コウノトリは白南風に翔る 最終話
「あーれ? また来たの? もう来なくてもいいと思うんだけど。というかさ。オージーもなんで来させるの? 自分の女のこと大事じゃないの?」
昨夜遅くに集合場所は職業会館のボード前という、人が多いところに急遽変更になった。
朝になりそこへメンバーが集まると、おはよう、の前にシバサキの口撃は始まった。不参加の連絡をしてきたワタベの考え方ならこれはきっとごあいさつなのだろう。
そして、人目の付くところへわざわざメンバー全員集めてから言い出すあたり、シバサキなりの当てつけなのだろう。オージー、アンネリの二人の眉間にしわが寄よるのを見ると、眉毛をまげて片方の口角を挙げている。腕は組まずに腰に手を当てて、まるで威嚇しているようだ。
突然、表情が変わった。何かを閃いたかのような顔になり、手のひらをポンと叩いた。
「あ、そうか。わかった。君が本当の父親じゃないんだね。この遊んでそうな女が誰のかわからない子ども妊娠したからどうでもいいと思ってるんだね。わかった。わかった」
シバサキは笑顔になり、依頼ボードを見始めた。何を考えて生きれば、そんなことが言えるのだろうか。昔バイト先の女の子にされたことがそこまで歪めてしまったのだろうか。そして、これを思いやりだとかいう奴は本当にどうかしているとしか思えない。その奴が言った通り、確かにこれはハラスメントではない。もはや言葉による暴行事件だろう。
鼻歌交じりにボードを見るシバサキはある依頼の紙を見ている。
妙な気分だ。なぜか心が波風を立てていない。
目の前のシバサキの行いに俺は何も思わなかった。
まるで、霧が深く波のない湖の畔のベンチにいるような気持ちだ。
今ならその後ろ姿をザックリといけるのではないだろうか。
しかし、こいつは仮にでも勇者だ。戦いも一般人よりはできる。
だが、俺よりはすでに弱い。
俺の杖は耐熱性だ。それもかなりの。
杖の先端を鉄でも溶かせるくらいの超高温にでもして、一突きすれば造作もなく始末できる。
さながらヒートカッターのように。
―――殺っちゃえ
そう頭の中に響いたときには、俺は杖を掴んでいた。
手には力がこもり、じりじりと音がするほど強くに掴んでいた。
手の中の杖の感触はひんやりとしていて、ただの木の棒のように静けさを湛えている。その一方で、杖先から白い湯気がわずかに立ち始めていた。
いや、ダメだ。背後からなんてやってはダメだ。
隙を狙うのは卑怯とかそういう問題ではない。手にかけるなら正面切ってぶちのめさなければ、これまでの行いの数々を噛み締めるように後悔させられない。
それにこんな小悪党を殺して犯罪者になるなどみみっち過ぎる。
何を考えていたんだ。そう思うと鼓膜に心臓があるかのように自分の動悸が響いた。
俺は操られていたかのような手を抑え、杖から手を離した。
「今日はこの依頼を受けよう。難易度高いから大変かもしれないなぁ」
シバサキはボードに貼られた一枚の紙をはがした。それを動悸の治まらない俺に押し付けると「じゃ受付してくるわ」と言って受付へ向かっていった。押し付けられてしわくちゃの紙を見た。
依頼の内容は魔物の退治と清掃作業。
ノルデンヴィズの町から北東方向に行った窪地に沼があるそうだ。沼地の管理人がいなくなり放置されて、何かが棲み着いて環境が悪化し、最近では瘴気が出るようになったそうだ。注意事項は、瘴気は毒性が強く、長時間の作業は禁止、短時間でも解毒を必要とする。保証は最低限のものしかされていないが、その分報酬は破格だ。体力のない人は最低限の保証すら対象外だ。
以前カトウを実験台にしたおかげで俺は解毒魔法を習得しもはや自家薬籠中の物で、その点には問題ない。
しかし、気になることはある。アンネリだ。
体力が落ちているのは目に見えてわかる。精神的にも追いやられているはずだ。まだ日常に支障はきたしていないが、この内容に耐えうるだけの体力はあるのか心配だ。そして、一分一秒体を作り続けている彼女の胎児への、一瞬でも吸ってしまった瘴気のもたらす悪影響が心配だ。
依頼の紙を読んでいた俺の顔はちらりとアンネリのほうを見てしまった。目が合うと彼女は言った。
「なによ? あたしなら大丈夫よ。つわりは基本的に夜がひどいから昼はマシなほうよ。匂いも食べ物でなければなんかダイジョブっぽいし」
「……わかった。何かあれば、ありそうな気がしたら早めにいうこと。俺でもオージーでもカミュでもレアでも。シバサキ以外なら誰でも」
