翠雨の別れ 第一話
少し水深が深いところまで来て、くるぶしの上ぐらいまで水につかり、歩き辛さに作業進行が遅くなっていた。
「誰がこんな依頼を出したんだろうな」
「いなくなった元管理者の息子が土地を相続して、放ったらかしにしていたらどうしようもなくなって依頼をしたらしい」
「こうなってしまっては一人では何とかできませんからね……」
なかなか進まない作業に疲れはじめ、立ち止まり休憩をしていたときだった。まだ霧の中にある水中から大きな泡が噴き出るような音がした。大きな釜で水を煮立たせているようなその泡の音はぼこぼこと大きくなった。そして、それが落ち着くとぶちぶちと液体の入った何かをつぶす音がし始めた。すると霧が立ちこめてきて、視界が再び狭くなり始めた。
音の方角を見ていたオージーが何か嫌な予感でもしたのか、小さな声で呟いた。
「足場のあるとこまで移動しよう」
「さっきの音はなんだ?」
「それも気になる。確か、何か棲みついた、という話だろう? このカビだけではないかもしれない」
しかし、再び濃くなった霧は周囲の視界と音を遮り、戻ろうとした俺たちをその場にとどめた。
「まずいな。来た時より濃くなった。すぐには戻れないぞ」
「構えろ!何か来る!」
カミュはゆっくり剣の柄を握り、腰を低く構えた。
一同も息を殺し沈黙が訪れた。すべての音が静まり返り、殺していたはずの息遣いと自分の鼓動が聞こえてきそうだ。
あらゆる音を逃すまいと、糸を張るように耳を澄ませた。
突如、横にいたカミュが視界から消えた。
すると足元から水しぶきと「ぐぁっ!」と声が聞こえた。転んだカミュの右足に何かが巻き付き、引きずられている。
「カミュ、大丈夫か!?」
「ではない! だが何とかする!」
大剣は背中に背負ったままだ。転んでしまっては抜くことができない。俺はアンネリに目配せをして、その巻き付いたものの蔓を狙った。
「イズミ! 待て! 私で何とかする!」
魔法で吹き飛ばそうとした俺たちを見て、カミュは声を上げた。すると、隠し持っていた短剣を取り出し、足に絡みついた蔓を切り落とそうとしている。
「クソッ! 切りにくい!」
そうしているうちにもどんどんと引きずられ、もはや霧の中に入ってしまいそうだ。
「カミュ! まだか!?」
呼びかけると「もう少しだ! もう少しッ!」と声を上げた。
しかし、蔓を切りつけるカミュの姿は次第に薄くなり、ついに見えなくなってしまった。
音すら遮る霧の中へ引きずり込まれ、もはや気配すら無くなった。
静まり返った中、ポタリ、と滴の垂れる音がした。霧の中に何かいる。
すると、今度はばしゃばしゃと水をける音が聞こえ始めた。
しかし、その音はすぐにぴたりと止まった。
カミュが心配だ。しかし、何が出てくるかわからず、敵前で大声を出すわけにもいかない。その場にいた俺たちは蛇に睨まれたカエルのように身動きをとれなくなってしまった。
今度は霧の中から何かが飛び出してきた。
それはヘドロに塗れていたピンク色の塊で、泥とヘドロと水しぶきをまき散らしながらまっすぐ俺の前に飛んできた。
慌てて杖ではじくと、地面にべしゃりと落ちた。
飛んできた方向を見ると、霧の中に何かの影が現れた。再び水をける音がし始めた。
今度は駆け足のようだ。杖を構えた。
濃い霧のせいで目の前まではっきりしない。
思ったよりそれは早く、目を凝らした途端に前に突然現れた。
汚れた白い鎧姿に背中の大剣。カミュだった。
彼女の無事を確認すると俺はため息が出た。それと同時に敵意むき出しの生き物でないことに安心した。
「イズミ、申し訳ないです。ついカッとなって勢い良く投げたら、あなたにぶつけてしまうところでした」
「大丈夫。無事で何より」
駆け足で戻ってきたのは、俺にぶつけそうになってしまって焦っていたようだ。
「それでこれは本体の一部です。思った通りカビは一部でしかないようです」
カミュは足元でうねうねと脈打つそれを足で起こした。その一部は切り口から黄緑色の液体を脈に合わせて出している。
「うわぁ、気持ち悪いわねぇ」とアンネリが杖でつんつんとつついている。刺激に反応したのか、先端部は縮こまるように丸まった。
「おそらく切り取られて逆上した本体が―――」
と言い終わる間もなく、地を這うような咆哮で遮られた。びりびりと空気を震わせるそれはあまりに大きく、大地まで揺らすかのようだった。
「来ましたね!」
正体を現したそれは水中に溜まっていたヘドロを根こそぎ巻き上げて、蛇のような体にまとわりつけている。そこからぼたぼたとヘドロが落ちると、体の表面が見え始めた。赤黒く襞の付いた背中、ピンク色をした腹を左右に振り、まっすぐ向かってくる。先ほどのカビとは違い動きも早く、そして明らかに俺たちへ敵意をむき出しだ。
「親玉か!?」
「いや一匹ではない!」
「二人は引き続き焼き払え!」
カミュは声を上げるとヘドロごと切り裂こうと立ち向かった。しかし、水に足を取られ歩みは遅く、安定しない足場では剣も満足に振るえない。バシャバシャと水をけり切りつけるも、決定打にはならなそうだ。
