地竜
「はぁ……折角ここまで来たのになぁ……」
「ははは、坊ちゃん、ここまで連れて来て貰えただけでも運が良かったと思いましょう。……それに今日は森の様子がいつもと違う、余り無理はなさらぬことです」
騎士の一人に諭され、マルスが頬を膨らませて精一杯の抗議をする。折角こんなファンタジーな世界に転生出来たのだ、しかも前世では叶わなかった健康な体まで手に入れて……。
もっと色々な物を見てみたいし体験したい、あわよくば鍛えた己の体が、力が、何処まで通用するのか試してみたい、そう考えるのは男子に生まれた以上極めて健全な思考であろう。
「僕だって戦えるのに! 剣も! 組み打ちも! いつも頑張ってるのに!」
「まぁ……そりゃあそうですがね……」
「僕だって分かってるよ、皆が僕が領主の息子だからって手加減してくれてるのは! だけど少しくらいさ……ぐすっ」
涙目で俯くマルスをどう慰めたものかと護衛の騎士達が複雑そうな表情を向き合わせる、手加減? とんでもない、確かに一昨年の春、坊ちゃんが訓練場に来た当初はそんな発想もあったかも知れない、だがそれは無用な気遣いであったと騎士達はすぐに思い知らされた。
大人のプライドとして余裕を持った様子で相手をしてはいるが、その実毎回薄氷を踏むような思いで模擬戦の相手を務めているのである。まぁ、お陰で騎士達の練度が跳ね上がったのは嬉しい誤算と言えるかもしれないが……。なんにせよ、自分達が手加減していると思い込んでいる以上、ここでの慰めは互いのプライドを守るためにもよろしくない。
「坊ちゃんの身を案じての事ですよ、それに考えてもみて下さい? 坊ちゃんが万が一怪我をして、それを奥方様が知ったら……」
「……父上と伯父上の命が……」
「その通りです、ですから今日の所はきちんと大人しくしていましょう、ちゃんと指示を守れると見せておけば次回は連れて行って下さるでしょう」
言わんとしていることは理解できる、だがこの幼子を諭す物言いはいささか不満……まぁ、中身はどうあれ外見は幼子そのものなのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが……。
……と、何かに気付いたのであろうか? マルスが伏せていた顔を上げ、森の中の暗闇を凝視する。釣られて騎士達も暗闇に目を凝らすが、特に変わった様子は見受けられず首を捻る。
「坊ちゃん、どうされたんです? 何も無さそうですが……」
「……何か……来る!」
「へっ? 何かって……」
いつにないマルスの真剣な眼差しに再び騎士達が森を見つめる……。何も……無い? いや……何か違う……葉の揺れ、幹の震え、景色が少しずつぶれ始める。
キキッ! キャキュッ! カギャギャッ! キーッ! ヴォウヴォウ!
「総員抜剣! 獣は相手にするな! 魔物を囲んで確実に仕留めろ!! 魔導師は後方で詠唱開始!!」
森の中から次々に獣が、魔物が溢れ出してくる。一目散に逃げる者、恐慌状態で襲いかかってくる者、その全ての行動が常の行動から逸脱している。
最初こそ突然の襲撃に面食らっていた騎士達だったが騎士長の命令に気を取り戻し迎撃を始め、徐々に体勢を整えてゆく……が、恐慌状態の魔物達の挙動が読めず劣勢を強いられる。
「っっ! 様子がおかしい! 坊ちゃん、我々の後ろに……っ!?」
グルルルオオォォォォオオオ!!
突如、森の中から響き渡った咆哮、大気を震わせ、臓腑に音叉の様に響くその声に体が一瞬強ばり、反応がほんの数拍遅れる。
「っ! 坊ちゃん! 危ない!!」
咆哮に身をすくませた横を魔狼がすり抜けてゆく……伸ばした手が、剣が、届くことなく空を切る。その大きく開けた顎が狙うは目の前に居る柔らかそうな子供の喉笛……。だが、今正に食らい付こうとした魔狼の眼前に魔法陣で作られた障壁が展開される。
良かった、間に合った……騎士達が胸をなで下ろした次の瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられる。
最初は身を竦め、防御姿勢を取っているのかと思った。だが違う、マルスがクロスしたその右腕をゆっくりと引き、そして腰を深く沈める……それは防御ではない、迎撃の構え……。渾身の溜め、足裏から拳までの関節の連動、そして日々岩を殴り鍛えたその拳!
