1 カフェ〈サン・ルイ〉
この男性は、なんて素敵な笑みを浮べるのだろう。
明るい陽の光を放つような柔和な笑み。
私のこわばった心を溶かすほどの。
でも最近は、その笑みを向けられるたび、胸がチクリと傷む。
あなたの本当の笑顔はカウンターの中にいる美しい奥さまのもの。
私はただのくたびれた年増の常連客。
はじめは私を温かい気持ちにさせてくれたあなたの完璧すぎる笑顔は、次第に私の胸の奥を刺す美しい薔薇の棘に変わった。
それでも、それなのに、それでも尚、それが欲しくて、そこからもたらされる甘さとほろ苦さを求めて私の足は勝手にそこへ歩みを進める。
それはまるで過ぎ去ろうとしている青春の残り時間を必死で守ろうとしているかのよう。
◇◇◇◇◇
大学を卒業して社会人になって早十八年、そう、私は四十歳……。いつの間にか、もうこんなに年を重ねていたんだ。
仕事をはじめると、毎日があっという間に過ぎていく。それでも周りの友達は、次々と恋人ができて結婚していく。そして普通に子どももいて、子育てして、家族を作っている。
私もそれなりに恋をして、恋をするたびに、この人が運命の人だと思った。
でも、うまくいかなかった。恋人ができる人、できない人、結婚できる人、できない人、どこが違うんだろう。
かつて四十歳になった叔母が年賀状に書いて寄越した文章が思い出される。
――四十歳になりました。気持ちは二十代と変わらないのに、年だけとった感じです。
当時はまだ二十代前半だった私は、そんなものかと予想もできなかったけど、その年齢になった今ならわかる。気持ちはあの頃とさほど変わらなくとも、年月は無情にも過ぎていくということを。
その日は午前中に役所へ書類を取りに行ったついでに、そのまま外でランチタイムを過ごして帰社するつもりだった。
いつも通る四つ角、赤信号で止まった。そこの電柱に、<カフェ・サンルイは←こちら。五十メートル先左>という明らかに手書きの小さいポスターが貼りつけてある。交差点の左の道は、通ったことがなかった。一方通行のかなり狭い道で見た所人通りも少ない。
ランチはもう少し先の老舗のベーカリーにしようと思っていたが、カフェ巡りが好きな私は前々からこのポスターが気になっていた。
この先に本当にカフェがあるの?
好奇心がわいた私はちょっと覗いてみようかと思ってそちらへ足を向けた。
この辺りは比較的街の中心部に近い古いお屋敷町で、昔ながらの大きな古い家から新しいマンションなども混在しているが、落ち着いた住宅地のイメージがあった。
そのカフェは、道路から少し奥に入ったところのマンションの一階にあった。ここを目的にでも来ない限り、自然と通り過ぎてしまうくらい目立たない。
見えるのは素朴なアーチ型の格子ガラスの入った木製ドアに、ステンドグラスのスタンドが置いてある出窓がひとつだけ。そのあかりから辛うじてオープンしているのがわかる。知る人ぞ知る、といった雰囲気のあるカフェだ。混んでいたらやめよう、そんな軽い気持ちだった。
ゆっくりと近づいてドアのガラス越しに中を覗くと、エプロン姿で緩いウェーブの髪の男性と目がしっかり合ってしまった。
その男性は、微笑みながら私に丁寧に頭を下げた。
……!?
雲ひとつない晴れのような朗らかな笑顔に、一瞬で心を持っていかれた。四十女には反則すぎるほどの笑顔。私がつられて笑みを作って返すと、ドアが開いた。
ドアを開けるというたったそれだけの動作なのに、その男性の仕草は流れが完璧で、どこかのお金持ちの家の執事のようにスマートだった。
「こんにちは。よろしかったらどうぞ、お立ち寄り下さい」
声も優しい。身体に電気が走ったように魅惑の魔法にかかった瞬間だった。
そんな笑顔で誘惑の呪文をかけられたら、背を向けて去ることなんてできない。
彼は、カフェ<サン・ルイ>のマスターだった。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
中は明らかにアンティークとわかるテーブルと椅子の席が四つ程あった。そしてカウンター席。
カウンターの中には、髪をひとつに結わえた清楚な佇まいの女性がにこにことこちらを見ていて、いらっしゃいませという挨拶の声まで澄んだソプラノだった。
外から見えた出窓の席には、黒縁眼鏡の男性がいて、ノートパソコンのキーボードをしきりに叩いていた。他の席には、スーツの年配者がひとり、コーヒーを飲んでいる。そして、奥からはガヤガヤと女性たちの喋り声が聞こえてきていた。奥は壁を隔てた半個室なのか、こちらから中は見えなかった。
私は真ん中の空いている席にした。
テーブルの上には、小ぶりのグラスに白い薔薇が一輪さしてあった。
そしてメニューの冊子と小さなアンティーク調のつる草模様のあるベル。
「いらっしゃいませ。こちら、メニューです。お決まりになりましたら、そちらのベルでお呼び下さい」
お水がコトリとテーブルに静かに置かれた。
袖をまくったオフホワイトのシャツからのぞく細身のやや色白の腕。でも男性の筋張った腕だ。
男性にしてはしなやかそうな指、その左手の薬指には、指輪があった。
既婚者の印。少しがっかりしている自分が嫌になる。
会う男性すべて、結婚しているしていないのチェックをしてしまう。
私を選んでくれる男性はどこにいるんだろう? 私の運命の相手は……。
最近はご縁だ、と思うことにしてる。
多少お付き合いした男性たちからは、
葉摘は何考えてるか、わかんない―――そりゃ簡単に他人が何考えてるかなんて、わからないでしょうに。
前の彼女のことは、すぐわかったんだけど―――比べないでくれる?
