3 触れてはいけない人
矢坂さんから〈コウ〉と呼ばれた眼鏡の男性は、私の知る限りスーツ姿を見たことはなかった。髪は長めでいつも洗いたてのようなパサっとさした無造作な感じで。服は濃い色味のラフなシャツにチノパンにスニーカーだったような。ランチタイムにはほとんど会わないが、仕事帰りには会う確率が高い。
矢坂さんとコウさんは、いったいどんな関係なんだろう?
催事コーナー側が気になりながらも、丁寧に淹れられたコーヒーと奥様の瑠伊さんの手作りだという美味しいチーズケーキを前に、自分の寛ぎのひとときを楽しもうという気持ちになった。お店に置いてある国内のインテリア雑誌を流し読みしながら、ゆったりと贅沢な時間を過ごす。ここでのカフェタイムは私にとっては、貯まった疲れを癒してくれる大切な時間であり明日への活力にもなる。
お店にはその後、仕事帰りらしいスーツの男性や、ふたり組のオシャレなマダム風の女性たち、若いカップルが次々と訪れ始め、賑やかな空間になっていた。
矢坂さんは、お店と展示スペースを行ったり来たりしていて、コウさんの方はまだそのまま奥で手伝わされているようだった。
「小宮山さん、あの、これよろしかったら……」
耳に心地よい澄んだ声に雑誌から顔を上げると、瑠伊さんが微笑みながら私の傍にそっと立っていた。
「新作のかぼちゃのチーズケーキなんですけど、お味見いかがですか? ご感想もいただけると嬉しいんですけど」
見ると、トレーの上に一口サイズにカットされた薄黄色のケーキの載った小皿が並んでいる。
「新作ですか? わあ、嬉しいです。ありがとうございます」
私は小皿を受け取ると、さっそく楊枝に刺してあるそれを口に入れた。チーズケーキは好きだった。ふわふわのスフレタイプよりしっかりコクがあって質量のある方が好きだ。
瑠伊さんのチーズケーキは後者で、私の好みだった。かぼちゃの風味と粒の舌触りも良く、チーズの程よい酸味、控えめな甘さも美味しかった。でも、もう少し甘い方が私は好きかも。
正直にその旨を伝えると、瑠伊さんは、
「ご感想ありがとうございます! 参考になります。甘さをもう少し調節してみますね」
そう言うとニッコリ笑って会釈すると、今度は隣のカップルの席へ行って、同じようにやり取りを始めた。
瑠伊さんはくっきりした目鼻立ちで、今日もナチュラルメイクが大人の可愛らしさを引き立てている。矢坂さんにお似合いの……。
「小宮山さん、コーヒーのおかわりの方はいかがですか?」
次に矢坂さんからも優しいトーンの声が掛かる。抑えても抑えても膨らんで来る想い。
「今日はもう結構です。ありがとうございます」
そう答える私は、この想いが悟られないように確実に上手く笑えているはず。彼の笑みと優しさは営業的なもので、私に対して特別な感情は全く無い。
ただのかりそめの癒しなんだと、歪な恋心にそんな戒めの言葉を投げかける。
全然平気。全然たいした痛みじゃない。
催事スペースの展示作業が終わったようだった。
「では、矢坂さん、来週からどうぞよろしくお願いしますね」
「はい。たくさんの方に見ていただけると良いですね。店のお得意さまにも、ご案内状を出しておきましたから」
「ありがとうございます」
そんな穏やかな会話が、微かに聞こえていた。来週からの企画なら、うちにも今日あたり葉書が届いているのかもしれない。
そんなことを思いながら、見ていた雑誌の最後のページを閉じる。その時、奥から箱をいくつか重ねて運んで来ていた女性がバランスを崩し、それを床に落としそうになった。
私は反射的に椅子から立ち上がると、手を差し伸べていた。身体が勝手に動いたものの、足の方はもつれて無様に床に膝と手をついてしまった。いわゆる四つん這いという格好。
は、恥ずかしい!
