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欠落の嬰児  作者: 亡糸 円
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比翼の小鳥

薬缶(やかん)、鳴ってるよ」

 後頭部を軽く小突かれた衝撃と声変わりした様子のない高い澄んだ声が、ヘッドフォンを付けソファに溶けるように腰掛けていたトマの意識を現実へ引き戻した。


 軋む手を動かし、ヘッドバンドを掴んで無造作にヘッドフォンを外したトマは、申し訳無さと説明のつかない現象に対峙したことへの不可解さをないまぜにした結果生まれた不細工な苦笑いを浮かべて振り返り、彼の後頭部を小突いた張本人──ニコの聖人にも比肩する穏やかな微笑みを見遣った。

「──いやはや、いつものこととはいえ、何よりも君の声が一番良く聞こえるのが、不思議で仕方がないよ」


 そういったトマが耳から外したヘッドフォンからは、数メートル離れた位置にいるニコにも聞こえる程の大音量で、流行りのアップテンポな曲が音漏れしている。


 トマは生まれつき、音を認識する能力が他人より劣っていた。難聴というわけではなく、「音が鳴っている」事に気付きにくいという特殊な体質だった。一度その音に気付くことができれば聴力は健常者のそれと変わらないが、まず認識できない音に気付くということが難しい。幼児期と比べ訓練を経た今、ある程度音への認識力は向上しているが、それでも常に気を張っていなければ簡単に周囲の音を失念してしまう。


 そんなトマが唯一聞き逃さず拾うことのできる「音源」が、ニコの幼く無垢な高い声だった。昔からトマが聞き逃している音を、ニコが呼びかけることで認識させるというのが二人の恒例だった。


「今回はどんな感じだった?」ニコが問う。寝起きのような鈍い動きで掌を額に押し当てたトマは、やはり寝起きのように小さく呻いて首を振るい、掠れた声を上げた。寝起きのような、というか、トマからすれば半分寝ていたようなものなんだろうな、とその一挙一動を眺めていたニコは微笑みを保ちながら、ゆっくりと返答を待つのだった。


「うーん、そうだなあ・・・胃の中に石を詰められて、海に沈められる感じ・・・だったかな。ゆっくり海底に落ちていって、光が届かないくらい深くまで沈んで水圧が上がって、足掻こうにももう手足が動かないからあとは沈み続けるだけ・・・みたいな」


 片手間に音楽プレーヤーを弄り未だヘッドフォンから音漏れする音楽を停止させながら、意識が現実から乖離(かいり)する過程を途切れ途切れにニコに伝える。


 これは果たしてトマの聴覚異常に付随する症状なのか、無意識下──ただぼうっとするだけでも、睡眠すらも含む──に苦痛が伴う場合が多々ある。それは先いったように海中に沈み続けるような感覚だったり、果てのない中空に投げ出されるような感覚だったり様々で、体の自由が効かないという点では共通した嫌悪感と不快感、恐ろしさが覚醒したトマを苛むのだ。


 そうした際も彼を補助するのが、ニコの役目であった。トマが体験した自身の苦痛をニコに話すことで、ある程度心の平穏を取り戻すことができた。

 逆にニコも、彼のバリエーション溢れる苦痛体験を聞くことに、不謹慎ながらある種の楽しみを見出していた。


「ふふっ、君の苦痛の(たと)えは同じものがなくていいね。聞いていて飽きないよ」

「勘弁してくれ、結構きついんだよ?」


 ヘッドフォンを放り、空いた手を頭上でぷらつかせて嘆息する。

 彼が大音量で音楽を聞くのは、音を強制的に耳骨に流し込んでその音の存在を認識させ、意識を保ち続けることで苦痛から逃れるために考えた、苦肉の策だった。


 しかしそれでもずっと起き続けることは物理的に不可能で、日に一、二回は苦痛を味わうことになる。周囲の環境音を認識するために気を張り詰めておかなければまともに生活ができず、かといって諦めてしまえば抗いようのないえも言えぬ苦痛が体を蝕む。もういっそと人生すら諦めてしまおうとした回数は、トマももう覚えていない程だ。


