森の異変
「よっと……ここまでは異常なしですな」
白刃が閃き、襲い掛かってきた狼型の魔物が首を断ち切られその場に崩れ落ちる、黒みがかった体色と赤い瞳、魔物と呼ばれる存在の証左である。この体色が深い闇色になるほどにその力も強くなり、時には魔法を使う個体までも現れる事がある。
「相変わらずの太刀筋だな……また腕を上げたか?」
「義兄上こそ、以前より更に逞しくなられて……とても引退を仄めかしていらっしゃったとは思えませぬな」
「ははは、余りいじめてくれるな。なに、最近枯れておるのが勿体なく感じてきてな」
「……マルス、ですか?」
ダリスの質問にフリードが小さく頷き、そして天を仰ぎ拳を握り込む。
「私はな、諦めていたのだ。がむしゃらに走る内に私の武名は大きくなりすぎた、今や我が領は周辺諸国の目の敵だ……。今の仮初めの平和がいつまで続くかも分からぬ……恐らく私の死後には不届きなる輩共がこぞって我が領に群がってくるだろう」
「……もしや義兄上、引退を餌に……」
「私が老いたと勘違いした奴等を道連れに……とな。我が領の兵達は精強だ、だがあやつらをもってしても多方面から攻められれば危うい。相手にただでは済まぬと思わせる抑止力が必要なのだよ、今の私のようにな」
「義兄上の後継者……ですか」
「私とキャスリンの間には遂には子は出来なんだ、今更後妻を娶る気も無い。強き者の噂を聞いては足を伸ばしてみたが目に叶う者はついぞ居なかった……。だが、だが! 私は見つけてしまった! 輝く宝石の原石のような……内にマグマを溜め込んだ火山のような……私を超えるやも……いや、私を確実に超えてゆく逸材を!」
「……それがマルスだというのですね?」
多国との国境に面して存在するフリードの治めるマスクル辺境領、常勝無敗の英雄の存在は周辺諸国からの盾となり長年祖国を守り続けてきた。
だがフリードは子に恵まれず、最愛の妻とも死別、王もフリードを案じて多数の縁談を持ちかけたがその全てを拒否。周囲の心配を他所に彼は終活とも取れるような身辺整理を始めていた……。
そのフリードが全身に力を漲らせ、まるで少年の頃のように輝く瞳で夢を語る、ダリスは目頭が熱くなる思いだった。英雄と呼ばれる前の共に夢を語り、野山をかけまわった幼馴染みの悪ガキが再び目の前に居たからだ。
「その……つまり……なんだ、もしだ、もし……よければなんだが……」
「ふふっ、マルスは三男で爵位の継承権も無い、義兄上のマスクル辺境領の跡取りとして養子に行くなら願ってもない事でしょう」
「う、うむ……だが……マルスの意思というものもだな……」
「安心して下さい、義兄上、義兄上はマルスの憧れです。二つ返事で了承するでしょう、ただ……問題があるとすれば……」
「むぅ……ジャクリーン……だな……」
まるでプレゼントを貰った子供のようにフリードの目が輝く、が、妹の名前を呟いた瞬間その瞳の輝きが泥濘の如き深淵に吸い込まれていく……。百戦錬磨の大英雄であろうとも身内の女性相手ではどうにも分が悪いのであろう……。家庭内での力の序列というものはなかなかに根深いものである。
「御主人様、只今戻りました。早速ですがあちらに妙な物が……」
「斥候ご苦労、妙な物? とは一体何だ?」
「突撃猪の死体です。ただ、食い荒らされているのですが……歯型が狼の物とは違うのです」
突撃猪とは言ってみれば巨大な猪、体長4メートルを超えるこの猪はこの森の中では生態系の上位種であり成長した個体を捕食する存在はそう多くない、稀に弱った個体が狼の群れに捕食される事はあるが……斥候の様子を見るに通常でない、何か異状な事態が起きている事は間違いないだろう。
「一先ずは現場に行って確認しよう、普段とは違う何かがいるのやも知れん」
「そうですね、よし、案内してくれ」
……
「これは……」
森の中に横たわっていたのは体長6メートルを超える巨大な突撃猪、その腹と臓物が丈夫な肋骨ごと食い千切られている。
「ふむ……この歯型は……いかんな、これは地竜だ……」
「この森に地竜が居ると聞いたことはありませんでしたが……知られてなかったか、それとも外から来たか……」
「何にせよ厄介な相手だ、このサイズだと魔物化しているだろう。討伐出来るまでここは立ち入り禁止だな……!! 背中合わせで周囲を警戒! ……居るぞ!」
不気味に静まり返った森の中、シュルルル……シュルルル……と吐息を滑らせる音が響く。周囲に動く者は居ない……いや、動けないのだ……。森の住人達は理解しているのだ、動いたら最後、あの血の色をした瞳に見つめられ、鋸刃のような顎に食い千切られ、断末魔の叫びすらも愉悦の添え物に使われることを……。