四十の鈍った身体が恨めしいーー。
周りの人たちの視線が痛いーー。
でも、おかげでふたつの箱は受け止めることができた。
軽い……そうか、展示が終わったんだから空箱か。
「あら……すみません! あなた大丈夫?」
「「小宮山さん!」」
箱を運んでいた女性、矢坂さんご夫妻の心配そうな声が重なった。スカートじゃなかったからまだ良かったけど、膝は痛いし、肘も木の床にうちつけた。情けない。
別の箱を運んでいた矢坂さんが心配そうな顔で慌てて傍に来てくれた。
涙出そう。
でも大丈夫、と自分を鼓舞し表向きは平然と箱を抱えて立ち上がる。
四十女は強いのよ!
「お手伝いします。外の車に運ばれるのですよね」
ところが、
「あなたはお客様なんだから、座っていていいんですよ」
矢坂さんを押しのけた〈コウ〉さんが、きっぱりとそう言うと、私から箱をヒョイと取り上げてしまった。私は、彼の予想外の行動に戸惑っていた。
「あの……」
「お気遣い、ありがとうございました。これはオレが運びます」
コウさんは私を見据えて、ぎこち無く笑ってみせた。
私は頷くしかない。
「頼むよ、コウ。小宮山さん、ありがとうございます。あの、どこか痛くありませんか?」
もっとスマートに立ち回れれば、良かったんだけど、上手くはいかないものだ。矢坂さんたちに余計な心配をかけてしまった。
「だ、大丈夫です……」
すぐに瑠伊さんがおしぼりを持ってきてくれて、席に促してくれた。その間に、矢坂さんたち三人は箱を抱えて店の外に出て行った。
「落ち着いたら、催事スペースもぜひご覧になって行かれて下さいね。企画は来週からですけど、もう見ることできますし。とっても綺麗な色鉛筆画なんですよ」
瑠伊さんは、床についた手や膝を拭いて下さいと私におしぼりを手渡してくれた。受け取ったおしぼりで、あちこち拭きながら痛む肘や膝をさり気なく揉んでおく。
「ありがとうございます。色鉛筆画ですか。初めてです。じゃあ、拝見しますね」
「どうぞどうぞ!」
私はお手洗いに寄ってから、奥に向かった。
きちんと額装してある絵が、スポットライトを浴びて十数点ほど展示してあった。風景画、静物画、動物を描いたもの、テーマは様々だった。
綺麗。これ、本当に色鉛筆で描かれているの? すごい!
もっとサラッと描かれているのかと思っていた。全然イメージと違う。淡い繊細なタッチで描かれている絵もあるけれど、近付いてよく見ると決して単調ではなく描き込み方が違うのがわかる。濃淡、線の強弱。色鉛筆でここまで色んな表現ができることを知らなかった。猫を描いた作品などは、毛並みの一本一本がとても丁寧に細かく描かれていた。一方の風景画は、色鉛筆独特のかすれた部分が全く無いほど塗り込められている。中には写真のように精巧に細部まで濃く描かれている作品もあった。
私はしばらくの間、すっかり引き込まれて見入っていた。
「素敵な作品がいっぱいでしょう? 今回は一週間ごと作品を入れ替えて二週間展示するんですよ」
突然近い所で聞こえた矢坂さんの声に驚いて振り向くと、暖かなスポットライトの光の中、目じりを下げ優しく私だけに微笑んでくれている彼がいた。
真っ直ぐ手を伸ばせば、触れることのできる位置に矢坂さんがいる。
触れることのできる距離、でも私は手を伸ばさない。
「そうですか。本当に素敵ですね。後半の展示も楽しみです」
彼は触れてはいけない人。
「小宮山さん、新しくコーヒー淹れなおしましたので、よろしかったらどうぞ!」
やって来た瑠伊さんによって、ふたりだけの時間は、すぐに終わりを告げた。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。
引き続きどうぞよろしくお願い致します。