大人っぽい―――それなりに人生経験長いですから。
なんか見透かされてる感じ―――つい、相手のためを思って、喜ばせたくて先回りしちゃっただけなのに。
まあ、そんなことを言われてきた。
頑張って行動しても誰とも長く続かない。お付き合いはもって三ヶ月くらい、
結婚のけの字も出なかった。体の関係にまで発展したのは一人だけ。でも、何がだめだったのか、すぐに連絡が来なくなった。
いつも私ばかりが連絡して相手からはお情け程度のお誘いになって、会っても会話は少なくなって、私から話しかけるばかり。
私がその状況に疲れてほっておくと、気がつくと相手からも全く連絡が来てなくて……。
こっちはあまり時間がないんだから、別れたいならきちんと別れの言葉を告げてさっさと終わりにして欲しいのに、ほとんどみんな自然消滅パターン。
私、そんなに魅力ないの? どうすれば良かったの?
がんばって会話を続かせようと話題作りだって努力してたのに。
そんなに一緒にいて、つまらなかった?
三十代前半で、みかねた両親がいつの間にか結婚相談所に登録していて、お見合いのようなものをセッティングしてくれた。
相談所からの紹介でお見合いすること十数回、相手は公務員や警察官、教師、そこそこの大手企業の社員まで幅広かった。
でも、なぜかいいなと思う人からは断られ、合わない感じの人でも最低二回は会って慣れようとしたけど、やはり断ったり。
本当にご縁が無いんだと思った。さすがに疲れたので、そこの相談所は解約してもらった。
それからは、母の馴染みの美容室や、保険の外交員の方からの紹介で、たまにお見合いすることもあったが、うまくいかなかった。
昨年まで、早く結婚するようにとせかされていた実家の両親からは、
結婚がすべてではないし、子どもはいなくても今の時代はその方が生きやすいかもね……。とのこと。
あとは自分でなんとかするようにと、諦められたのかもしれない。
居心地の良い素敵なカフェで美味しいコーヒーを飲むことだけが、今の私の唯一の楽しみだった。
目の前のメニューを見る。コーヒーは好きだけど、特に銘柄にはこだわりはないし、よく知らない。酸味が強くないならなんでもいける。初見はブレンド。
ランチメニューは、何種類かのホットサンドの写真があった。ハムチーズは安くて定番だけど、健康の事も考えてあえてツナモッツァレラチーズアボカドトマトのヨーグルト付き。
ブレンドコーヒー五百円、ヨーグルト付きホットサンドが六百円、セットにすると割引が入って千円。まあまあのランチ代。
注文は決まったものの、いくらなんでもベルで人を呼ぶのって、なんだか主人が使用人を呼ぶみたいで抵抗がある。
カウンターに背中を向けて座ったのは失敗だった。アイコンタクトが取れない。
私がどうしようか迷っていると、
「お決まりですか?」優しく声をかけられた。
良かった。わかってくれた!
見上げると心臓をギュッと掴まれるほどの眩しい笑顔がまたそこに。
やっぱりときめいてしまう。
メニューを見て緊張しながら注文をすると、かしこまりました、と優雅に会釈される。
思わず、こちらも背筋を伸ばしてしまった。
美味しいコーヒーとホットサンド。
マスターの矢坂さんの素敵な笑顔。落ち着いたアンティーク家具のある店内。
カフェ<サン・ルイ>は、私の癒しの場所になった。