コウノトリは白南風に翔る 第一話
「というわけで、カトウくんやめました」
「はーい。向いてなかったんじゃないの?」
女神は向かいのソファで胡坐をかいて、タブレットをいじり始めた。どこかで落としたのか、液晶の右下のほうにひびが入っている。自らの人差し指を目で追いかけて入力をし始めた。
「えー、さんじゅう、あんたんとこ、いくつだっけ、のカトウ、離脱、と」
ちらりとこちらに視線だけを向けた。だが、何かを思い出したのか、顔を上げて続けた。
「あ、そうそう、チームの吸収合併だけど、合併されたほうがリーダーを直接言い渡さないと最終的な移管手続きは終わらないから。ま、形だけだけど。あー、この話は別にいいか……」
そしてタブレットに顔を戻した。
「37班です。向いてないわけじゃないと思いますよ。弓兵としては優秀でしたし。道具にいたずらされていなければ普通に援護できていましたし。料理が得意みたいで、いずれお店を持ちたいそうです。弓術より天才的でしたからね。なんか支援してあげてくださいよー」
そんなことをしたら明らかに不平等なので冗談めかした。すると女神は画面をのぞき込んだままスワイプをして、ぼそぼそと応えた。
「やっぱ、金かねぇ……。あ、ダジャレじゃないわよ」
カトウ離脱の入力が終わったのか、視線を左から右に動かして内容を確認をすると、タブレットを胸の谷間にしまった。そして、下唇に人差し指を当て天を見上げ何かを考えはじめた。
「んー……、考えとく。あんたら以外に直接に何かあげるのはコンプライアンス的にアレだから、セレンディピティ的な何かを」
冗談のつもりで言ったのだが、女神は意外にも真に受けた。
「そっすか。チャンス的なものはやるから自分で何とかしろ的な話ですね」
まだ湯気の立つお茶を一口ふくんだ。よく見れば茶柱が立っている。
女神は倒れていた神々しいヒールを足の親指と人差し指で器用につまんで起こした。その時スカートの隙間から内腿が見えそうになった。そして踵に絆創膏が貼ってある足首をするりといれ立ち上がると肩を伸ばし、大きくあいた胸元から服の中に手を突っ込んで何かの位置を直している。目のやり場に困る仕草に俺は湯呑に視線を逃がした。
「あ、いまパンツ見えた?」
いまさらスカートを抑えるも表情もなくあっけらかんと聞いてくるのがなんとも不愉快だ。本能でそこに目が行ってしまう自分に対する憤りがすさまじい。舌を噛んでしまいたい。
「エグいもん晒さないでください。そんなことより、例の件、まだわからないんですか?裏が取れないんですか?」
「ごめんね、イズミくん。もうちょっとなのよ。だから、もう少しだけ、ね?」
「もうチームは完全空中分解状態ですよ。早くしてください」
貧乏ゆすりのつもりではないのだが、膝がかくかく少し揺れてしまった。
「あー、もう。マジ本当にごめんって。そんなイライラしないでよ。でもありがとね。今度、ビルの焼肉屋の上の方に連れてってあげるから、ね?」
「どうせならフグかウナギがいいです」
「あんたに選択権無いから。ジビエは? たっかいワインしこたま飲ましたげる」
ジビエ、か。鹿、イノシシ、鳩……、悪くない。おそらく女神が食べたいだけだろう。
目についたシャツの袖口のほつれが気になり、引っ張ると五センチほど糸が出て切れた。
そういえば、ジビエってアヒルも食べるんだよな、とふと思い出した。正確にはカモを家禽化したやつだったはず。なぎさと一度行った都内のロシア料理屋で、ジビエと称してアヒル料理が出てきたことがあった。ソースにバルサミコ酢を入れすぎなのか少しすっぱかったことと、国籍のことを除けば、よく焼けて茶色がかっていた皮の下は脂身もしっかりとあり、多少すっぱいがベリーソースとの相性はよく、コンフィのようでおいしかった。割と好き嫌いの多いなぎさが骨だけにしていたのはずっと印象に残っている。
