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翠雨の別れ 第二話

 昼を過ぎた頃だ。


 まだ霧は残っているものの、沼地の全体がぼんやりと見えるほどにはカビたちを焼き払った。見渡せるようになった沼畔には枯れ木がいくつもあった。水を吸い重くなった足を動かしそこへ近づいてみると枯れて腐った木の中に、白い樹皮をわずかに残しているものもあった。おそらくシラカンバの木だろう。

 昔はシラカンバに囲まれて鳥が鳴く美しい沼地だったのだろう。木々は誰かが汚れてしまった土地を浄化してくれると耐えながら待ちわびていたが、それも虚しく枯れてしまったようだ。残った樹皮に触れると、それははがれて水面に落ち、波紋を作って沈んでいった。


「イズミ君、感傷に浸るのは終わってからにしよう」


 木に手をついて眺めていた俺をオージーが呼んだ。



 作業に戻ろうと、振り返ると連絡用のマジックアイテムが鳴った。レアから連絡が入った。

なんだろう、シバサキと合流したとか大した用事ではないだろう。汗でまとわりついた手袋を外すのに戸惑いながらのんびり話始めると、


「イズミさん、緊急事態です!」


 とレアの声が響き渡った。突然の大声に飛び上がってしまったが、気を取り直して状況を聞いた。

 沼から離れた安全地帯に避難させたはずだ。移動もすでに終わっているはずだ。


「どういうこと? 安全地帯でしょ?」

「そっちより()()()()がいることを私たちは忘れていました! とにかく来てください!」


 その声はとても張り詰めていた。それと同時に何かをしているがさがさと衣擦れの音と誰かの低い声も入っていた。冷静だった彼女が最近よく焦るようになってきた。だが、いつも以上に焦る様子のおかしさと妙な胸騒ぎがして、俺たちはすぐさま二人の元へ急ぐことにした。全員を一度集め、二人の元へポータルを開いた。



 レアが指定した場所は沼地へ向かう道すがら立ち寄ったところだ。そこは沼地からだいぶ離れた、強烈な臭いもまだ少なく、マスク無しでも十分なあたりだ。少し離れたところについた俺たちからは、屈んでいるレアの背中とその前に誰かが横たわっているのが見えた。その人はうずくまり、唸り声をあげていた。誰かがけがをしたのかと彼女たちのそばへと駆け寄った。


「いった、、いぃ」


 のぞき込むと見知った顔があった。なんとそれはアンネリだったのだ。

 下腹部を押さえ、激痛に苦しみながらうずくまり、唸り声を上げている。そして、その辛さをこらえるかのように歯を食いしばり、額には脂汗を浮かべている。

 なぜ安全圏にいるのに苦悶の表情を浮かべているのか。俺は視界に入った瞬間はこの場で何が起きたのかすぐには分からなかった。アンネリのつらそうな表情からは激痛にもだえ苦しんでいるのが見て取れる。

だが、下腹部を押さえ悶絶する彼女の姿を見て理解した。


「アナ!? 大丈夫か?」


 オージーがマスクを外し駆け寄ると、アンネリの手を握った。彼女はオージーをちらりと見ると、目をつぶりながらつらそうにうなずいた。閉じた目じりから一滴の涙が滴り、こめかみのほうへ線を作った。


