辺境伯フリード
「坊ちゃま~、坊ちゃま~? あっ! 坊ちゃま、ここにいらしておられたのですね!」
屋敷の中庭に立つ巨木、その枝に足をかけ、逆さ吊りの状態で岩を抱き腹筋をしている幼児……齢六歳にしてそのような芸当、明らかに異常な事態ではあるが屋敷の者はそれが日常と化しており驚く者はもう居ない。
明るい茶色の髪に黒い瞳、利発そうで愛らしいこの少年のどこにそのような力があるのか……。まぁ、服をめくりその鍛え上げられた肉体を見れば納得出来るであろうが……。だが異常は異常、その異常が日常になるほどにその光景はこの屋敷で当たり前のものとなっていた。
「あっ、マリーどうしたの? っふ! っふ! ちょっと……待ってね……っふ! もう……ワンセット……っっ」
「も~! 坊ちゃま! フリード辺境伯がいらっしゃってますよ、今日のお昼って伝えたはずですが?」
「えっ!? 伯父上が? 待って、すぐに降りるから!」
言うが早いか上半身のバネを使い跳躍し、一回転、二回転と回転して枝の上からの見事な着地を決める、世が世なら体操選手に……いや、何を危険なと親が止める所であろうが、言って聞かせて止まるマルスではないのは屋敷に住む皆が分かっている。
彼はその幼児らしからぬ引き締まった体が表すように、前世で神に祈った通り、勤勉で、実直で、真面目で、己が筋肉に対し誠実であった。
「マリーありがとう! さぁ早速……わっぷ!?」
「汗くらい拭いて身支度なさって下さい、笑われたり叱責されるのは旦那様や私達なんですからね?」
「あはは……ごめんごめん」
行く手を塞ぐように広げられたタオルを受け取り汗を拭いて身なりを整える、早く……早く……! 逸る気持ちも分からないではない、訪ねてきた伯父は彼の……いや、国中の憧れそのもの。
曰く『救国の英雄』曰く『軍神』曰く『神に愛されし聖騎士』、数々の武勲に彩られた彼の足跡は吟遊詩人が歌に唄わぬ日は無く、王国内全ての子供たちが寝物語に聞かせられる。戦場での活躍になぞられ『ハンマー卿』の二つ名で呼ばれるこの伯父は、まさにマルスにとってのヒーローであり憧れの体現であった。
「伯父上!」
部屋に入るなり飛びついてきたマルスをフリードが優しい微笑みを浮かべながら丸太のような腕でしっかりと抱き上げる。甲冑要らずと称される分厚い胸板、宮殿の柱を思わせる馬を置き去りにすると言われるその脚、一本一本がマルスの手首ほどもあろうかという力強い指、炎のような赤髪と髭に縁取られた厳めしい顔、その全てがマルスの考える理想そのものであった。
「また大きくなったな、マルス」
「はい! 頑張って伯父上のような戦士になれるよう研鑽を積んでおります!」
元気に答える甥っ子の頭をフリードが愛おしくて堪らないという様子で撫でる、仲の良い伯父と甥っ子の微笑ましい光景であるのだが……そこに咳払いが一つ。
「ゴホン、マルス、嬉しいのは分かるが義兄上にいささか失礼だぞ? 貴族としての自覚をもってもう少し落ち着いてだな……」
「ハハハハハ! なに、構わん、マルスはまだまだ子供だ。それにダリスよ、貴族の自覚とは言うが我々がマルス位の頃にはそれはそれは酷いものであっただろう? それに比べてマルスの礼儀正しいことと言ったら……」
「うぐっ……義兄上……それは言いっこなしです……」
苦虫をかみつぶしたような表情のダリスと対極に、にこにこと飽くまで上機嫌なフリード、幼馴染みであり、フリードの妹を嫁に貰って以降もダリスはフリードに頭が上がらない。だが互いに信頼しあっているのがよく分かるこのやり取りは、フリードが訪ねてきた際のいつものお約束である。
ひとしきり笑った後、マルスがフリードに対し期待に満ちた笑顔を見せ、膝の上で待ちきれない様子で足をバタつかせる。
「ねぇ! 伯父上! 約束覚えてますよね? 今日は連れて行ってくれるんでしょ? 『魔物狩り』!」
「ふむ……覚えていたか……まだ早いと思っていたが……さて……」
興奮した様子のマルスを見、腕を組み思案顔のフリード……。マルスが転生してきたこの世界、地球とは違うこの世界には魔物と呼ばれる邪悪な存在が跋扈している。野の獣が魔性を帯びたという説や魔界と呼ばれる場所から現れる等という話もあるがその発生原因は定かでは無い。
「領民の安全を守るため魔物を狩るは貴族の務め、だがマルス、流石にお前にはまだ早いのではないか?」
「父上! 僕はこういう時の為にと日々精進して参りました! 力だけでいえば騎士見習いの従卒達にもひけはとりません! どうか! どうかお願いします!」
確かにマルスの力は同年代ではまず敵う相手は居らず、先日などは自分よりも十歳上の従卒との組み手で見事に相手を組み伏せて見せた。……だが、それはそれ、これはこれ、いくら常識外れの力を持とうとも親にとってはまだ六歳の子供である、可愛い盛りの息子をわざわざ危険に晒そうという親が居ようはずは無い。
ダリスは真っ直ぐにこちらを見つめる息子の瞳を覗き、自らの説得では動かぬ事を悟り、助けを求めるようにフリードに視線を向ける。
が、こちらはこちらで可愛い甥っ子を連れていきたくて堪らない、甥っ子の願いを叶えてやりたいという意思がその表情から透けて見える。後はダリスが折れるのを待つばかり……期待を込めた輝く四つの瞳に見つめられ、ダリスは大きく溜息をつき妻への言い訳を考える他なかった。