22 もっとあなたと一緒にいたい
もう何年も経っているから、たとえ本人だとしても、きっとあっちは私のことなんて覚えていないに違いない。
確認なんてしなくてもいい。
もう帰ればいいんだ!
私はコウさんの手を握りしめ、引っ張った。
「あの、コウさん、すぐに帰りたい……」
小声で伝えたことが聞こえたかどうか、コウさんの反応がわからないうちに、
「あ、こんにちは!! 今日はいらしていただいて、ありがとうございます! どうぞごゆっくり見ていって下さい」
朗らかな男性の声が、建物に囲まれた中庭に響いた。
私はコウさんの影に隠れて、相手から見えないように顔を背けた。コウさんは、さりげなく盾になって私を隠してくれている。
「こんにちは」
コウさんのいつもと変わらない声。
「素敵な作品と美術館ですね。今来たところだったんですけど、ちょっと急用ができたんで、もう失礼します……」
コウさんは、私の肩をゆったり抱いて引き返してくれた。
良かった。コウさん、わかってくれたんだ!
「あのっ! もしかして、はつ……」
背中にかけられた声が、斎藤新のものかどうかなんて、もうどうでもいい。
私がビクッとしたのは、コウさんに気付かれたと思う。
「何か? 妻も私も急ぐのですが。……行こう〈るい〉……」
え!? 妻……! 〈るい〉!?
コウさんの張りのある声が、少し強ばっていた。
「……る……い? ああ、すみませんでした。お時間のあるときにでも、ぜひまたお立ち寄り下さい」
そう言った北上アラタさんに、コウさんが礼儀正しく会釈したようだった。肩を抱かれたまま出口へ向かう途中で、背後から急に耳障りな声が聞こえてきた。
「アラタ! 星ノ宮先生からお電話があって、次の企画展の日程、二十日は〈星〉の配列が悪いそうで、二十二日スタートがベストなんですって。だから、変更しなさいな」
「え? 今頃? もう、会場二十日から抑えてるんだけど。ずらせないよ」
「成功させるにはそんなこと言ってられないでしょ。先生がそうおっしゃってるんだから。あなたがしないなら、わたしが先方に交渉するわよ!」
「ま、待ってよ、母さん。僕がするから……」
「先生の〈星〉は、絶対間違いないんだから、信じて日程をずらしなさい!」
「わかったよ」
客がまだいるのに、あたりに聞こえるくらい大きな声で話しかける母親。それを許す息子。
「なんだ、あれは?」
コウさんが、ぼそっと呟いた。
星ノ宮先生とか、〈星〉の配列って何? 占星術?
絶対間違いないとか、信じろとか、アラタさん大丈夫なんだろうか。私にはもう関係ないけど。
もしアラタさんが斎藤新なら、突然なんの前ぶれも無く連絡が途絶えたのは、あのキツそうなお母さんと胡散臭い星ノ宮先生の占いのせいとか?
根拠はないけど、憶測でしかないけど、妙に納得できた。
出口側に、入館料の代わりに支援金をお好きなだけお願いしますと書いてある透明なケースが置いてあった。中に、硬貨や千円札が入っている。そこは、無人だった。
私がお財布からお金を出そうとすると、
「律儀ですね。オレが出します」
コウさんの手にやんわり制された。
「ここは私が! 私が来たいって言ったんですか……!?」
その先の言葉は、出せなかった。
コウさんの温かい唇に塞がれてー。
突然の出来事に頭がついていけなかった。
『それ以上言ったら口塞ぎますよ』
本当に塞がれてしまった!
嘘でしょ!?