「アナ、そんな、、ウソだろ……?」


 アンネリの姿を見たオージーはみるみると血の気が引き、フラフラとし始めた。


「イズミさん、非常にまずい状態です! 出血もかなり見られます!」

「どこから!?」


 思わず聞かなくていいことを聞いてしまった。

 言わなくても予想はつく。ただ、それを認めたくなかっただけだ。


 俺は反応を待たずに即座に続けた。


「いや、言わなくていい! とりあえずどこか離れたところへ運ぶぞ!」


 オージーの目は動揺に塗れ、現実を直視できていない。小刻みに震えだしている。

 俺は彼の肩を力強くゆすった。そして、両手で頬をつかみ、目の中を覗き込んだ。


「オージー! しっかりしろ! 君まで放心してどうする!」


 正気には戻るまで時間がかかる。このままでは間に合わなくなる。

 俺は移動させるべくアンネリを抱きかかえた。すると右腕のあたりに水のような感触があった。

 ただの水の感触ではない。水にはないぬくもりとわずかな粘っこさ。



 間違いない。血だ。それも少しではない。



 思った通りだ。急がねば。


「直接町まで運ぶ! ポータルを開くぞ!」


 俺は詠唱のモーションを無しでポータルを開ける。しかし、移動魔法でポータルを開こうとしたところをレアが引き留めた。


「イズミさん、待ってください! 私たちはみな今汚染された状態です!」

「だからなんだ!? 緊急事態だぞ!?」


 強くにらみつけるレアを押しのけてもポータルを開こうとした。しかし、またしても彼女は妨害した。


「まずは浄化をしてください! 沼にあるものはおそらく毒性があります!」

「解毒・除染魔法は時間がかかる! すぐには無理だ!」

「それでもです! 毒を街中に持ち込むわけにはいきません!」

「わかってる! でもアンネリが間に合わなくなるぞ!」



 腕の中で痛みに悶絶し、呻き続けるアンネリを見た。息は先ほどよりも浅く、そして荒い。


「あかちゃん、死んじゃう……。あかちゃん……。やだ……死んじゃう……」

「がんばれ! 大丈夫だから!」


 励ます声は届いているのだろうか。すぐに処置をしなければ大丈夫ではない。それでも大丈夫と言うしかない。



 右腕に触れるそれは次第に多くなっていく。

 俺は()()()()を唱えようとした。しかし、またしてもレアは俺の腕をつかんで首を左右に振った。


「止めるな! 何とかなるかもしれない!」

「無駄です! ()()()()は自然治癒を早めるだけです! これは自然治癒ではどうにもなりません!」


 掴んでいた腕に力こもり始めた。食い込む爪が痛くなっていった。 


「私が……もう……やりました……」


 そしてレアは下を向いた。掴んでいる手がふるふると震えだした。



「イズミさん、はっきり申し上げます」


 睨みつけるような上目遣いでゆっくりと俺を見上げた。その顔の赤くなった目の下にくまができていた。

よせ、言うな。やめろ。

レアが、何を言うか、わかってしまった。

はぁはぁとレアの息が荒くなり、ひときわ大きく息を吸い込んだ。そして


「アンネリさんの赤ちゃんは、アンネリさんは……もう、間に合いません!」


 と力を込めた鼻声で叫んでしまった。


「ふざけるな! 無理だなんて言うな! まだ生きてるじゃないか!」


 レアは目に涙を浮かべ始めた。


「私たちの技術レベルでは……、アンネリさんも赤ちゃんも……もう、助かりません……」

「ふざける、なよ……そんなわけ……。まさかレア、俺たち全員を呼び出したのって……」


 まっすぐ俺を見ていた瞳が勢いよく下へ流れた。何も言わないというのはつまり。



 本当は俺もうすうす感じていた。

適切な処置をすれば助かるとは聞いたことがある。でもそれは元いた世界の話だ。ここは、この世界はまだ医者すら曖昧でいないような世界だ。


 足や腰から力が抜けていくような気がした。アンネリを落とすわけにはいかない。



 本当にダメなのか?



 諦めてしまいそうだ。

気が遠くなっていく。膝から崩れ落ちてしまいそうだ。俺はオージー、アンネリの二人に何か起こる前に対処すると誓ったはずだった。


 それなのに、アンネリはこんな状態になってしまった。


 腕の中の彼女は、尋常ではない冷や汗をかき、血の気がどんどんと退いて蒼白の顔になっていく。そして、腕に触れる大量の出血の感覚。

 まるで視界から色が失われていくような感覚に襲われた。力が抜ける下腿が本当に俺を無力にしていく。



 何が賢者だ。何もできないではないか。叡智の塊のくせに無能だ。笑える。

 何が魔法だ。結局傷つけるだけでだれ一人救えないじゃないか。俺が知っている奇跡なんか、なかった。


 ダメだ。俺まで呆然としてはいけない。まだ、まだ何かあるはずだ。

 何かの手がかりを探るようにチームメンバーを見回した。


 しかし、レアもカミュも下唇を噛んで、俺を見ている。まるで悲しみをこらえ憐れむように。オージーでさえも。


 そんな目で俺を、アンネリを見るな。

 諦めたような目で、見るな。


 見るなよ。


「あたし、死ぬの……?」


 誰もが黙った中で、腕の中のアンネリが俺の服を強く握りしめながら言った。

 何も答えられず、俺は彼女から目をそらした。


 彼女は目を丸くした。そして目じりに浮かべた涙がそのままあふれてしまうような気がした。

 俺のしぐさが、彼女に何かを悟らせてしまったようだ。痛みに震えながら彼女は笑った。


「オージーの、顔、見せて……」



 放心しへたり込んでいたオージーのほうへ俺は彼女を抱えたままゆっくり歩み寄り、跪いた。

 アンネリがオージーに手を伸ばした。そして力なくなぞる様に頬に触れた。


「ごめんね……ごめんね……」


 そのとき彼の目に光が戻り、涙が浮かび始めた。


「アナ……アナ!」


 頬に触れた手を彼は両手で握り、強く包んだ。そのまま額に当てて、背を丸めて震えだした。



 もう、ダメなのか。これで終わりなのか。

 俺の選んだ選択肢のせいで、この二人は引き裂かれる結果になってしまった。

 もし、あの時、俺が二人を誘わなければ、こんな結果にはならなかったはずだ。


 沼へ続く道は静かで、彼女のうめき声が小さくなっていくと穏やかな風の音が聞こえてきた。彼女に起きたことに、起こってしまったことに俺たちは夢中になり、辺りの様子が見えていなかった。

 沼から遠く離れたこの場所にも水辺があった。そこには綺麗なハナショウブが咲いていることなど、気づきもしなかった。

 あの沼地にも、雨季になれば青紫の可憐な花を咲かせて、人々を魅了したのだろうか。



 痛みに意識が遠のいていくのか、アンネリはもだえる力も弱まり、動きも小さくなっていった。

 そして、少しずつ、少しずつ、彼女へ向いていた俺たちの意識は、薄れていく彼女のそれを見送る様に落ち着き始めた。まるで旅立ちの場を整えるかのようだ。

 悲しいが無力でどうすることもできないと、人は落ち着いていくのだ。それは静かで、安らかなはなむけだ。

 ハナショウブは花びらの上の雨粒を輝かせている。今にも落ちてしまいそうなそれは、水面に落ちてしまえばどこにあるのかはもうわからない。


 すまない。アンネリ。すまない。オージー。

 俺は選び間違えたんだ。


 跪いたまま、空を見上げた。

読んでいただきありがとうございました。

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