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コウノトリは白南風に翔る 第六話

 二人はまだ休んだり、辞めたりはしない。俺も休みを強要しないことにした。


 大学にいたころ、上司にあたる女性の先生がいた。その人は俺の指導者であり、実験に失敗したくらいでは怒らず笑い飛ばしてくれるほど気さくな人だった。頭もよく無駄な実験は一切行わないが結果を出せる人で、俺はその人から実験のノウハウについてすべて教えてもらった。失敗したときはご飯に連れて行ってもらい慰めてもらうこともあった。

 そのときに、靴下を三日履き続けるとか、フライパンを洗剤で洗ったとか旦那の愚痴を時々言っていた。その話もただ鬱々と話すのではなく面白おかしく話していた。ただの指導者として慕っていただけにとどまらず、話しかけやすい人柄なので遠慮なく話せる上司の一人でもあった。


 いつか時間に余裕ができたとき、お昼休みにカレーを食べに連れて行ってもらったときのことだ。その人は、ついに子どもできた、二か月だよと、カレーを食べながら嬉しそうに報告してきた。

 そのときに、八か月まで産休は取らないと言っていた。それまでに君を私の代わりとして育ててあげる! と意気込んでいた。でも出産後はどうするかはよくわからないと言っていた。

 職場でボスはその人に対しても当たりが強く、別の職場の話や生まれてくる子どもの将来についてこのままでは厳しいかもしれないと口にしていた。珍しく迷いのある話に俺はアドバイスを何もできなかった。仮に何かアドバイスになりうることを思いつていたとしても何も言えなかったと思う。俺がまともに言えたのはカレーをおごってもらったお礼くらいだった。


 それからも日は経ち、俺は不安をいだきながらも期待に応えるべく必死になり、その人から様々なことを教わっていった。痩せ型の体形だったが、五か月を過ぎたあたりからどんどん大きくなっていった。

 だいぶ大きくなってからやっと俺は実験のお墨付きをいただき、実験を引き継ぐことができた。その人にだいぶ負担をかけたに違いない。そして産休間近になり講座にボスの怒鳴り声が響いた後、産休へと入っていった。

 その後しばらくして俺は事故で死んでこっちに来た。無責任かもしれないが実験はどうなるか、知る由もない。もうとっくにあの人の産休も明けているはずだ。復帰はしたのかはわからない。おそらくは。


 と、結論を先送りにする理由を見つけだして自分を納得させた。少なくとも八か月までは何とか延ばした。

 大学の学部生の時に講義で教わったが、妊娠何週目の数え方は少しややこしかった気もする。つわりがひどいということはまだ二か月かその前後だろう。あまり細かいことは考えないで年末あたりまでは参加するつもりだろう。




 休憩時間も終わり、だらだらと依頼をこなしてその日は解散の時間になった。

 雨は小雨になっていたが相変わらず降り続いていた。その日はこれまでにないほどにチームの雰囲気は悪く―――日々悪化しているから必然なのだが―――、解散の合図もなしに終わった。誰かを食事に誘う気にもなれず、俺はどこかで一人済まして帰ることにした。


 職業会館の金属製のドアは重く冷たく、ゆっくり開けると軋む音がした。薄暗い空を見上げても雨粒は見えない。軒先に立つとぱちぱちと土を打つ音だけが聞こえる。少し蒸れた匂いのする街はすっかり夜を迎えていて、街の明かりが煌々とついている。

 降る雨は街の窓から明かりだけを頼りに白く光り、明かりから外れると再び消えていく。そして見えなくなって水たまり落ちるとそこに写る街並みを揺らした。使い込んだこうもり傘を下に向けて広げようとした時だ。誰かに俺は肩をがっしりとつかまれ引き止められた。そして、そのまま力づくでぐいぐいと引っ張られ、閉まり始めていたドアの中に引き込まれて横にあるスペースへ連れていかれた。誰かの手かと思えばワタベのものだった。


