弓兵さんはバズりたい 第十話
雨がいいなんて言うのは無理にでも前を向こうとしているような感じがして、あまり好きではない。雨具はかさばるし、それを使っていても体のどこかしらが濡れてしまう。気温が上がれば蒸すし、べたべたと体にまとわりつくのが不愉快だ。しかし、そのときは気持ちがいい雨の日だった。ざーっと降る、雨だ。
集合場所でシバサキにカトウと話をつけてくると言うと、適当なことを言ってサボるな、と言われた。彼の理論では、個人的なことでサボるのは言語道断で、深夜でも早朝でも空いている時間は無限にあるのだからその時間でやるのが常識だそうだ。
ちなみに、この常識おじさんは以前仕事を放っぽらかして個人的なことで連絡もせず失踪した。人差し指を立てながら常識を宣った後、いつも通り怒りだし喚き散らして、自らの言葉に自らの感情を炎上させ、いつかと同じように、もう僕は知らん、と投げ出すように言った。
これをまた放置してしまうといつかのように持て余すほどの癇癪をまき散らすのは目に見えているが、それについてはオージーがうまく取り合計らってくれた。
シバサキの視界に入らないところで、落ちていた手頃な空瓶をゆっくり拾い上げていたククーシュカの姿は見なかったことにしよう。
そして、昼前に抜けてカトウのところへ行く予定となったのだが、最終的に雨も強まるので全員丸一日休みと指示が出た。まるで南の島の大王のようだ。気が滅入るので朝の話はこれで終わりにしよう。
急にできてしまった午前中の余暇をどうやって過ごそうか、悩んだ挙句、俺はウミツバメ亭の営業開始時間までは家に戻りコーヒーを飲んで過ごすことにした。
家についてから自分で淹れたコーヒーはインクのような味がした。一口飲んで思わず舌をべっとしてしまった。コーヒーを片手に窓辺へ椅子を移動し、滲む街並みと曇天模様の空を見上げていると雨脚は予想通り強まっていった。
この中を出るのか、と気が滅入ってしまった。
ぬるくなりさらに苦くなってしまったコーヒーを窓枠に置き、ベッドに寝転んだ。行く時間は少し遅くして、しばらく寝てしまおうか、と思ったがここで寝てしまうといつの間にか夕方になってしまうような気がした。最悪そのまま朝焼けを拝むかもしれない。
それはだめだ。
俺は体を起こし、ベッドに横になって皺の寄った服をさっと直した。鏡の前に立ち、軽く顔をたたいて気合を入れた。連絡用のマジックアイテムを見ると、「あんたちゃんと後輩君のところ行きなさいよ!」とメッセージが着ていた。なんだかんだと言っておきながらしっかり心配しているあたり、アンネリは俺よりいい先輩ができている。カミュからは「私も行きましょうか?」と着ていたが、あまりにも彼女頼みにし過ぎていて示しがつかないような気がしないでもないので断った。足元に水たまりのできていた黒い傘を持ち上げて、ドアを開けた。
広場につながるメインストリートの馬車道をまっすぐ進み、何個目かの角を右に曲がると石畳の道になる。その辺りは割とおしゃれな雰囲気のある飲食店街だ。しばらく歩くと小ぢんまりした建物が見えてくる。周りの建物とはそれほど差のないハーフティンバー様式(とカトウが言っていた)の二階建て。煙突からは白い煙が少しだけ上っている。オープンまであとわずかなのか、まだ生っぽいにおいが外に漏れてきている。
最近、ノルデンヴィズである店が話題になっている。その名はウミツバメ亭。
店の前に看板が出ていた。これは以前にはなかったものだ。
"某腎者推蔦!話題駅然のグラタンの店 おいでませ!ウミツバメ亭"
"グラタン好評につき、一日限定15食とさせていただきます"
某腎者とは誰のことだ。勝手に使いおってからに。ポップな文字で書かれたそれらはおそらくカトウが書いた―――誤字が決め手かもしれない―――のだろう。どうやらうまくやっているようだ。
看板をかがんで読んでいると偶然にもカトウが店から出てきた。白いコックコートを着て、赤いスカーフを巻いている。コックコートは使い込んでいるのか、どうしても避けられないであろう汚れがついていた。
伸びをしているカトウは俺に気付いたのか、こちらを見てきた。目が合った瞬間、俺はどきりとして肩が浮いた。このまま逃げられるか、俺が逃げ出すか、どちらかになるのではないだろうか。
「あっ! イズミ先輩じゃないッスか! いらっしゃい!」
