猪飼被疑者の面会記録
以下に記すのは、江東区殺人事件の被疑者・猪飼マキとの面会において録音した被疑者の独白を書き起こしたものである。
精神科医である私は、二週間前、留置場に勾留されている被疑者と面会する機会を得た。猪飼被疑者は平成三十年六月二十日から十月七日の間に、四人の成人男性を殺害している。いずれも身元が判明しており、被疑者との関係に統一性はない。面識があった被害者もいれば、そうでない被害者もいた。計画性は薄く、被疑者の身辺から計画を匂わす物品も見つかっていない。四人の犠牲者を出した背景としては、被疑者が凶器を用いておらず、捜査が難航したことが挙げられる。四人のうち一人は撲殺、三人は絞殺であった。明確な殺意によって殺害したと考えられる。
被疑者は「かっとなって殺したが、昔から憎んでいた」などと要領を得ない供述を繰り返している。なお、被疑者の母親とは、五月頃より連絡が取れない状況である。
「先生、ごめんなさい。きっと忙しいのに私との面会なんかで時間を取らせてしまって。でも、せっかくきてくれたから、話しますね。警察の人にも何回も話したけど。
私は人より妬みとか嫉みの感情が強いと思う。すぐに他人の持っているものを羨ましがるんです。しかもしつこい。その原点みたいなものが中学校二年生の冬に見た、同級生の勝ち誇った顔だったと思います。
小学校低学年の頃、私は勉強はできるけれど運動のできない、頭でっかちな子どもでした。四年生の時の担任の先生が体育に力を入れる人で、基本的な体の動かし方を教わりました。逆上がりなんかできなかったはずなのに、四年生の終わりには空中逆上がりをくるくるこなせるようになっていて、走るのも得意になった。一年生の持久走大会ではビリだったのに、四年生の大会では四位にまで成績が伸びたんです。私は体を使うのが苦手じゃないんだと知ることができて嬉しかった。あの先生には感謝しています。今どうしているのかな。
小学生は、体力に男女の差がないですよね、あんまり。男子に交じってかけっこをしても、私は負けなかった。中学校一年生の時もそうでした。五十メートル走は学年で二位で、小さい学校の中の話ですが、それでも本当に速かった。私は走れる。自信がありました。
中学校二年生の冬、私は駅伝大会の選抜選手に選ばれました。普段の部活を一ヶ月くらい休んで、毎日放課後に、校庭のトラックで練習するんです。大会自体は男女別ですけど、練習は一緒でした。
男女でペアになり、トラック半周を走る練習メニューがありました。私とペアを組んだのは大島くんという男子でした。下の名前はなんだったかな。……もともと動物園みたいに荒れていた中学校だったので、大島くんも授業を聞かない、頻繁にケンカをする、女子のポーチを奪って校内で見せびらかすようなどうしようもない子どもだったと思います。私はそれなりに真面目な生徒だったから、大島くんとはそれほど仲良くなかったんじゃないかな。あまり覚えていません。
スタート位置について、呼吸を整えた。隣には大島くんがいる。私はぜんぜん怖くなかった。だって私は速いもん。私にはできる。先生がパン、とピストルを鳴らした。足がスムーズに大きく動き出す。スタートダッシュは好調だった。いつもと同じように冷たい風が顔を叩いた。そこまではいつも通りだった。
私は、大島くんが気怠げに走っていることに気が付きました。まだ半分くらいしか力を出してません、という感じの走り方でした。そして大島くんは私より前に出た。そんなはずないと思って私はより大きく足を動かした。全力でした。それでも大島くんに並ぶことはおろか、じりじりと差をつけられていく。信じられなかった。だって、私は速いのに。本当に私は速かったのに。
そして大島くんはこっちを振り返りました。そして私の目を見て笑いました。あれは『一緒に走れて楽しいね』とか『駅伝頑張ろうね』とかそういう笑みではなかった。嘲笑だった。私が必死に走っているのにちっとも追いつけないことを、明確にあざ笑ったんです。ご丁寧に、走りながら大変だろうに、顔を後ろに向けて。彼はまたスピードを上げて、それでも本気ではありません、というラフなフォームで、トラック半周を走り終えました。
吐きそうだった。私の身体はおかしくなってしまったのか。私は、同じく走り終えた友人と談笑している大島くんを見つめました。彼は背が高くて、筋肉がついていて、走るのに向いた身体をしていました。私はそうじゃない。そういうことだったのか。私は女なんだ。そして彼は男なんだ。だから彼にできることが、私にはできないんだ。女だから、それだけの能力を持たないのだと知りました。
じゃあ、なぜ私は女の身体を持っているのか。彼は男の身体を持っているのに、なぜ私は女の身体なのか。嘲笑されるような身体しか持っていないのか。
家に帰って母に訊ねました。私はどうして女なの?母はこう言いました。しょうがないじゃない、おなかの中に置いてきちゃったんだから。おなかの中に置いてきた。私はそれが男性器のことを言っているのだとわかりました。私は男性器をおなかの中に忘れてきてしまった。違う、そんなはずはない。保健体育の授業で習ったのです。ヒトは母親の胎内でまず女の身体に形成される。そして男になる個体はそこから変わっていくのです。だから母が言ったことは嘘です。嘘だ。嘘なんだ!」
被疑者はここで机をバンと叩いて立ち上がった。面会室の外で待機していた警察官が、私に一時的に退室するよう言った。五分ほど経ってから、私は再び面会室に入室した。
「……私は自分が女であることを理解しました。納得はできませんでした。私だってそっち側がよかった。女を嘲笑できる側がよかったんです。でも違った。嘲笑される側だった。完成されていない身体の中に入っているような気分だ。劣っている身体。劣っている、劣っている……。女流作家。リケジョ。山ガール。本来なら、普通なら男もすなるものごとを、女もしてみむとてするなり。ははは。
私は反省しています。四人も殺してしまった。申し訳ないことをしました。彼らが何をしたっていうんだ。私に女であることを強要しただけなのに。女であることを、強要しやがった、殺してやる、殺してやる!」
被疑者はまた机を叩いて咽び泣くような声を出した。この日は面会を切り上げることにした。
数日後、巡査長立ち会いのもと、再度面会が許可された。この日の被疑者は最初から取り乱しているように見えた。
「先生ごめんなさい、ごめんなさい、自分がわからない。私は男の身体が羨ましい。あの身体が欲しい。あの身体の中に入ってみたかった。最初からそうだったらよかったのに、私にはこの身体しか与えられなかった、こんなに悔しくて悲しいことがあるだろうか。私はおかしいのかもしれない。ねじれているのだと思う。自分より弱いものを支配したい、自分のものにしたいんです。でも自分が弱者なんだ。普通に生きているだけでそれを認識させられる。私が若い女というだけで、男だったら浴びせられないような言葉を、視線を、受けているのです。違う、私は絶対に女なんかじゃない。
私が男の身体を手に入れられるなら、絶対に女を犯してやる。若くて弱い女を殴りつけて、泣き叫ぶところを見たい。私はそれでやっと幸せになれる。女が弱いのが悪い。女が無能なのが悪い。女の頭が弱いのが悪い、あはは、あははははははは!……」
被疑者の裁判は平成三十一年二月より開始されるはずだが、精神鑑定を要求されているため、予定通りとはいかない可能性が高い。被疑者は幼稚かつ身勝手な理由で四人の尊い命を奪った。そこにどんな理由があろうと許されるものではない。
なお、男である私には理解の及ばないところが多く、この独白について特に分析を加えるつもりはない。