 まだ濡れていない開きかけの傘をたたみながら、何か用か、と尋ねる前にワタベは無表情で目を見開きながら話し始めた。


「突然すまないね。大事な話がある。さっきの話を聞いていたけど、イズミ君、君のしたことは立派なマタハラだよ。日本から来たならわかるだろうけど、普通の会社ならすぐに大問題になる。最悪解雇になってしまうよ」


 いきなり言われたことに理解が遅れたが、どうやらワタベは先ほど二人と話していた内容を聞いていたようだ。近くにはいなかったがどうやって聞いたのだろうか。だがそれよりも、マタハラという言葉が耳に残り、鼓動が速くなりうなじの毛がこわばるのを感じた。


「若い連中が集まってこそこそ話すなどろくな内容なわけがない。何か問題を起こされる前にそういうのは把握して先手を打つのが管理する人間の義務だよ」


 つまり盗み聞きをしていたということだ。体が火照るような感じがして、視線が鋭くなってしまった。

するとワタベは目を丸くして見つめ返してきた。


「なんだね? まるで盗み聞きなどするわしが悪党だとでも言いたいのかね。最近の若いのはすぐ被害者になろうとするんだから。仕方ない。君たちがそういうのであるならばわしは必要悪だよ。誰かが嫌われてでも言わなければいけないからね……。ふぅーん……」


 哀愁漂う顔をしてため息をこぼした。そして構わず話をつづけた。


「さて、わしはね。日本にいたころ、とある会社に勤めていてね。古い体質の残る組織で、そういうのを見る機会が非常に多かったのだよ。言われた側は非常に傷ついて、辞めてしまう人も中にはいた。対策する組織に所属していたわけではないし、何かしてきたわけではない。だが、イズミ君、繰り返すけど君の行為は無視することはできないのはだれが見ても明らかだよ。すぐに対応しなければいけない。だがあいにくここは小さな組織で会社のように大きくないから対策委員会のようなものがなくて対応がかえって遅れてしまう。それは非常に問題だ。あの若い錬金術師の二人は相当怒っている様子だよ。このままではチームの存亡にかかわる。君も嫌だろう? 自分のせいでチームが分裂してしまうなんて。だから、すぐにできる対応として当事者を集めて話し合いの場を設けることにするよ。こういうのはきっとどこのチームにはあるはずだ。大丈夫、君だけに限った話ではない。各チームでそれぞれ対応するのは不可能だから、町の職業会館単位ぐらいで対策委員会を設けたほうがいいと思うんだがね。それがないのはかわいそうだが、君は実に運がいい。こうして目の当たりにしてきた人間が素早く気づくことができたのだから」


 目を細めて悲しげな微笑みを投げかけてきた。そして感慨深そうに深くうなずいた。

 ワタベの中でアンネリの話は少し前の段階であらぬ方向へ分岐して勝手に進み、当事者たちを置き去りにして自分の思い込みの世界となっている。俺と二人の間で、結論は出ていないにせよ、明言は避けたがもう少し様子を見るという方向で話にはひと段落が付いたはずだ。ここでまた当事者を集めて話し合いをするとますますよくわからない方向へ進んでしまう。


「あの、一応話はまとまったんですが」

「うん、うん、そうだね。では具体的にいつ行うかは錬金術師二人にも話を聞いてわしのほうで日程は調整するよ。イズミ君は待っていてくれたまえ。わしにすべてを任せればきっと大丈夫だから。夜にでも連絡をするよ。色々あったみたいだから今日は疲れただろう? もう帰りたまえ」


 話を聞いている様子はなく、俺の背中をドアのほうへそっと押した。俺はつまずきドアに手をついた。もう一度ワタベに状況を説明しようと体勢を直して振り返るとその姿はすでになかった。


 これまで何もしなかった、それにチームでの活動への参加の機会が明らかに少なくなったワタベがなぜいきなり動き出したのだろうか。その理由に見当が付かない。

 俺はシバサキとワタベのことについてわからないことが多すぎる。俺が悪いのか、それともその二人が思い付きで動いているのか。


 そして、アンネリ、オージーとの話し合いについてどうしたらいいものか。


 時報の鐘が鳴る職業会館のラウンジの一角で呆然と立ち尽くしてしまった。

読んでいただきありがとうございました。

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