アヒルと言えば、オージーとアンネリはかつてエイプルトンのシンボルである白鳥をアヒルに変えてイタズラしていたという話も思い出してしまった。二人が喜々として語った卒業式の『白鳥の糞事件』とつながっていて、強烈に脳裏に焼き付き、何かの拍子に記憶を呼び覚ますのだ。
先日、カトウに会いに行けと俺の背中を押してくれたその二人とのもめ事はまだ完全に片付いたわけではない。それのせいか、何を考えても二人のことへと気持ちが結びついてしまい、女神の誘いにもどうも心が逸らない。
残っていたお茶をすべて飲み干した。ぬるくなるとまずくなるのはコーヒーと同じようだ。みじめに底にへばりついている茶柱を見ながらこれまでを思い出だした。
雨季の真っただ中、カトウが来なくなって三日ほど経った日までさかのぼる。人の気持ちなど全く知らないはずの空模様が、そのときばかりは落ち込んでいるのを悟り、さらに心を追い詰めようとしているかさめざめと雨を執拗に降らせていた。
まだカトウと話をつけていなかったので、俺もカトウもお互いに宙ぶらりんで安定していなかった。
雨の朝で、前の日に比べて雨脚はだいぶ強まっていた。屋外に座席が並ぶことが少なくなったカフェの軒先テントを揺らし、たまった雨水はあふれ重なり合い地面に落ちるとバタバタと音を立てしぶきをあげていた。そして連日の雨で広場にできた小さな川に勢いよく水を足している。
集合場所に全員がそろうのがいつもよりも遅かった。やはり雨降りだと足取りは重くなる。普段であればおよそ五分前には揃い、朝のお話が始まるのだが、そのときはみな集合時間ぴったりに集まった。俺が着いたとき、いつもの角材は雨除けで覆われていたので、カフェのテントの下で腕を組み片足で地面をトントン叩くシバサキの姿が見えた。
「おい! 錬金術師二人! ちょっとこっち来い!」
全員が集まった頃、降りしきる雨のなか、音に紛れないほどの声でシバサキは唐突にオージーとアンネリを呼びつけた。
何が起きたのだろうか。呼ばれたのは俺ではない。シバサキのほうをみると、傘を差した二人がはすでに彼の前にいた。カミュやレアもその日は何かが違うのを察したのか、いつもの、ああ始まった、という表情ではなく、怪訝そうにそちらを見ている。シバサキはカフェの片付けられている椅子を一つ持ち出すと腰かけた。そこはテントの内側であり雨にあたることはない。しかし、そこでは呼び出された二人はテントの外に立つしかできない位置だ。
「これまでお前たちは少し甘やかし過ぎた。リーダーである僕に対する態度があまりにもひどすぎる。これからは厳しくする必要性があることを非常に強く、強く感じた」
とシバサキは顎を引き二人を脅すように言った。無表情でシバサキを見つめる二人から返事がないことに彼のボルテージは上がった! となるだろうと俺は思った。
「人の話を聞いているのに傘を差しながらとは何事だ! そういうところから教えなければいけないのか! それもわからないのか、社会人。まずこういう風に椅子を準備するのもお前たち若手のすることなんだよ。上に立つ人がこれから話をするんだからそれくらい察するのは当たり前なんだ! 社会人だろ? お前たちは!?」
案の定、彼は顔をパンパンに膨らませて怒鳴り声をあげた。雨はかなり強いのだが、少し離れたところにいる俺にまで声がしっかり聞こえる。よく通る声質もあるのだろうか、相変わらず騒がしい雨音に阻まれることのない声量だ。
最初、俺がまだ魔法使いだったころ、その時と比べて彼の攻撃性が上がっているような気がする。正確にはわからないが、俺が来てから二、三年だ。そう考えると彼ももう50手前になるだろう。認知機能の低下にはまだ早い気もするが、若年性のものもある。それか、前頭葉の虚血が起こると性格が攻撃的になるとどこかで聞いたことがある。突然脳梗塞を起こしていきなり倒れられても色々と困る。少し心配になり、様子をうかがった。
「そうですか。気を付けます」
「終わり? それならもう依頼受けに行きませんか?」