「ダメだ! 足場が安定しない! どうする!?」
「カミュは一旦退いてくれ! 俺たちは踏ん張らなくてもなんとかできる!」
カミュが横を通り後退したのを確認すると、俺はさきほどと同じ魔法を唱え、本体に向けてはなった。しかし、燃えはするものの大量のヘドロで阻まれ、炎が通っている感触がない。
「イズミ君、ちまちま焼いていては間に合わなそうだ!」
後退したはずのカミュが、すぐに戻ってきた。
「後ろにもいる! まずいぞ! 囲まれた!」
するとククーシュカはどこから取り出したのか、アルコールの瓶を開けた。
この状況下で飲もうとするのか。それとも諦めたのか。どちらでもいい。まずこの場を何とかしなければいけない。彼女のことは一度忘れよう。
しかし、彼女はそれを敵に投げつけ始めた。力強く投げられ、敵にあたると瓶は割れて中身が飛び散り、瞬く間に強烈なアルコールの匂いに包まれた。それを何十本も繰り返した後、俺のそばにきて「燃やして。すぐに」と囁いた。どれほど大量に撒いたのだろうか、あまりの濃さに目が染みるほどだ。揮発性の高いそれはすでに辺りに充満しており、火をつけたら一瞬で燃え広がる。それがククーシュカの狙いのようだ。しかし、周りが見えない状況でやって大丈夫なのだろうか。だが、もはや一点集中などと悠長なことは言っていられない。
「みんな、一か所に集まれ! アンネリ、そろったら耐爆耐火!」
メンバー全員を一か所に集め、アンネリに耐爆耐火魔法を指示した。そして、俺はできる限り強力に炎熱魔法を唱えた。すると放ったそばからアルコールは引火し爆発的に燃え上がった。湿度は高いが、本体やカビは燃えやすく、瞬時のアルコールの炎で一斉に火が付いた。
もともとの魔法の威力に合わせたアルコールの引火により、辺り一面見渡す限りが火の海になり、広大な面積を一度に燃やし尽くした。姿は霧に隠れて見にくいが、炎の中で本体が熱さに断末魔の雄叫びを上げ、巨体を振り回して暴れているようでどすんどすんと地鳴りがした。そして、それが次第に静かになり、火が落ち着くと視界が広がった。
「とりあえず切り抜けたか。カミュ、足に問題は?」
「問題ありません。とても臭いのが嫌ですが」
カミュは肘を上げ、確かめるように両腕を見ると、困ったように笑った。
「おっけ。大丈夫だな。臭いのと汚れはあとでなんとかするよ。なぁ、オージー、爆発の上昇気流でカビが辺りに飛び散らないか? 今更だが……」
顎に手を当てたオージーは前を向いたまま応えた。
「おそらく大丈夫だ。多少飛んでも季節柄の雨降りですぐ地上に落ちるだろう。それにこのカビはおそらくさっきのこけらみたいなもので、本体なしでは枯れてしまうのだろう。悪臭は広範囲にまで漂うのに、カビがこの沼以外に広がっていないと考えると、よそではびこるとは思えないよ」
「もう解除していいわね」
安心してため息をするアンネリが耐爆耐火魔法を解除すると、ちりちりとカビの残骸が風に舞って足元に来た。踏みつけるとさらさらと崩れて消えた。
「このまま作業を続けよう。本体はまだいるかもしれない。俺とオージー、アンネリの三人で魔法を中心的に使って駆除していく。レア、カミュ、ククーシュカは引き続き周辺警戒」
「あーごめん。イズミ。あたし、ちょっと気持ち悪いわ。休んでていい?」
アンネリは杖を支えにしてへなへなと跪いてしまった。額には脂汗をかいていて、息もだいぶ浅い。遮蔽性の高いマスクのせいで呼吸しにくくなったので余計に辛いのだろう。
「わかった。レア、アンネリについて安全圏まで後退してくれないか?」
「わかりました。申し訳ないですが、私も相性が悪いです。後退して待機しています。安全圏に出次第、連絡します」
そういうとレアはアンネリを担いだ。自分よりもはるかに小さな女の子に持ち上げられたアンネリはうわわ、と驚くと、鞄の上の座りがいいところに載せられおとなしくなった。
「オージー、悪いな。一緒にいたいかもしれないが君はいないと困るんで残ってくれ」
「ああ、構わない」
しばらくしてレアが安全域まで後退したことの合図を確認すると、俺たちは作業を再開した。
どうやら本体とカビたちはちまちまと一点集中ではなく、広範囲に火を回すほうが効果的なようだ。オージーに範囲指定の拡大と威力増大を指示した。
ククーシュカにアルコールは残っているかと尋ねると、無言で首を左右に振った。何か攻撃手段はあるのかと聞くと、大丈夫と囁いた。いつもどこからか出してくる武器に有効なものがあるのだろう。カミュのジュワイユーズに炎熱系のエンチャント―――叩くだけでなく切れ味も自慢な刃物を温めるのはかなり抵抗があるが―――をして、彼女とともに周囲の警戒にあたらせた。
それからも別の個体が現れたりもしたが、弱点を抑えたので苦戦することはなかった。焼却作業は順調に進みだし、終わるのも時間の問題だろうと思った。
しかし、事件は昼過ぎに起こった。
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