つわりで彼女がつらいことも心配だが、それ以上に俺は子どもが心配だ。しかし、彼女はなにがなんでもついてくるだろう。止めないと決めたのだ。もはや何も言うまい。何も起きないというのはもう不可能だ。何か起きたときは全力になるしかない。
ラウンジの椅子に掛けて待っていると、依頼を引き受けたシバサキが戻ってきた。彼の手には一人分のマスクとゴーグルが握られていた。早く行こう、時間がもったいないと残りのメンバーを急かしていると、背後から慌てた様子の会館職員が追いかけてきた。そして、残り全員分のマスクとゴーグルを渡してきた。俺とオージーがそれら受け取った。そのときにはすでにシバサキは外に出ていた。
菌に感染した傷の、化膿した傷の放つ匂いを嗅いだことがあるだろうか。営業が終わったあとの魚市場の外で嗅ぐような、あの匂いだ。到着する少し前からそんな匂いがし始めて、沼地に近づくほどに強くなり、鼻が取れるかと思うほどきつくなっていった。
「ぇぷ、あーすまん。僕はタバコを吸って後から追いつく」
とシバサキは離脱すると横の森の中へと消えた。
もはやタバコがエスケープのサインだ。いつ逃げ出すかと思っていたが、目的地に着く前とは思いもしなかった。
それに対して誰も何か言ったり、立ち止まって見向きしたりせず彼をどんどん引き離し置いていった。
進むにつれ濃くなっていく匂いは耐え難いものになり、俺たちは渡されていたマスクとゴーグルを装着した。タダのわりに質がいいようで、息がしづらいことを除けば、目に染みるような悪臭をだいぶましにしてくれた。
危険域を示す髑髏の描いてある看板を超えると緩やかな坂になり、さらに進んで到着した沼地には濃い霧が立ち込めていた。匂いは思った通り、沼の放つ瘴気のものだった。渡されていたマスク越しにでもわかるほどの匂いだ。
空気で膨らませたかのように均等な丸い球がいくつも連なり、房の過剰なブドウのようであったり、巨大な野イチゴのようであったり、それぞれに小さな毛がたくさん生えていてまる。木を犯すほどに実りすぎた果実を見ると怖く感じる、あれと同じだ。それを取り巻くように地面はカビのようなもので満たされていた。
白く縁どられ緑の筋が入っていて、その筋は中心にいくほど集まり、老緑色の一塊になっていた。いくつも手繰り寄せられて皺を作り、昔動物の解剖実習で見た脳みそを彷彿とさせた。まるで狂った果実に脳みそが群がり、食そうとしているかのようだ。
それらは破裂して霧を生み出すと親はしぼみ、伴って排出された何かを吹く風に乗せ、ふわふわと宙を舞わせていた。風に任せるだけで動きのないように見えていたそれらはわずかに脈打ち、そろわない脈はそれぞれ個々の生命であるという主張のようだった。その毒々しいながらも色とりどりの世界は、不自然なまでに整い破滅の色合いを湛えていて美しくも見えた。
「ここまでひどいと他の生物はおそらく生きてはいないだろうね。燃や尽くしてしまうのがいいような気もするが……」
マスク越しのオージーくぐもった声が聞こえた。
「そうだな。本来の植生は全滅だな。窪地で溜まりやすいんだろう。あまり長居はしたくないな。ただ、周りに何があるかはっきりしない。何かを巻き込むわけにはいかないから、高火力一点集中で少しずつやるしかない。霧の原因もおそらくあのカビだ。ある程度燃やせば霧も晴れるはずだ。オージー、強化と範囲限定頼む。カミュ、レア、ククーシュカ、見えない周囲警戒して。アンネリはそのサポート。無理無い範囲で」
あと二人のうち一人は五メートルぐらいのタバコ吸ってんだろ。もう一人は欠席。クソが。
考え出すと荒む心を落ち着かせて俺は魔法を唱え、オージ―はサポートに入った。試し打ちのようにそれらの一部に火を放つと、熱さに悶えるように機敏に動き出してのたうち回り、次第に動かなくなりちりちりと燃えてぼろぼろと崩れていった。効果を確認した俺はオージーに目配せをしてお互いに頷くと、焼却作業を始めた。そして、少しずつ、少しずつカビを燃やし、霧を晴れさせていった。
半径20メートルほど焼き尽くすと、すぐ手前も見にくくなるほど濃かった霧も薄くなり視界がある程度開けてきた。窪地にあるその沼は大きくはないので、終わらせるべく作業のペースを上げた。しかし、報酬はそれなりにある依頼なだけあって、簡単には終わらなかった。
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