俺を見つけるなり駆け寄ってきた。どうやらお互いに一目散に逃げ出すというのは杞憂に過ぎなかったようだ。
立ち上がった俺の手を取り、笑顔を見せた。それに続いて女性が店から出てきた。
「アキくん、どうかした……あ、イズミさん、お久しぶりです!」
アルエットが出てきて、ドアのcloseの札を裏返した。まだ髪を下ろしていて、これからきっと結わえるつもりなのだろう。手には髪留めが付いていた。
「アルエットさん、元気そうだね」
そういうと微笑んだ。一番最初に見たときよりも軽やかで少し大人びたような笑顔だった。
「私はもう大丈夫です! アキくんに何か御用ですか?」
俺は、もう入って大丈夫? と確認した後、店内へ向かった。
「ちょっと、ね。ご飯食べたら三人で話さない?」
「少し待っていただけたらかまいませんよ」
店でシバサキが暴れて以降、来なくなったカトウはここで働き始めていた。
あれから店でシバサキを殴ったことは大事にはならなかった。後から遅れてきたオーナーは現場を目撃していなかったので、俺たちが帰った後、栗色ショートの女の子が事情をさらに事細かに話したらしい。
後日手伝いに行ったカトウは騒ぎを起こしたことには怒られた。しかし、出禁の客を追い払ったことや従業員を守ったことで不問になったようだ。
オーナーは料理の上手なカトウのことをえらく気に入っており、チームを辞めるなら正式にうちで働けと彼をスカウトしたのだ。ただ、オーナーはシバサキを含めたチームメンバーを全員出禁にするつもりだったらしい。タダ飯の件はどうするつもりだったのか。
その後、カトウがオーナーを説得したおかげで俺たちはこの店を出禁にはならなかった。シバサキは出禁どころか、家も追い出されたらしい。彼の住んでいた隣の建物もオーナーの所有物だそうだ。そのほうがカトウも動きやすいだろう。
店内を見回すとまだ誰もいない。椅子は机から降ろされて、正しい位置に配置されている。誰かが一度使った後に出る、人の気配の残渣からでるあの雑然とした様子はいっさいない。テーブルの上も思い切りコーヒーをこぼしたくなるほどきれいだ。
いつか話を聞いた窓辺の四人席に俺は腰かけた。コーヒーとグラタンを頼むとすぐにコーヒーは出てきた。一口飲むと、朝自分で淹れたコーヒーはなぜあそこまで苦かったのか―――苦味ではなく、ただ苦いだけ―――少し不思議になりコーヒーカップの中を覗いた。今朝作ったものと何一つ変わらない、茶色の淵から真っ黒になっていく水面を覗いたところでわかるわけもないのだが。その正しい香りをかいで、やっと朝からの緊張感がほぐれたような気がした。
グラタンも出てきて口に運ぶと以前よりもおいしくなっていた。そしてどこか懐かしい味がした。カトウの話ではグラタンの隠し味に味噌を入れたらしい。どこで味噌を手に入れたのか聞いてみると、愛知の岡崎から転生した味噌屋の息子がどこかにいて、こちらでも味噌を作っていてそれを少し譲ってもらえたらしい。
味噌などいまだかつて存在しなかったこの世界では、その見た目はあまり好評ではないので台所裏でこっそり使っているらしい。グラタンの改良よりも味噌汁作ってくれ、と言うと八丁味噌で癖が強いから難しいそうだ。レアに味噌の味を教えるとあちこちへ売り込みまれ、いよいよ物流まで支配されそうだからやめておこう。
食事が終わり、コーヒーをお替りししばらく待っていると、二人が俺のいるテーブルにやってきた。
「センパイ、用事って何ッスか?」
俺は少し緊張した。きちんと話せるだろうか、と。
「顔見に来ただけ。どうなのかなと思って」
頭を掻きながら椅子を引くとカトウは向かいに座り、その横にアルエットが腰かけた。
「いやー、楽じゃないッスね。毎日大変ッスよ。朝早いし」
「起きられてるの?」
「夜も入った時はちょっときついッスね。なんだかんだ深夜までなんで。アルエットに起こし」
「アキくんアキくん、それ言わなくていいから」
アルエットは肩を丸めてカトウの袖をグイっと引っ張り、横からカトウの話を遮った。
週五日で、そのうち二日は夜も厨房に立ってるらしい。メニューはだいたい把握してもうすべて作れるそうだ。ただ、ホールで注文を取ったりするのが苦手らしい。確かに接客は器用にこなせる感じではない。
何かに気が付いたのか、カトウは眉を寄せた。
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