7 選り好み
佳寿美と夜に会うのは半年に一度くらいの頻度だ。彼女はすでに結婚していて、お子さんもいる。だから、こちらから夜の食事に誘うのはなんとなく遠慮してしまう。誘うのはもっぱら平日の代休や有給休暇をとったときのランチが多い。
珍しく今回は佳寿美のほうからのディナーのお誘いだった。彼女はほとんどお酒が飲めないので、食事メインのカジュアルなイタリアンレストランにした。パスタとピザのディナーコースをそれぞれ注文し、その他に、彼女はジンジャーエール、私は手頃な白のグラスワインを追加した。
今日の佳寿美は、シンプルなデザインの水色のワンピースにオフホワイトのカーディガンを合わせていた。白金のイヤリングとネックレスもお揃いで、髪は肩のあたりで綺麗に内巻きに整えているオシャレな奥さまだ。左薬指の結婚指輪は、ミニダイヤが所々埋め込まれている人気ブランドのものだと聞いている。
片や私は通勤用の七分袖のブラウスとパンツスタイルに慣れてしまって、最近ではワンピースなるものに袖を通していないし、着ること自体忘れてしまっている。クローゼットにそれがあるかどうかも覚えていない。以前アクセのひとつもしないと老けるわよと、佳寿美に指摘されたので、今日は彼女に以前プレゼントされたシルバーのネックレスをして来た。
佳寿美は結婚して十年になる。毎日パートもしながら主婦として忙しく暮らしている中で、燻っていることがあるらしい。
次々出てくる愚痴を聞くと、結婚もしたらしたで、大変そうに思える。彼女は三十歳の時、二歳年上の男性と職場結婚した。ふたりだけの生活で幸せで楽しいと思えるのは二年くらいで、特に子どもができると相手の違った面も見えて来るという。それは良い所ばかりではない。
子ども中心の生活になるのは当たり前、そして家庭を持てば、家事や仕事の他にお付き合いがとにかく増えるらしい。お互いの両親、兄弟、その子どもたち、親戚、町内会、子ども関係のママ友、幼稚園や学校に入れば先生、役員、子ども会、その役員。仕事が忙しい旦那さまだと、それをすべて妻が背負うことになる。佳寿美は、まさにそんな頑張っているスーパー主婦だ。それができてしまうから、それらが簡単なことで、簡単に出来ているように旦那さまから思われていて、それが当たり前だと思われているのが癪に障るらしい。
彼女の旦那さまはとにかく仕事が忙し過ぎて、毎日遅く疲れて帰って来るので、家事の協力が全くと言っていいほど無いらしい。休みの日は、疲れを取る日とのことで、寝てるか子どもと少し遊ぶか。家のことやお付き合いはすべて自分がするしかない。
こんな話を独身の私にしたら、結婚に夢も希望もなくなるよね、と私を気遣いながらも、蓄積された鬱憤を聞いてもらいたかったようだ。
「あーあ、ひとりでのんびりできる時間が欲しいよ。休みの日も家族がいると休めないからね。自由な葉摘がちょっと羨ましい。葉摘は? 悩みは無い?」
「私は……、今の所無い、かな。会社で少し気に触ること言われるくらいだよ。慣れてるから、なんてことない」
佳寿美の大変さに比べたら、私の職場でのその場限りの嫌味など、取るに足らないことに思えてくる。
それぞれ注文したパスタとピザを分け合って、美味しく食べた。ひとり暮らしの私には、食事をする相手がいるだけで嬉しかったりする。グラスワインは、あっさりしていて口当たりも良く、つい二杯めも注文してしまっていた。
八時を過ぎる頃になると、佳寿美がソワソワし始めた。家のことが心配になって来たらしい。頻繁にL○NEも来始める。旦那さまと小学生のお子さんだけのお留守番て、そんなに安心できないのだろうか。
そして、
「ごめんね、食事中に何度もL○NEとか。葉摘は、誰か良い人はまだいないの?」
という、佳寿美のお決まりのセリフがそろそろお開きの合図。
またそれ。もう、聞き飽きている。
「それが、いないのよね。もう出会いも結婚も半分くらい諦めてるよ」
「なに言ってるの? まだまだでしょ。私の職場の四十三歳の先輩なんて、四十五歳の男からよく行くスーパーでナンパされて結婚したんだよ。しかも二人とも初婚だよ!」
「え……」
それは、すごいかも。でも、かなり勇気がいる。
佳寿美に矢坂さんのことは、話したことはない。きっと、もっと現実的な相手に目を向けた方が良いとか、そういった忠告を受けるだけだから。
「葉摘、選り好みしてるんじゃないの?」
「!? ……してないよ」
していないことくらい、友達ならわかって欲しかった。
