11 誰かのヒロイン
翌日の夜、部屋で夕飯の片付けをしていると、スマホが鳴った。画面を確認すると渡辺さんから電話だった。
内野さんが正直に渡辺さんに話したんだろうか。私は仕方がなく電話に出た。
渡辺さんの、電話の声はけたたましかった。
『ちょっと、葉摘ちゃん! 彼氏ができたの!? 内野くんから葉摘ちゃんのスマホに電話をかけたら知らない男が出たって聞いたんだけど。彼氏いないって言ってたのに、いつの間に! まさか悪い男に騙されていないでしょうね』
「は?」
どうしてそんなっ!?
『大丈夫なの? その人……。見定めてあげようか?』
「彼氏じゃありませんから必要ないです」
コウさんは彼氏じゃないし、騙されてもいないし悪い男でもない。そんな興味本位で品定めみたいなことして欲しくない!
「それより、内野さんから何か聞いていませんか?」
『え? 何を?』
やっぱり知らない? 渡辺さんは主張も物事の判断もしっかりしてるし、うやむやにしない。おそらく、内野さんは渡辺さんにキスの話はしてない。でもコウさんのことは気になったから、渡辺さんにそれとなく言って探らせようとしたんだ! どこまで残念なことをするんだろう。
「……彼のことです」
『うん、初対面の相手に堂々とし過ぎてて胡散臭いって』
胡散臭い……。
確かに、最初にあの名刺を渡された時は私もそう思った。でも、全然違った。
内野さんを撃退してくれた時のコウさんは、私にとってはまさしくヒーローだった。
「身元はわかってますし、きちんとした人ですから、胡散臭くないですよ。そもそも付き合ってはいない……ですし」
『そう? あなたもいい大人だから、私もそれ程心配はしていないけど、何か困ったことがあったら言ってよ、いつでも助けてあげるから』
「はい、ありがとうございます」
それから、適当に世間話をして彼女との電話を切った。
ごめんなさい、渡辺さん。今後は私からの連絡は控えますね。
頼れば心配して親身になってくれる優しい先輩。こんな形で距離を置くことになるなんて。やりきれない想いが胸に広がった。
◇◇◇
私は平日に代休を取ることも多い。営業担当者に合わせて土日出勤があるからだ。
コウさんとは、明後日の土曜日に遊園地で悩み相談をする予定だ。男性とふたりで遊園地なんて、今後ないかもしれない。着ていく服に悩み、今日は午前から街中のファッションビルを覗きに行った。アースカラーのシンプルなワンピースを試着した鏡に映る地味な自分の姿は、ヒロインとはほど遠い。でも、これが私に似合っている。
ヒロインとは、瑠伊さんみたいな素敵な人のことだ。私は今どきの言葉で表現するならモブ。目立たないその他大勢。昔からそうだった。でも、それでいい。モブはモブなりに自分の人生を精一杯楽しめば良い。
楽しんで強かに生き抜くことが大事。
その後、ショッピングに疲れた私は遅めのランチをするため、〈サン・ルイ〉に立ち寄った。
「小宮山さん、いらっしゃいませ」
いつもの変わらない優しい笑顔で矢坂さんが出迎えてくれる。
「こんにちは」
出窓の席につい目が行ってしまう。コウさんはいない時間帯なのに。
カウンターに年配の白髪の男性客がひとりいるだけだった。寛いでいる雰囲気があるので、お馴染みさんのようだ。目が合ったので、お互い会釈した。
今日はカウンターの中に、いつもいる瑠伊さんの姿がない。外出だろうか。
「今日はおひとりなんですか?」
ただ何気に聞いただけだった。
「ええ。瑠伊さんはちょっと出かけてます」
矢坂さんは自分の奥さんのことを〈瑠伊さん〉と優しく呼ぶ。店でも家でも彼はきっと変わらない人なんだと思う。
「ひとりで行かせて大丈夫だったの?」
カウンター席の男性客の言葉が気になったが、私はいつも座る真ん中の席に座った。
なんだろう?
「いつもひとりで行くって言うもんですから。私が一緒に行くのが恥ずかしいんじゃないですかね。ほとんど女性しかいませんからね」
矢坂さんは男性客の問い掛けにそう返しながら、私にお水とメニューを持ってきてくれた。
「瑠伊さん、どうかなさったんですか?」
私は心配になって聞いてみた。
「いえ、大丈夫ですよ。実は、ちょっと恥ずかしいんですけれど、この年齢でようやく子どもを授かりまして……。瑠伊さんは今、妊婦検診に行ってるんです」
矢坂さんの顔は、嬉しさに満ち溢れていた。
「そ、うだったんですね。おめでとうございます!」
口を歪ませないように、必死に笑顔を作った。おめでたいことなのに、胸がとても苦しい。
「ありがとうございます」
未来への喜びに輝く矢坂さんの笑顔は、私には目がくらむほど眩しく、私の心を打ちのめすものだった。
瑠伊さんは高齢出産になるにしても、まだおそらく四十前だろうから、そんなに心配することは無い。
間違いなく彼女はヒロインだ。
羨ましい。
矢坂さんと愛し合って、妊娠して、彼との子どもを産む。矢坂さんを幸せにしてあげることのできるたったひとりの彼のヒロイン。
私は……もう。すでに半分以上諦めている。誰かの特別になることなんて、あるのだろうか。
黒縁眼鏡の影が脳裏をよぎったが、考えないように追いやった。
私は注文したハムとチーズのホットサンドをほとんど味わうことなくブレンドコーヒーで流し込むと、早々に立ち上がった。
矢坂さんは、カウンター席の男性客と彼の小さいお孫さんの話で盛り上がっていたが、私が席を立ったことがわかったようで、レジに移動して来た。
「ありがとうございました!」
「ごちそうさまでした」
普通にマスターと客としての笑みを交わす。
さようなら、矢坂さん。
〈サン・ルイ〉を出た所で、私は妊婦検診から帰って来たらしい様子の幸せなヒロイン、瑠伊さんに遭遇した。
ここまでお読み下さって、ありがとうございます。