黄金蠱毒 第百三話
クライナ・シーニャトチカの廃屋群は今日も冷たく乾燥している。
晴れているか、曇っているかのどちらかがほとんどであり、ラド・デル・マルのしつこい雨やノルデンヴィズの季節いっぱい溶けない雪が恋しい。
しかし、今日は風さえも穏やかで、顔や手首など露出している少ない部分に吹き付けて隙間に入り込むようにして体温や水分を奪うような感覚は厳しくなく過ごしやすい――はずだった。先ほどの一件さえ無ければ。
冷たい風と入り込む砂の不愉快な感覚が無いと、かえってエルメンガルトのあんぐり口を開けた呆れかえった顔を何度も思い出してしまうのだ。
「参りましたね」
とぼとぼと歩きながら家路に就いていると、アニエスがぽつりとつぶやいた。左を歩いていたアニエスの顔を覗くと遠くを見ていた。
「彼が出てくると、毎回毎回しょーもないことで話が滞る気がするんだよなぁ。
なんだか、戦争だの独立だので騒いで走り回ってる自分が一人でできあがってるだけみたいでバカみたいだよ……」
とはいえ、この間のセシリア誘拐は“しょーもないこと”では済まされない。
引用としては正しくないかもしれないが、その一つを頂点とするとハインリッヒの法則でその約三百倍の“しょーもないこと”があるのだ。
下手をすれば、災害トライアングルには見えていないさらに下も存在するかもしれない。
俯きがちの首がさらに下を向いてしまった。足下に見えた石ころを蹴ると二、三度跳ねてすぐに視界から消えていった。
「先生がまた歌の翻訳してくださるのを待つしかないんですかね? 前向きに考えれば可能性が消えたわけではないですし」
「今んとこ、それしかないのかな。他に方法があるとも思うけど、俺たちは別に焦ってはいないからね」
二人でため息をこぼすと、間を歩いていたセシリアが握っていた左手をぐいぐい引っ張ってきた。
彼女の方へ振り向くと、眉と口をへの字に曲げて微かに震わせながら今にも泣いてしまいそうな顔で見上げてきた。
「私がお歌をわすれてるのが、いけないの?」
「ううん、大丈夫。そんなことはないよ。確かにみんなはセシリアが思い出してくれることに期待してるよ。
でも、今いきなりってわけじゃない。いずれ思い出せればいい。ゆっくりゆっくり時間をかけてね。君はこれからまだまだ長いんだから。
エルメンガルト先生もセシリアが思い出さなくても大丈夫なようにしてくれてるんだよ。無理に思い出すことよりも、まずは先生にいっぱい感謝しなきゃね」
屈んで目線を合わせると万歳と両手を挙げてきた。いつもの抱っこの合図だ。
彼女を抱き寄せるようにして抱き上げると、いつもの定位置に収まるように腕の中に尻を押し込んで首に手を巻き付けた。
少し寒かったのだろうか。身体が冷えきっている。首元にマフラーを押し込むようにするとくすぐったそうな顔をした。