脳筋への転生
「マルス! 待って! 危険よ! 戻って!!」
背に聞こえるは少女の悲鳴、目の前に立ちはだかるは城の如き巨体を震わす一頭の龍。目の前に迫る獄炎を前に少年は真っ直ぐに、堂々と立ちはだかる。
「マルス! 嫌ああぁぁぁああ!! マルスぅ!」
少女が絶望の叫びを上げる中、炎の中からそれは現れた……。
見よ! 破城鎚と見紛わんばかりのその上腕を!!
見よ! はち切れる寸前の革袋の如き大胸筋を!!
見よ! 世界樹の幹の如くに大地に根を張るその脚を!!
見よ! 積み上げてきた鍛錬の密度を雄弁に語るその背中を!!
「お雄オォおぉおおらぁっ!!」
気合いと共に纏った炎を弾き飛ばす少年を見て巨龍は悟る、今日、この日この時この瞬間、生態系の頂点たる自らの位階が脅かされていることに、目の前に居る羽虫の如き小さな者が自らの命に手が届く位階に居る事に。
……その事実を正しく認識しているのは対峙する一人と一頭……。
……
いつもの一日、日がな一日ベッドの上で過ごすその少年は今日もマンションの三階の窓から外の光景を眺めている……。見つめる先にはスポーツジム、見れば窓際に配置されたランニングマシンで美しい女性がメロンほどもある見事な双丘をステップに合わせゆさゆさと揺らしている。
……が、少年の視線はそのような物には目もくれない、痩せこけた頬を桃色に上気させ、瞳を輝かせて見つめる先には女性のウエスト程もある逞しい二の腕……。
「うわぁ……凄い……格好いいなぁ……」
逞しいその腕に五十キロのダンベルを握りアームカールを繰り返すその光景を、少年はまるで恋人を見るかのような愛しさを込めた瞳で見つめている。
「僕だって……病気さえよくなったら……」
そう呟いた少年の瞳から光が消え、暗く沈んだ表情へと変わる。いつからだっただろうか? 箸を持つのにすら重さを感じるようになったのは……走れなくなったのは……歩けなくなったのは……。いつからだっただろうか……目前に迫りつつある死を諦観を持って見つめるようになったのは……。
少年を蝕んだ不治の病は少年が望み憧れる姿から最も遠い姿へと少年の身体を変えてしまった。少年は思う、もし、生まれ変わる事が出来たなら、きっと次は健康であんな素敵なナイスバルクになってみたいと。その為の努力は決して惜しまないと。もしも神が居るなら……次こそは……次こそは……。
「神様が……居るのなら……」
……
(あれ……なんだ……体……動かしづらい……症状……進行したのかな……?)
「奥方様! 頑張られましたね! 元気な男の子ですよ! 旦那様! 旦那様! お生まれになられましたよ!」
(うま……れた……? なんの……? ICUに担ぎ込まれて隣で出産……とか? ……駄目だ、目が霞んでるみたいで周りが見えない……)
「おぉ! でかしたぞジャクリーン! 早速名前をつけてやらねばな! そうだな……マルス、お前の名前はマルスだ!」
(ICUでこんなに騒ぐなんて……看護師さんに怒られ……えっ? 誰? 僕を抱き上げるのは……!?)
少年の朧気な視界に巨大な人間の頭部と思しき輪郭が映る。恐怖に思わず声を上げ、耳に聞こえる赤ん坊の泣き声が自らの声であると自覚したその時、マルスはようやく自分が赤ん坊として生まれ変わった事に気付いたのであった。
……
「あら? マリー、これから乳母当番?」
メイド服を着た女性がすれ違いざま呼び止められ振り向く、彼女はマリー、クラッヒト侯爵家に仕えるメイド兼乳母である。この屋敷に雇い入れられて八年、そつなく仕事をこなし旦那様の覚えもいい、正に順風満帆といった日々を送ってきているが……彼女は今非常に悩ましい問題を抱えていた。
「あれ? マリー、なんか痩せた?」
「えぇ……なんかね……最近食べても食べても……まぁ原因は分かってるんだけど……」
「あ~、坊ちゃまね~……」
彼女の悩み、それは最近侯爵家に産まれた三男坊、マルスへの授乳であった。彼女自身一昨年に出産を経験し目出度く先日乳離れ、タイミング的にも丁度良く手当ても付くと聞いて乳母役を二つ返事で引き受けた。だが……。
「坊ちゃまに授乳してるんだけど、あげてもあげても終わりが無くて……乳母を四人に増員したんだけどまだ足りないみたいでね……」
「奥様に乳母四人でまだ足りないって……ってかそれだと坊ちゃま太っちゃわない? そんなに飲んだら肥満児一直線でしょ?」
「う~ん……それがそうでもなくてね? よく動くからそれで消費出来てるのかしら? でも坊ちゃまって面白いのよ? 今日はあんよだけやたらとパタパタさせてると思ったら明日はおててをにぎにぎって感じで……その日によって動かす場所が変わるの」
「ふふっ、なにそれ可愛い~、ちょっと見てみたいわねそれ」
時に赤子は大人には理解できぬ奇妙な動きをする事がある、その滑稽さがまた愛おしさに繋がる物ではあるのだが……だがしかし、彼女らが笑うその滑稽な行動……それに意味があると誰が知ろう。
現代スポーツ学に置いての効率的な筋肉育成法、それは超回復をいかにコントロールするかに顕れる。十分な負荷を与え、そして十分に休ませる、彼女らが愛おしく思うその謎の行動は全て計算ずくのトレーニングに他ならない。
赤子であれども彼は前世で貪るように学んだ憧れに対する知識を持っている。屋敷の中の誰もが知らぬままに彼の躰は静かに脈動を始めていた……。