【選り好み】、その大したことないと思われる言葉は、独身者をかなり抉る。よく知らない人に言われるのと、親友に言われるのとでは、深さが違う。平然とした顔をしてるけど、胸の内はつらくて仕方がない。
とうとう佳寿美のスマホに着信があって、旦那さまとお子さんが店の近くまで車で迎えに来たそうだ。
「私がいないとダメな家族でホント困るわ。葉摘、アパートまで送って行くよ」
「いいよ。私は別のお店で酔い覚ましにコーヒー飲んで帰るから、遠慮する」
「そう?」
店の外で、迎えに来た優しそうな旦那さまに軽く会釈して、車の後部座席の窓から顔を出した小学生の可愛い女の子に手を振る。
「ママ!」
「もう、凛たら、パパと待てなかったの?」
「だって、パパはテレビばっかり観てて遊んでくれないんだもん。つまんない」
「そうー。あ、葉摘、またね」
そこには、幸せそうな家族の姿があった。
それを、笑顔で見送る。
佳寿美は学生のころは考え方も感じ方も似ていて一緒にいて楽しくて、気を遣わない相手だった。
いつの頃からか少しずつその関係も変化をとげた。環境が変わると自然とそうなるのかもしれない。
私は、フラフラと引き寄せられるように〈サン・ルイ〉に向っていた。
確か営業時間は九時までだったはず。ラストオーダーに間に合えば良いけど。
もう行かないと思っていたのに、心が体が足が勝手に向かうのだから仕方がない。
出窓から、ステンドグラスの暖かい七色の灯りが見えてホッとした。暗い中に浮かび上がるそれは、迷い子を迎え入れてくれる優しい目印。
矢坂さんの笑顔が見たい。
ただそれだけしか、考えていなかった。
〈サン・ルイ〉のドアを力無く開ける。
「こんばんは……」
「いらっしゃいませ! あっ、小宮山さん!!」
「?」
瑠伊さんがカウンターから、飛び出て来た。
矢坂さんの姿を探したが、彼はいない。
こんな、ささやかな望みすら叶えられないの?
出窓の席にいた黒縁眼鏡のコウさん。
こんな遅い時間にもいるんだ。彼も何故か釣られたように立ち上がった。
なに? どうしたの?
瑠伊さんに、手を取られた。
「もう、いらしていただけないんじゃないかと、心配していたんです。あの、大丈夫ですか? かなり酔ってるんじゃないですか?」
そして心配そうに顔を覗きこまれた。
ああ、ワインのせいだ。頭は何ともないのに、ワインを二杯以上飲むと目が悪酔いしてるみたいに充血する。
「全然、酔ってないんです。お酒を飲むとこんな酷い目になっちゃって、すみません、もう閉店ですか? それなら、また……」
「いえ、まだですよ。ブレンドで良いですか?」
「はい。それをいただいたらすぐに帰りますから」
私は努めて平静を装いながら話す。
矢坂さんはいないんだ。
「まだ全然閉める時間じゃないですし、ごゆっくりなさっていって下さいね」
瑠伊さんが、手を握ってどこまでも優しく微笑みかけてくれる。
お店の中には、瑠伊さんとコウさんの他には誰もいない。
私はすぐ帰るという意思表示のため、テーブル席ではなくカウンター席に軽く腰掛けた。
ガーガーというコーヒー豆を轢く音が店内に響く。そして、漂う私の好きな香り。
ようやく気持ちが落ち着いてきた。
「先日は、すみませんでした」
すぐそばで、コウさんの穏やかな声がして、その気配を感じた。
何に対して謝ってるの? 謝られるようなことはされていないと思うけど。
「弟が本当にすみません、お悩み相談の名刺をお渡しして。うちのお客さまへの営業は禁止してたんですけど、まさか小宮山さんに差し上げたなんて。それで嫌な思いをされて、お店にいらっしゃらなくなっちゃったんじゃないかと心配してたんです。あの、コウちゃんのことはお気になさらないで、お店にはいらして下さいね。失礼な弟で、本当に申し訳ありません」
瑠伊さんが必死に謝っている。姉というのはいくつになっても姉で、弟は弟で姉にその話をしたんだ。仲の良い姉弟なのかもしれない。
コウさんの名刺。捨てられずに私のカバンに後生大事にしまってある。
それに書いてあった文章が唐突に思い出された。
淋しいあなたに。
相談すれば、コウさんに話せば、この心の中の空虚な感じが少しでも温かな何かで埋まるのだろうか。
淋しさが癒される? 本当に?
それは矢坂さんの笑顔より癒しの効果があるの?
私は顔を上げた。
そこには、静かに少し眉を寄せ、困ったような表情で佇むコウさんがいた。
「あの、悩み相談、申し込みます。話を聞いてくださるんですよね」
私のその言葉に、コウさんが眼鏡の奥で驚きを隠すことなく目を見開いたのがわかった。
そして、動きを止めポカンとする瑠伊さん。
その場の、目には見えない時の流れが一瞬止まったかのように感じた。