私が突然のことに驚いて身動きできないでいると、
「すみませんでした。あなたの同意も得ずに。オレ……、なにしてんだろ」
遠くの方に目を彷徨わせつつ、コウさんはジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。
「じゃあ、こうしましょう」
コウさんは私から離れると、私が最初に渡した封筒に入っていた相談料五千円を抜き取り箱の中に惜しげも無く入れた。
えっ? コウさんへの相談料……。
そして、コウさんは建物の外に先に出て行ってしまった。私も急いでその後を追いかける。
車に戻るまでに深呼吸をしてザワついていた心を落ち着かせようとするけれど、コウさんのキスの甘い余韻に脳が侵されていてうまくいかない。
車の助手席のドアを開けて待っていてくれているコウさんの姿を見て、ホッとした。
私が助手席に座ると、閉めますよ、と声をかけながらドアを閉めてくれた。
ふたりだけの空間に包まれると、
「頭冷やしたくて、待たずにすみませんでした。……北上アラタって、あなたの元カレ、とかだったんですか?」
正面を向いたまま、コウさんがぎこち無く話しかけて来た。
ドクッと心臓が鳴った。鋭い。気まずい。
でも、嘘はつけない。
「おそらくそうです。機転をきかせて下さって、ありがとうございました。少しお付き合いしたのは、もうずっと前です。あの人に好意的な感情はいっさい残っていません」
「怪しい占い師の言いなりになって口出ししてくる母親に、言い返せないマザコン息子。それに、電話をかけてきた下品な奴、ヒロさんはまともだけど既婚者で、オレは下心ありの悪い男。あなたはよほど男運が無いらしい」
コウさんは口角を上げて、端正な横顔に自嘲気味な笑みを浮かべていた。
これまでのことを思い返しても確かに否定はできない。でも、コウさんは……。
「そうかもしれません。でもコウさんは、違います。あなたに会えたこと、運が良かったと思ってます。コウさんは悪い男の人じゃないです!」
「どうでしょうね。……すみません、色々。あなたに、今日は最後まで心から楽しんで貰おうと思ってたのに。このザマで……。困らせて、気を遣わせてしまいました」
私は頭を必死に横に振った。
「コウさんに謝られるようなことはされてませんし、私は困ってなんかないです。今日は、私、コウさんとご一緒できてとっても楽しかったです! こんなに楽しいデート、初めてでした」
「それなら……良かったです。そろそろ時間なので、〈サン・ルイ〉に送ります」
「……!?」
「また悩み相談、いつでも受け付けますから」
コウさん、どうしてそんな苦しそうな作り笑いをしてるの?
私、あなたに……。
車の中では、当たり障りの無い世間話をポツポツと続けた。
このまま今日が終わってしまっていいの?
迷っている間に、車は〈サン・ルイ〉の前の道に到着してしまった。
今日の悩み相談はこれでおしまい?
「今日はお疲れさまでした」
コウさんは、車のエンジンを止めた。
「あ、ありがとうございました。おかげさまで淋しいっていう、悩みが遠のいて、明日からまた、毎日の生活に、ひとりで向き合う気力が、出ました。……本当にありがとうございました」
何とかそれらしい言葉を紡ぎ出した。
でも。
「あなたの悩みを解消する力になれて、本望です」
コウさんは、憂いを含んだ顔をしている。
喜んで明日に送り出してくれるという感じじゃない。
そして、会話は途切れて、私たちは無音の空間に取り残されている。
車を降りるしかない?
「それじゃあ……失礼します」
私は車のドアを自分で開けて降りると、車の中で動かないコウさんに向かって頭を下げてから歩き出す。
数メートル先には〈サン・ルイ〉がある。あの光の中に飛び込めばいつもの私のいる場所に戻る。
コウさんは、何も言わなかった。
引き止める言葉もなかった。
引き止める?
私、引き止められたかったの?
……………。
違う。私が、コウさんと本当はもっと一緒にいたいんだ。これからも、この先も。
私の足は止まった。
もう遅い? 車から降りてしまったから。
でも、まだ今日という日は終わっていない。
『今日はオレがあなたの我儘をすべて聞いてあげますから』
『今まで生きてきたあなた自身の価値は年齢で下がったりしない』
『自信持って。そのままのあなたがいいです』
『葉摘さんとこうして一緒に過ごせて嬉しいし、楽しいですよ』
コウさん!
あなたはあんなにも私に伝えてくれていたのに、私は恐れてばかりであなたに大切なことを伝えていなかった。
私は、振り向いた。
と、同時に車のドアが開く音がして、コウさんが車から降りる姿が見えた。
私の意識が、心が、身体が、足が、私の全てがコウさんの元へ戻りたがっている。
「コウさん!」
名前を口にした。
もっとあなたといたい!
あなたが、好きになってしまった。
「葉摘さん!」
私の名前を呼ぶ、優しい声、目を細めて微笑むコウさんに安堵する。
まだそこにいてくれた。
息が上がる。あなたに向かって、ほんの少し駆けただけなのに。この体力の無さ、笑っちゃう。
「コウさん! 私、もっとあなたと一緒にいたいです!」
コウさんの目の前で、立ち止まるつもりだったのに……。
!?
私の身体は、伸ばされたコウさんの長い腕に迎えられ、その温かい胸にギュッと抱きしめられていた。
ここまでお読み下さって、ありがとうございます。