 そこまで精神的に追い詰められていた当時の彼を思い留まらせたのは、やはり目の前で微笑む無垢な少年の存在ゆえだろうか。


「っと、そういえば」

 ニコとの話でまた認識がおろそかになっていた薬缶笛の音を思い出し、けたたましく鳴り続ける耳障りな高音に顔を(しか)めながらコンロの火を止め、笛のついた蓋を外し予めインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップに熱湯を注ぐ。一気に黒く染まった液体から、苦味と油分の香を含んだ湯気が立ち昇る。

 コーヒーは好きだが、これを吸うと何故か必ず()せてしまうため、少し(ぬる)くなって湯気が立たなくなるまでコーヒーを飲むことが出来なかった。


「・・・・・・」

 先程はトマがニコの声だけ鮮明に聞こえることを不思議がっていたが、今度はニコが同じような反応で、意外そうにトマを見つめていた。


「ん?どうしたの?」ようやく噎せない程度にまで湯気の落ち着いたコーヒーを啜りながら、ニコの視線に気付いたトマが問う。


「いや、やっぱり認識している音に対しては、普通の反応なんだなって」

「・・・どういうこと?」

「君が認識できている音なら、その音がうるさかったりとか不快だったりとか、逆に心地よかったりとか、普通の人と同じようにその音を感じられるんだなってこと。さっき薬缶の笛の音に耳塞いでたじゃない、あれってやっぱりうるさかったってことでしょ」


 確かに、とトマも客観的に納得する。己の特異性を知らない他人にとっては気付く由もない違和感だが、ずっと隣でトマを支えてきたニコからすれば、その光景と普段のトマとの齟齬は顕著に映ったに違いない。

 良く見てくれている。ニコが傍らに居てくれることを、改めて誇らしく、嬉しく思った。


 同時に、普通の聴覚を有するニコにとっては、ずっと鳴り続けていた薬缶の音は(わずら)わしかったのではないかという疑念がよぎった。トマの話を聞くために、あの喧しい沸騰音を我慢してくれていたのだろうかと、恐る恐る聞いてみる。


「じゃあ、僕が話している間はずっとあの笛の音を我慢してくれていたのかい?君が──」

 ──君が火を止めてくれても良かったのに、とは、口が裂けてでも言うべきではなかった。言い切る前に止めたのはいいが、うまい誤魔化しが思いつかずどもってしまっているトマを不思議がりながら、ニコはからりとした様子で返すのだった。

「いやいや。我慢、しなければいけないほどの音でもないし、普通の人なら『聞くに及ばず』っていう選択肢もあるしね」

「あ、ああ、なるほど、そういう事もあるか」


 取り繕っていることは筒抜けなのだろうが、敢えて触れずに流してくれたニコに少しの感謝と多大な罪悪感を募らせる。ただあちらが気を遣ってくれているのにこちらの思いを表出させるのは野暮だと、トマはそれらの感情をコーヒーと共に飲み下した。



 ニコは生まれつき、重度の弱視だった。文字が読めるのは視界の先十数センチ内、周囲のものの輪郭が辛うじて捉えられるのは彼の伸ばした腕の先ほどと、彼の見る世界はひどく制限されてしまっていた。


 トマが言い淀んだ原因は、ニコのその弱視に起因する。その昔今よりも周囲が見えなかったニコは、火気に不用意に近づいて大火傷を負った事があり、火以外にも包丁など危険な物が多い台所には入ってはいけないときつく言ったのが他でもないトマだったからだ。現に今もニコの右腕には、目立たなくなったとはいえ当時のケロイドが残っている。


 トマとニコが共にいるのは、トマの特異な聴覚や無意識下の苦痛をニコがケアする為だけではなく、逆に弱視で周囲をあまり認知出来ないニコの手をトマが握り、導く為でもあった。


 互いにあるものを共有し、ないものを補い合う。トマは学校で習った知識から、二人は「比翼の鳥」なのだと言った。二羽一対で翔ぶ、片翼片足の鳥。一羽では翔ぶことも、まして生きることすら難しく、もう一羽と足りない片翼、片足を差し出しながら大空を翔ぶ小さな鳥なのだと。


 この喩えはニコの琴線(きんせん)を強く震わせたらしく、共依存的なその生き方を心の底から喜んだ。目があまり見えないボクは、目に異常のないトマに手を引いてもらえる。耳に異常のないボクは、音を認識しづらいトマに気付かせてやれる。


 与えてもらい、与えることのできる幸せ。何よりも、大好きな、兄のような存在のトマがずっと隣りに居てくれる事。それが、何にも代えがたい幸せなのだ、と。

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