オージーは目を細めて礼儀正しくにっこり笑い、アンネリはシバサキのはるか後方の無限遠の焦点を見ている。さっくりと言われた言葉を受け流した。まるで動じない。というよりは何も感じていないようだ。
二人が怒られることはアンネリの体調のこともあり心配だったが、そうなるだろうという予想はついていた。無理もない。
なにせ、この二人は、名門校エイプルトン前代未聞の悪童の烙印である鈎嘴を持ち、そして言葉の鞭を持つグリューネバルトの愛弟子だ。これまでどれだけ怒られてきただろうか。怒られ慣れているわけではないが、中身の聞き分けができるのだろう。シバサキの言葉は中身のないただの八つ当たりであり意味がないことを肌で感じているのだろう。よほど不快なことでも言わなければこの二人は動じない。
その態度に圧倒されたのか、シバサキは、えっ、あっ、と泡を食っていた。俺やカトウのように真に受けてしおしおと落ち込んだり不貞腐れたりしてほしかったのだろう。そのほうが強く言い続け易い。自分の言葉に自らを炎上させるシバサキの怒り方では、このような反応をされると拍子抜けしてしまうはずだ。
最初の恫喝で強気に出て、萎れたところをそのまま勢いで抑え込もうとしていたシバサキは、目には見えていても確かな叱り心地が得られず、まるで煙に向かって剣を振り回しているような気持ちなのだろう。
その後も、あー、や、えー、と途切れ途切れに何かを言い続けていたが、本人も自分の言いたいことがいまいちはっきりさせられなくなっていくようで、しゃべり続ければ続けるほど居心地が悪そうになっていった。最後には言葉選びに詰まるようになり、その日の説教は一時間ほどで終わった。
俺とカトウ以外の誰かが何かを言われるという点を除き、大していつもと変わらないその日の朝の出来事は何を意味するか。それはシバサキのターゲットが変わったことを意味していた。
そしてその矛先が二人に向かうのは仕方ないのかもしれない。カトウはいない。カミュ、レアにはもとから強く出られない。俺は反応がワンパターンなのか最近飽きられ始めている。ククーシュカは何を言っても無視。
となると残るのはこの二人しかいない。
カトウがいれば、カトウさえいればこの二人が狙われることはなかった。カトウを避雷針のような役割をしていたのでこれまではほかの若手が怒られずに済んでいた。カトウが我慢して居続ければ被害はほかに及ばなかったはずだ。カトウめ、自分の都合で辞めやがって許さぬ。カトウが、カトウが。
と残された若手がそういう風に考えるのは間違いだ。都合の如何にせよいなくなった人間をそれまで起きてきた諍いや失敗の根源のように仕立て上げ、あいつがいたから○○だった、と責めることで辞めさせ辛くしマイナスの意味合いで結束を強める奴隷教育は閉鎖的な組織でよくある。
ある種の個人事業主のような、リーダーが勇者など圧倒的な力を持つ人間が率いる組織は特に閉鎖的になりがちだ。しかし、少なくとも俺の中でカトウは悪ではないと思う以上、浸透していなかったようだ。
問題は目に見えて明らかで、にわとりのつつき順位のように誰かをいじめなければ、自分の立場を確かめられない、保てないシバサキ本人だ。
だが、このときばかりはどうもターゲットを間違えたようだ。
その日以降、俺も怒られることが目に見えて減った。カトウの件で落ち込んでいた俺にはそれがある意味救いではあった。その代わり、二人はシバサキからいろいろと言われるようになった。
しかし、何か言われると、それに反論するでもなく従うでもなく、そうですか、と笑顔で対処していく。
シバサキはそれでも怒りたいらしく、毎日躍起になっていた。そして肩透かしを食らい、自分でも何を言ったらいいのかわからなくなって話をやめてしまうのを繰り返している。
以前のようにキレ散らして、僕はもう知らん、の流れにすら持ち込めないのだ。おそらくではあるが、されればされるほど彼の中の意地がむくむくと大きくなっているのだろう。諦めずあの手この手で二人を追い詰めようとしているようだった。
読んでいただきありがとうございました。