聖獣と聖騎士
「マルス、体に気を付けるのよ? お兄様が嫌になったらすぐに帰ってきていいからね?」
「お母様、僕ももう十歳なんだから大丈夫だよ、それに伯父上の事を嫌になんてならないよ」
旅装束に身を包んだマルスを抱き締め大粒の涙を流すジャクリーン、フリードの元への出立の日、養子にゆくのが決まった三ヶ月前から毎日繰り返されるこれはもはや日課というか儀式というか……。
「ジャクリーン、それ位にしておいてやれ、名残惜しいのは分かるが……」
「だってあなた! マルスはまだ十歳なのよ? それをこんな筋肉馬鹿に預けるなんて……」
「筋肉馬鹿はひどいな……なに、我が領とここはそう離れている訳でもない、今生の別れであるまいに……」
「そうそう、それに筋肉馬鹿ならマルスも相当なものだもんね」
ベルの言葉に周囲が思わず吹き出すも、ジャクリーンに睨まれ慌てて口を塞ぐ。
「それじゃあ筋肉馬鹿のマルスに兄上からプレゼントだ」
「これは……鞄?」
「空間魔法を内部に込めた魔法鞄だよ、容量は20メートル四方、ただ一つ問題があって……」
トーマスが言い終わらぬ内に馬車に積まれようとしていた荷物を片端からマルスがバッグに詰め込んでゆく。馬車三台分の荷物があれよあれよという間に吸い込まれ、呆然とする皆を他所にマルスがよいしょと鞄を担ぎ上げる。
「うわぁ! あれだけの荷物が全部入っちゃった! ありがとうございます兄様! 大切にしますね!」
「……入れた物の重さはそのまま……なんだけど……まぁ、マルスには関係ないか……」
若干引き攣った笑顔を浮かべるトーマスの前で、はしゃいで飛び跳ねるマルスの足元がズシンズシンと靴の形に凹んでいく。一体何百キロ……いや何トンの重量があるやら……、そんなマルスをひょいと片手で持ち上げた規格外がもう一人。
「はしゃぐのは分かるがそろそろ出発せねばな。……それではダリス、ジャクリーン。マルスは私が丁重に預かる。しっかり一人前に育て上げて見せるから安心してくれ」
「うぅ……マルス……ぐすっ」
「マルス、義兄上の所でしっかり務めを果たすのだぞ」
「いつでも気軽に帰って来いよ」
「私とトーマス様の結婚式にはちゃんと帰って来てよね?」
「うん! 皆……行ってきます!」
皆に見送られ意気揚々と馬車に乗り込むマルス……これから新天地での生活が始まる、期待に胸躍りながら出発の合図を待つ……だが……。
「旦那様……馬車が……動きません」
「あっ……」
マルスが詰めた荷物の重みで馬車が全く動かない、荷物を分け直さねば……。恥ずかしそうに頬を染め馬車を降りるマルス、皆が微笑ましくそれを見詰める中、血相を変えた騎士が馬を駆りこちらに向かってくる。
「だっ……旦那様! 緊急事態です! 一頭の獣がこちらに凄まじい速度で……っ」
言うが早いか茶色い影が人々の間をすり抜け、一直線にマルスに向かい突進してゆく、立ち塞がるダリスの居合いを紙一重で躱した影がマルスに向かい猛然と飛びついた。
「うわっぷ!? うぇ? な……なんで? えぇ!?」
飛びついて来たのはカワウソ三兄弟のうちの一頭、なぜか全身傷だらけであるがそれを気に留める事も無く全力でマルスに甘えている。
「うわぁ! 何この子可愛いっ!」
「う~ん……ここらでは見ない獣だね、一体どこから来たんだろう?」
「マルス! 大丈夫? 怪我は……なさそうね? それにしてもこの子は一体……」
皆がザワザワとマルスとカワウソを見比べ右往左往する中、ダリスが握っていた剣を取り落とし、拳をワナワナと震わせ膝をつく。
「んなっ……し……神獣……ヴィードラ……? なぜここに神獣様が……?」
「ふむ……確かに姿形、魔力の質……どれを見ても神獣様に違いあるまい。だが何があってこのような……?」
ダリスが取り乱すのも無理も無い、この地を、この国を守護する神獣、クラッヒト家は代々この神獣の住まう森を護ることを聖なる任務として勤め上げてきた。
だが、息子を守るためとはいえその神獣にダリスは先程剣を向けた、咄嗟に軌道を曲げて斬らずに済んだものの事情がどうあれ神に対する敵対行為、どんな罰が当たろうとも不思議は無い。最悪、自身の軽率な行動でこの国が滅びるかの瀬戸際に今立たされていると言っても過言では無いのだ。
青い顔で冷や汗を流すダリス、と、突如周囲を濃密な魔素が包み、崇高なる何かの気配が辺りを満たす。
『人の子らよ……怯えることは無い……本日はそこなる小さき者の見送りに参った』
「ヴィードラ!」
見送り? え? マルスを? なぜ? それに神獣様を呼び捨て? どういうこと? 余りのことに事態が理解できぬ大人達を愉快な物を見るようにヴィードラが眺めているのが感じられる。
