強欲な取引 第三十四話
“レッドヘックス・ジーシャス計画”のために、マルタンでは大きな混乱が継続して起きていなければいけない。
マルタンはもともとはユニオンであったが亡命政府の支持を連盟政府が行ったことで商会が優位になっていた。しかし、最近はカルデロンの勢力も押し返しつつあるのはそういうことだったようだ。
三機関の中で唯一マルタンについては中立性を表明していた金融協会がユニオンの証券取引事業に大きく加担している状況が今後継続するとなると、カルデロンを通じてマルタンでのユニオンの優位性が元通りに高くなってしまう。
元に戻っていくようでは計画がうまくいかなくなると踏んだ商会は、混乱を招く為になりふり構わなくなるだろう。
その計画に必要な混乱を招く為だけに商会が予備として準備していたある緊急指令が実行に移されれば、おそらく取り返しが付かなくなる。
招かれた混乱によりレッドヘックス・ジーシャス計画は予定通りに進むかもしれないが、そのためだけにとどまらず未来永劫爪痕を残すことになる。
「でも、静かだろうが何だろうが、私ら共和国としてはマルタンの亡命政府は帝政ルーアの亡霊。
思想を蝕むソイツらは、ただ胆の冷える幽霊なんかではなく、確実に排すべき悪霊。
“根元から徹底的に”ぶっ潰さなければ気が済まないんでね」
ユリナさんの言葉はどこか含みを持たせるようにも聞こえた。それが何を意味するかは私には分からない。
だが、共和国はいずれ亡命政府への介入をするのは間違いない。それも軍事的なもののようだ。
ならばマルタンでの混乱はいずれ起こる。そして、おそらく緊急指令は回避できる。
問題があるとすれば、そのタイミングが今はまだ読めないと言うことだ。クロエの話を私は待つしか出来ないのだ。
今度こそ失敗は許されない。下唇を噛みしめると鉄の味が口に広がり、その味に心拍が上がるような気がした。
「あー、なんか、すまんな。ますますお前ら追い詰めちまったな。全然いい話でも何でも無かったわ」
ユリナさんは右手を上げるとひらひら動かした。
そして、ハンドバッグを持ち上げると「とりあえず話は済んだし、私は帰るわ。移動魔法はお前さんの見えないところで使わせて貰うよ」と口角を上げて小さく笑うとソファから立ち上がった。
移動魔法のマジックアイテムを持つこの人も、かのシグルズ指令の対象者。だが、誰も手出しが出来ない。
下手に出そうものなら何百倍にして返されるからだ。放置した場合のリスクを上回る例外中の例外。
だが、もはやシグルズ指令のことなど忘れてしまいそうなほどどうでもいい。それ以上の事態が起きている、起こると思って良いだろう。
「じゃ、書類は改めて送るぜ。お前さん、クライナ・シーニャトチカに来るのは高頻度不定期だったか? 私がづかづか出向くわけに行かないだろうし、なんならイズミをパシろうと思うんだが」
「構いません。お待ちしています」とそれ以上は特に何も言わなかった。
ユリナさんは両眉と肩を上げると背中を向けてドアの方へと歩いて行った。
私は何も出来ずに、彼女の背中を恨めしく見送ることしかできなかった。
しかし、ドアノブに手をかけたときだ。立ち止まると顔を上げて「あ、そうそう」と言うと、首だけを曲げて私の方を見た。
「あの歌、何つったっけ? ほら、ヒントになってるヤツ」
「白い山の歌ですか?」
「そうそう、それそれ、“ヘスカティースニャ”。なんか色々あるっぽいから、まぁ、北公に出し抜かれないようにせいぜい気ぃつけな」
「どういうことか、説明していただけますか?」
「さぁな、私もはっきりしてない。わかったら集会で報告してやっからあせんな」
ユリナさんは珍しくドアノブを回してドアを開けると出て行った。
「さて、戦争、戦争、戦争。くだらねぇ世の中だぜ。
そろそろバロウズみたいなのが生まれて、共和国にビートニクでも出てきちまいそうだなぁ。
さぁて、頭に血が上っちまってパツンパツンに膨れ上がった私の冬のジョニーたちを鎮めに行ってくるかなっと」
言い終わるよりも早くドアが閉まった。
ユリナさんが部屋を後にすると、いつまでもヒールの冷たい足音が聞こえ続けた。
廊下は長くないはずだが、その少ない歩数がいつまでも耳の奥で響いているような気がした。
それが心音に入れ替わりやがて私も落ち着きを取り戻した頃に音が消えると、ドアノブがカタカタと動き出した。
ユリナさんほどの勢いはないがやや乱暴さのあるドアの扱いはおそらく。




