6 小さな棘
『では、また。さよなら、葉摘さん』
コウさんに名前で呼ばれたことに、家に帰った後で気がついて胸にほろ苦い想いが広がった。
女性との距離をさり気なく縮めてくるテクニック、さすが元ホスト……。さらに胸が苦しくなって、考えるのを止めた。
膝と腰は思っていたより、痛みを引きずらずに済んだ。これが、もっと年齢を重ねれば、回復に時間がかかるんだと思うと嫌になる。
〈サン・ルイ〉にはもう行かないと決意したのに、私のバッグの中にはあの色鉛筆画の展示会の案内葉書とコウさんの名刺が入ったまま。展示の期間はとっくに過ぎてしまっていた。
コウさんに送って貰って、複雑な思いで家に帰ったその日に、案内葉書はポストに届いていた。スポットライトの中で見た矢坂さんの優しい笑顔は、今でも目に焼き付いている。コウさんの話では、人気のあるホストだった矢坂さん。その素敵な笑顔も洗練された仕草も原点はそこにある。
何度も自分に言い聞かせてきた。彼はカフェのマスターで、私はただの常連客だということ。親しくなったとしても客以上の存在になることはない、ただの通りすがりのようなもの。
だとしたら、彼の事情や過去や諸々の関係性を、勝手に気にしている自分はおかしい。
本当は、よく考えたら自分が、私自身の落ち着かない気持ちが行きづらくしている。コウさんとのやりとりが蘇る。
『……お悩みがあれば……お聞きしますよ』
淋しいわけじゃないって、答えた私。
笑える。
カフェに通い詰める悩み多き年増の淋しい女。矢坂さんと瑠伊さんからも、そう思われていたに違いない。自分が逆の立場だって絶対にそう思う。どんなにカフェが癒しとか、楽しみとか言ったって、いつしか私にとっては矢坂さんに会いに行く口実になり、ひとりの淋しさを紛らわす場所になってた。
これは悩み? ひとりが淋しいのが悩み? そんなの悩みに入らない。淋しさだって、気の持ちよう。ひとりだって楽しく過ごしている人だっている。もっと切実に日々悩んで苦しんでいる人だって。自分は恵まれている。衣食住に困っているわけでもないし、友達だっている。会社はブラックでもない、パワハラ、セクハラされてるわけでもない。それなのに、この胸の鬱屈した感じはなんだろう。
気にしないようにしていたのにコウさんに少しつつかれただけで、渦を巻く嫌な感情。
つらい。
矢坂さんの笑顔の前に、強引に黒縁眼鏡が割り込んで来る。煩わしい彼の義弟。
『辛いときは、頼るものですよ。あなた強情すぎ』
車から降りる際に腕をしっかり支えられた時のこと、頭をポンとされた時のこと、出窓の席でノートパソコンに向かって座る猫背のシルエットが頭の中に浮かんで来て仕方がない。
私、なんだかおかしい。
◇◇◇
私は地元の小さい工務店の営業事務をしている。
その日は、営業担当者に出先から工事担当へ数種類の資料をコピーして渡して欲しいと頼まれたので、その旨をメモした付箋紙とそれらを持って別フロアの工事部を訪れた。工事部の社員は、現場に出払っていることが多く、午後の今の時間帯にいるのは工事事務の今泉さんくらいかと思っていたが、意外と人がいる。
今泉さんは、大卒で入社二年目の若い女の子。素直で明るく可愛い子で、毎日ではないけれどランチを一緒に食べたり、たまに夜ご飯に誘って奢ってあげたり、年齢差はあるけれど仲良くやっているつもりだった。
「あ、小宮山さん、お疲れさまです!」
声も細く可憐で、ストレートのさらさらセミロングヘアに、天使の輪ができている。
「お疲れさま。阿部主任は現場?」
「はい。夕方お戻りですが、ご用事ですか?」
「資料を届けに来ただけだから、大丈夫」
目指す工事担当は不在、ボードを確認すると五時帰社と書いてあった。資料だから、机に置いておけばいい。クリップなどで留めて来るのを忘れたので、借りようと思った。
「今泉さん、資料を留めるのを貸してくれる?」
「これで良いですか?」
今泉さんは、ホチキスを引き出しからだしてニコニコと渡してくれようとした。
一瞬、この枚数だと、ホチキス針で留めきれないかもという意識が働いたんだと思う。
「他に何かある?」
他意はなかった。無意識に近い。
それなのに。
「後輩いびりですか?」
そばから、そんな声がした。
「え?」
いびりって、なに!?
これがいびりって、嘘でしょう?
どうしてそうなるの?
そんなに高圧的だった? 怖い顔してた?
固まってしまった。
近くの席から声を掛けてきたのは、私より少し後に入社した工事担当の福沢くんだった。特に今までそんな嫌味を言う男でもなく、マイペースでのんびりと仕事をこなすタイプで、嫌いでもなかった。
私は咄嗟に微笑みの仮面を被ったつもりだが、少しひびは入っていたと思う。
「他にも別の、クリップとか、何かあるかなと思って聞いただけで、いびり……じゃないけど?」
酷くない?
今泉さん、その微妙な顔はなに? フォロー無しね。まあ、かなりの年上相手に難しいか。
私がはじめから留めてくるか、はっきりクリップと言えば良かったんだ。
私は黙ってホチキスを受け取ると、ガチっと留めた。案の定中途半端に針が折れ曲がったが、もういい。
「ありがとう」
言い訳するのも嫌だったので、ホチキスをすぐ返して阿部主任の机に資料を置いて、工事部のフロアを後にした。
こんな些細なことで、傷つく私って……。こんなのは小さな棘。今までの人生、もっと辛いことたくさんあったじゃないかと、自分で自分におかしな慰め方をする。
今日は仕事帰りに、大学時代の同級生の佳寿美と食事をする約束をしている。こんなこと気にしないで楽しもう。
先の楽しみことを考えることによって、私は気持ちを切り替え、机に向かった。
それでも、小さな棘によって負った小さな痛みは、私の心にダメージを与え続けていた。