『マルスよ、少々遅くなってしまって済まない、子供らが我が儘を言っておったのでな……』
「子供ら……って……そういえばあとの子達は?」
『皆がお主について行くと暴れ回ったのでな、勝利した一頭のみ同伴を許すとして、今し方決着がついた所だ』
なるほど、全身についた傷にはそういう理由が……。だが、マルスは考える、果たして伯父上の屋敷でこんなに大きなペットを飼っていいものだろうか? 反対されたら……もしも伯父上がカワウソアレルギーだったりしたら? おそるおそる表情を伺うマルスに気付き、意図を理解したフリードが笑い出す。
「ははははは! 分かった、そういう事か! マルスには全く驚かされる! 神獣ヴィードラ様! ご子息を我が領で、我が息子マルスがしかと預からせて貰う! ご安心めされよ!」
『英雄殿に感謝を……さぁ、マルス、名が無いでは呼びずらかろう、我が子に名付けを!』
「名付け……!?」
いきなり名付けと言われても……でも確かにこれまで不便が無かったため名前を呼ぶという事をしたことは無かった、だが名付けとは本来親のやることで自分がそんな大それた……戸惑うマルスの頭を撫でてフリードがにっこりと笑う。目の前には期待満面の視線を送る巨大カワウソ……。マルスは暫く考え込み、意を決して口を開く。
「なら……ヴィル……この子の名前はヴィルだ!」
『よかろう! ここに名付けの契約は成った! これよりヴィルはマルスの守護聖獣として魂を繋いだ同胞となる! 祝え! 新たな聖騎士の誕生の時である!!』
「はえ? ……聖……騎士?」
ヴィードラの言葉に合わせヴィルの額に魔法文字が浮かび、同じ物がマルスの右手甲に浮かび上がる。
聖騎士……神々の祝福を受けし騎士……神々と魂の契りを交わした力持つ者の総称。多くは実力のある騎士や戦士が神々からの天啓を受けて授かる称号。それが……なぜ? 僕? 名付けをしただけで?
ヴィードラの宣言ににわかに沸き立つ周囲に対し呆気にとられるマルス。この日この時この瞬間、世界最年少の聖騎士が誕生したのであるが……だが当の本人は何が起きたのか全く理解が追い付いていない。
『ふふふ……そう固くならずともよい、聖騎士とは言えど名誉称号のようなもの。ただ国がその権威をもってして縛れぬ存在になるだけのことよ』
それだけのこと……と言うが決してそのようなイレギュラーな存在になることを望んだ訳でなく……。悩むマルスの手元にこちらを見てとばかりにヴィルがすり寄ってくる。まぁ、深く考えても仕方が無い、ヴィルにおまけがついてきたと考えよう、今は難しい事は考えずこの可愛い相棒が付いてきてくれる喜びに浸るべきだ。
『聖騎士が持つ権限については隣の先達者に聞くが良かろう、そして……クラッヒト領主ダリス・フォン・クラッヒトよ』
「はっ!」
『先程の抜き打ち、見事であった、息子を斬らぬよう配慮頂いた事にも感謝する。そなたが居れば聖域の守護は安泰であろう、これからも研鑽に励むがよい』
「有難きお言葉! 今後も我が身命に代えましても役目を果たさせて頂く所存でございます!」
ダリスの言葉に満足したかの如く、潮が引くようにヴィードラの気配が消えてゆく……と、気配がまだ残る中空に向けマルスが大声で叫ぶ。
「ヴィードラ! ありがとう! こっちに帰って来たら必ず聖域に行くから! そうしたらまた戦ろう!」
『あぁ、マルスよ……楽しみにしておるぞ……ふはははははははは!』
満足そうな笑い声を残して今度こそヴィードラの気配が完全に消え、よし、と両の頬を叩いたマルスがフリードに向き直……ろうとして異様な気配に気付く。ヴィードラを超えようかとも思える凄まじい重圧……それは……。
「マ~ル~ス~? あなたは聖獣様と随分懇意にしているようだけど……名付け? また戦ろう? 一体どういうことかしら?」
ジャクリーンの双肩に陽炎のようなものが立ち上っている、まずい、マズイマズい不味い! 深夜の外出はトップシークレット、夜な夜な抜け出して魔物を狩り聖獣と手合わせしていたなどと知られてしまえばお説教フルコース……このままでは伯父の元に行くどころか干物になるまで説教三昧である。
「伯父上! 僕は先に行かせて頂きます! それでは皆! 行って参ります! ヴィル! 行くよ!」
マルスの声に合わせヴィルがキュルルと喉を鳴らしてその背に飛び乗る、地面を陥没させる足跡を残し脱兎の如く走り出したマルスを『普通そこは逆だろ!』の突っ込みを入れることも出来ず誰も彼も呆然と見送るしか無かった。
かくして、転生により絶望を希望に変えた少年は生家を飛び出し少し広い世界へ向かい飛び立つ。巣立った鳥が果たしてどこへ向かうのか……それは後に綴られる彼の英雄譚を紐解く他ない。彼の歩む大英雄への道はまだはじまったばかりである。