クラッヒトお抱え魔導師の防御障壁、騎馬の突撃を止め、巨大な火球をも弾くその障壁が、突き出された拳によりビスケットでも割るかのように砕け散る。
砕いた勢いそのままに魔狼の頭蓋を砕き、振り抜いた勢いのままに繰り出した回し蹴りで死体を飛び越えて来た二頭目の首を折り、そのまま引っ掛けた爪先で下をくぐり抜けた三頭目の頭に死体を叩き付け、藻掻く三頭目の頭を踏み潰す。
一瞬の内に積み上がった魔狼の死体を見て騎士達はただただ唖然とするばかり。そして同時に理解する、マルスの言う『手加減』の認識の違いを……。
命の取り合いとしての『実戦』試し合いとしての『試合』、普段の訓練場での試合……限界ギリギリの力を振り絞って戦っていた騎士達に対し、この六歳の少年は命を気遣い、殺さぬよう怪我をさせぬよう、飽くまで『試合』の領域で戦っていたのだ。
「皆! 父上達が戻るまで頑張ろう!」
マルスの檄に、呆気にとられていた全員が止まった時が動き出したかのように慌ただしく動き出す。森の中から溢れかえる魔物達、斬り、燃やし、凍らせ、そして殴り倒す。津波のように押し寄せるそれらが収まったと思われたその時、木々を薙ぎ倒しそいつは現れた。
深淵を覗くが如くの闇を纏い、紅玉の如き瞳を炎のように揺らめかせ、鋸刃のような顎を開きその喉奥から絶望の音色を奏でる。
グルオアアアアァァァァァアアアア!!
10メートルを優に越える巨体から生えた大木の様な足が着地と同時に大地を揺らし、放たれた魔法をものともせずに落ち着いた様子でこちらを見下ろす姿は威厳さえも感じられる。
『地竜』
森林の王者と称される四足の魔物の支配者、悪夢を形にしたようなその巨体の威容に騎士達は戦意を喪失していた。
地竜が……来る、動かねば……戦わねば……、坊ちゃんは……!? 護らねば! 逃がさねば! 例え……この命に代えても……!
意思とは逆に竦む足は震えに憑かれ、乾く喉が言葉を出すのを許さない、視線を移す先には立ち尽くしたまま動かないマルス……絶望が巨体を揺らし一歩踏み出した瞬間、騎士達は信じられない言葉を聞く。
「……さぁ……戦ろう……っ!!」
にいっと口角を上げたマルスが構えを取ると同時に、地竜がその身を震わせ奔り出す。自らの十倍以上もの大きさの相手を見つめるマルスの瞳には闘志満面、怯えも恐怖も存在していない、そこに宿るは力への渇望、自らの可能性への探究心、子供らしい無謀とも言える力試し。
「坊ちゃん! 駄目です! 逃げて下さい!!」
金縛りに遭ったように動かなかった口を無理矢理動かして放った言葉が届いたのか届かないのか……、向かい来る地竜を迎撃せんとマルスが大地を蹴り走り出す。裂帛の気合を込め、満身の力を込めて構えられたその拳……。今正に放たれんとしたその瞬間、地竜の体が凄まじい勢いで横飛びに吹き飛ばされる。
「おりゃあああぁぁぁぁ…………あぁ!?」
勢い余り、つんのめりそうになりながらようやく体勢を立て直したマルスの目に映ったのは巨大な戦鎚を担いだ伯父の姿。
「いや~、まさかここまで素早いとは思わなんだ、全く、歳は取りたくないもんだ! ははははは!」
「義兄上……下手に威圧すると逃げてしまうと申しましたでしょうに……」
土煙の舞う中、腰を伸ばして高笑いをするフリードの横でのた打つ地竜の巨大な首をダリスが一刀のもとに両断する。地竜の巨体を吹き飛ばすフリードもだがその大木の幹より太い首を一刀で斬り落とすダリスの業前も凄まじい。
皆が眼前の出来事に呆気にとられ、そして歓声を上げる。王国の大英雄と王国一と賞される剣聖、歴史に名を刻む二人の雄姿に胸が熱くならない者は居ないだろう。そしてその二人を伯父と父に持つ若き戦士……二人を見詰めるその胸中は……その表情は……?