろしい』ではなく『手応えがある相手』か! 思った通りマルスには素質があるな!」
最初に動いたのはフリード、どうやらマルスの武勇を褒める方向で活路を見いだす作戦のようだ。
「お兄様! いかに素質があろうとも相手を見誤れば待ち受けるのは死です、お兄様はそのマルスの才をこのような幼い内に散らせるおつもりですか!?」
「だが……才と言うなら確かに……まさか齢六つにして魔狼を十匹も狩るとは……」
魔狼という魔物は読んで字の如く狼の魔物、野性の狼が魔性を帯びたという説が一般的な群れで暮らすどこにでもいる魔物である。群れで無い限り個々の戦闘力はさほど高くはなく、クラッヒト家では従卒の騎士昇格試験で一対一で魔狼を倒すことが昇格の条件の一つとなっているが……。
だが今回マルスが倒したのは数もさる事ながら戦闘時の連携を見る限り相当に戦い馴れした群れ。それに騎士昇格試験においては完全武装が当たり前、それでようやく対等の勝負になるという認識である……そのような相手を十匹、しかもマルスは全ての魔狼を素手で一撃の下に葬っている。
これが武に精通した大人が成し遂げたというならば納得がゆくだろう、だがやり遂げたのは僅か六歳のあどけない少年である。武門の家にあるものならば誇らしさに頬が緩むのも致し方ない事であろう。
「はぁ……武勇を誇るクラッヒト家において、マルスの成長が喜ばしいのは分かります……ですが! それとこれとは話が別! ともあれば地竜の牙にかかっていた可能性もあるのですよ? もっと安全なやり方があるでしょう!」
「まぁまぁ、お前も子供の頃はお転婆で剣を携えて森に突っ込んだり……」
「……お兄様……? 口は災いの元……という言葉をご存知?」
ジャクリーンの肩に陽炎のようなものが立ち上るのを見てフリードが慌てて両手で自らの口を塞ぐ、結局この失言が原因か……お説教は昼過ぎまでたっぷりと行われる事となったのであった。
……
「昼は災難だったな、マルス」
討伐完了の酒宴の中、マルスの肩をポンと叩き悪戯な雰囲気で笑う少年……。マルスにそっくりな茶髪に黒目、だがその肌は健康的に日焼けしたマルスとは対照的に血管が透けるほどに白い、マルスの4歳年上、クラッヒト家の二男トーマスである。
「兄上、はい……お母様のお怒りはまだ解けないみたいで……」
「ははは! 母様が怒ったら長いからなぁ、見て見ろ、伯父上がまだ叱られているぞ? 大英雄と言ってもなかなか妹には勝てないと見た」
「ふふふ、でも伯父上はやっぱり凄いですよ、今日の酒宴のあれ、あの地竜を一撃で吹き飛ばしちゃうんですから」
酒宴の舞台、広大な庭の真ん中には巨大な地竜が丸焼きにされて鎮座している。領民達への振る舞いにも切り分けられているが、それでもなかなかに食い切れぬ量であろう。
このような巨大な魔物を一撃で葬る、そのような芸当が出来る者が世界中探して一体何人居るだろうか? マルスは自らが対峙できなかった悔しさを忘れ、誇らしさに胸が一杯になるのを感じていた。
「そういえばマルス、お前も随分やんちゃしたらしいな? 魔狼を素手で倒したんだって? 大人でもなかなか出来ることじゃない、凄いじゃないか」
「いえいえ、僕なんてまだまだです、皆さんに手柄を譲って貰えたようなものですよ、そういえば兄上は狩りには行かないのです?」
「僕はああいう血なまぐさいのはちょっとねぇ、魔法の研究をしてるのが性に合ってるさ。幸い二男だから家督は継がなくていいし研究はし放題! トール兄様の補佐をしながら趣味に生きるのも一興かってね」
夢見がちな表情で天を仰ぐトーマスを見てマルスが苦笑いを浮かべる……。血なまぐさいのは……とは言うがしょっちゅう魔法実験で魔力を暴走させて血達磨で転がっているのはどこの誰だか……。
トーマスがこんなだからこそジャクリーンが子供達に対し過保護になっているとも言えないでもない、だが人の探究心というものは封じること叶わぬもの。マルスはこの愛しいお馬鹿さんがいつか致命的な何かをしでかさないことを神にそっと祈るしかないのだ。
「でも、大英雄かぁ……確かにあの武勇には憧れる、いつか並び立って……ってのは誰でも思うよな。生憎僕は武に関する才は無かった、だからマルス、お前には期待してるんだぞ?」
「伯父上に……並び立つ……」
……いつか……自分も……。心に浮かんだその想いは、大いなる力を目にした少年達が誰でも持つ素直な気持ち。だがマルスの心に宿った言葉は、近付きたい、彼の隣に並びたいといった言葉とは違っていた。
『超えたい』
余りにも大きな差、そのような夢物語を語ろうとも実際の差を目にすれば強い意志もポキリと折れる。……だが、マルスの瞳には確かな灯が灯っていた、あの伯父を、大英雄フリードを超える……。遙かなる目標を前にマルスの胸は滾る炎を宿して高鳴っていた。