21 別人でありますように
〈サロン・ド・ラ・ナチュール〉のマダムは、若々しくて本当に乙女のように可愛らしい方だった。あんな風に年齢を重ねられたら……。
『……逃しちゃ駄目。恋せよ乙女』
マダムから、ポンと背中を押された気がした。
「ずいぶんと味のあるマダムと執事さんでしたね。お店も庭も綺麗で雰囲気も良かったし、また来ましょう」
コウさんから、私が言いたかった台詞を先に言われてしまった。
「そうですね。いつか……」
私たちは、静かに笑みを交わした。
ひとりで来るには敷居が高そうだから、コウさん、また付き合ってくれる……かな。なんて……。
「こんなに素敵なティールームが市内にあったなんて……。すごく感激でした。それに予約までしてくださって、本当にどうもありがとうございました。その、ご、ご馳走様でした。高かったでしょう? 請求して貰っても良いんですよ」
「今日の支払いはオレがって、言いましたよね」
「でも、まさかこれほど高級なお店だとは思ってなかったですし……」
「それ以上言ったら、口塞ぎますよ」
「!?」
コウさんが顔を急に寄せて来たので、身構えてしまった。
「ふふっ、今の葉摘さんの顔、面白かった」
「……やだ。もう〜」
私は恥ずかしくなって、俯くしかできなかった。ほんの一瞬だけ、唇にキスされるのではないかという思いが頭を過ぎった。期待したわけでは決してない。こういう戯れはやめて欲しい。
もし恋人同士なら、楽しく甘いおふざけ。私、年下のコウさんにすっかり翻弄されている。百戦錬磨の元ホストには、敵わない。
コウさんは車のエンジンをかけると、カーナビのボタン操作を始めた。
「葉摘さん、今から行く美術館の住所、ナビに入力しますから、教えて下さい」
「は、はい」
スマホを見ながら私が読み上げた住所を、真剣に入力するコウさんの横顔。鼻筋が通っていて、顎、喉までのライン……整っている。
「よしっ、OKと。オレに見惚れてても良いですけど、出発しますよ」
「っ!? す、みません」
バレてた!!
「マジで? 葉摘さん、正直ですね」
あああ、やってしまった。
て、いうか、コウさん、からかい過ぎ! 綺麗な顔で笑ってるし。
「さ、シートベルトを締めて」
「はい」
ダメだ、私、恥ずかしすぎる。
◇◇◇
コウさんは、話題を美術のほうに変えてくれた。ホスト時代に画商のお客さまがいて、その時に話題作りのため勉強したそうだ。だとすると、私なんかより、女性の好きな話題をたくさん知っていそう。
「その画商の社長さんがね、ピカソは絵が驚くほど上手いって言ってて……。オレは実はピカソというと目や鼻がおかしな向きをしている絵とか、子どもでも描けそうなサラッとした鳩の絵とかしか知らなくて」
「確かに。教科書で見たピカソの〈ゲルニカ〉や鳩の絵は、有名ですよね」
「ところが調べてみたら、最初は写実的な絵を描いていて、社長さんが言った通りそれがものすごく上手かったんですよ。ピカソのお父さんは美術教師で画家だったらしいんだけど、十代前半の息子の方が自分より既に上手いと悟って自分は筆を折ったと言われてます。が、それは単なる噂という説もあるそうです」
「へえ、そうなんですね」
コウさん、すごい、仕事熱心。
社長さんてもちろん女性だよね。画商でしかも女性の社長とか、すごい人もいるんだ。そんな人もコウさんのお客さまだったんだ。
「で、これから行く美術館は、葉摘さんはどうして知ったんですか?」
「タウン雑誌で紹介されていたのを偶然見て、アートより、そこの、建物が素敵だったんですよね。北上アラタさんは、プロフィールを見ると、普通の会社員で若手の登竜門といわれている現代美術ビエンナーレで確か八年前位に優秀新人賞を受賞されて、それで注目されて、棘や蔓をテーマにしたオブジェや抽象的な景色を庭園に見立てた独特の空間を作り出している、今人気のアーティストさんだそうです」
「普通の会社員から? すごいなあ」
「美大は出ていたそうなんですけど。でも一度就職して仕事をしながらも夢を諦めずに活動を続けるって、なかなかできないですよね。瑠伊さんもそうやって、夢を実現なさったんですよね」
「確かに。のほほんとしてるけど、アネキもか。まあ、ヒロさんにおんぶにだっこ、ぶらさがってたから、ヒロさんあってのことですよ」
それでも、瑠伊さんは夢を実現させた。その芯の強さは見習いたい。
北上アラタさんのアトリエ兼私設美術館は、市内の北の方にある新興住宅地にあった。一軒一軒の土地の坪数も大きいし、道幅も広く、街路樹も整然と並んでいる。
「あそこですね」
スマホの写真で見るよりずっと大きな白亜の邸宅。住宅の屋上まで続く螺旋の白い外階段が印象的な建物だった。屋上の白い城壁のような手すりが要塞っぽくも見える。
駐車スペースに車を停めると、私たちは美術館の敷地内に足を踏み入れた。
建物の外壁の一部を蔦が覆っていて、白と緑の対比が綺麗だった。敷地内の三本の大きなシュロの木が、異国的な情緒を醸し出している。空間に心を奪われていると、コウさんに手を優しく握られた。
「そんなに好き?」
「ええ、見に来られて良かったです。連れて来て下さって、ありがとうございます」
「妬けるけど、どういたしまして」
妬けるって、建物に?
「いらっしゃいませ」
明るく甲高い声がしたので、そちらに目を向けた。白い格子のドアがある玄関らしい場所から、私たちと同年代くらいの女性が手招きしている。
「どうぞこちらから、お入り下さい!」
「こんにちは」
「ようこそ、北上アラタ美術館へ。今ちょうどアラタ本人が中庭で新作オブジェの制作中です。タイミングの良い時にいらっしゃいました。建物内一階は、どうぞご自由にご覧になっていただいて大丈夫です」
にこやかな笑顔でそう説明された。
私たちは手を繋いだまま、手前の部屋の前衛的なオブジェから見始めた。
私にアーティスティックな想像力は無さそうだ。
これが……蔦? イメージがわかなかった。コウさんと目を見合わせて、お互い苦笑してしまった。
良かった、コウさんもわかってないみたい。
中庭に差し掛かった。ブルーシートの上で棘のような多数の円錐に、白い色をペイントしている髪の長い男性がいた。
あの人が北上アラタさんご本人?
え? あの人? ………目を疑った。
見間違い? だよね。
だって、名前違うし。あんな長髪じゃなかったし。
ずっと前に、頭の中から無理矢理消し去った人物によく似ている。せっかく消していた記憶が次々よみがえって来た。
『僕、斎藤新と言います』
『〈葉摘〉? 面白い名前だね』
『葉摘に会えてよかった』
『ねえ、葉摘。僕の部屋に来ない?』
『葉摘の譲れないものって何?』
『葉摘……抱きたい』
突然連絡がつかなくなった私の苦い思い出の相手、斎藤新に瓜二つの人物が、すぐそこにいる。
どうか、別人でありますように。