弓兵さんはバズりたい 第八話
午前中の会議室に高い陽が窓から差し込み、テーブルからぴたぴたと音をたてカーペットを濡らした水を乾かしていく。誰一人何も言わずに椅子に座ったまま、腕を組んで押し黙っている。穏やかな光景ではないがそれはとても静かでどこか懐かしいと感じだ。
小学校の時に、応接室で喫煙し火災報知機を作動させたあの担任が怒り、ゴミ箱を蹴り飛ばして中味をぶちまけてそのまま教室を出て行ったあとの教室の沈黙を俺は思い出していた。しかし、そう考えるとこれから誰かが彼を呼びに行かなければいけない。この中の誰が学級委員にされるのか、少なくとも俺はやりたくない。
水を含んだ書類たちはぐずぐずになっていく。倒れ転がり弧を描くように水をこぼしているコップはテーブルのふちで止まり、あとほんの少し動いてしまえば落ちてしまいそうだ。倒れて割れた立派なパキラの鉢。四足を宙に向けて開脚する椅子。部屋の中の壁掛け時計がうるさく音をたてている。
このまま無言で過ごすのは時間の無駄なので、学級崩壊を起こして児童が暴れたあとのような部屋を俺は片付けることにした。滲んだインクが会議室のカーペットについてしまうと厄介だ。コップも割れてしまったら危ない。
手元にある、落ちてしまいそうなコップを直し、さてと、と椅子から立ち上がった。
「あ、センパイ。片づけッスか?オレもやるッス」
カトウが続いて片付けを始め、ぐずぐずで重くなった書類を拾いまとめ始めた。処分していいかとレアに尋ね、こちらで処分しますとレアはそれを受け取った。カトウに引き続いて皆それぞれに席を立ち、無言で片づけを始めた。観葉植物と鉢を魔法で元に戻し、倒れた椅子を戻し、テーブルの上を布巾で拭いた。怒り狂い飛び出していったシバサキのことなど誰一人追いかけようともせず、淡々と片づけを済ませていく。どうやら学級委員はいないようだ。
一通りが最初の状態に戻ったころ、ドアがノックされ一斉にそちらを向いた。ドアが少し開き誰かが隙間から中の様子をうかがい、身の安全を確認してから部屋に入ってきた。おずおずと入ってきたのは職業会館の人だ。先ほどのあまりにも大きな怒鳴り声と物騒な音に怖がってしまい、入ってくるのが遅くなったらしい。
シバサキが暴れて出て行ったことを伝えると、仕方ないか、と言うような表情をした。きれいに部屋は片付いていたので、静かに使ってくださいと軽く注意したこと以外に何か言うでもなく出て行った。
片付けが終わり、会館の人が出て行った後も誰も部屋からは出て行かなかった。ククーシュカでさえも。きれいに元通りになっていてもささくれた雰囲気がまだ部屋の中に漂っていて、それに足をとられて行動しづらいのだろう。部屋を借りていられる制限時間も迫っているのでラウンジに移動することにした。
俺は黙って親指で外の方を指さして部屋を出ると皆ついてきた。年長者は二人ともおらず、残されているのは若手だけで、そして俺が一時指揮を執り一緒に活動をしていた七人組だ。全員の移動が終わり、ラウンジで円形に集まっていて、指揮を執っていた俺が何か言ったほうがいいような雰囲気だった。さっさとこの息苦しさから解放されるために解散の命令一下をすればいいのだろうか。だがどんな風に声を掛ければいいのかわからなかった。
「えー……、あー、っと、みんなお疲れ。えーと、解散でいいのかな?」
「イズミ、これからどうするか、少し話しあいませんか?」
カミュが口を開いた。さすがにこのまま解散は投げっぱなしでまずいか。勝手に動くと怒ってしまう人がいるので不安だ。
だが、何にもしないというのはそれはそれでまたキレ散らすだろう。それに明日になればみんな忘れていつも通り集合場所に集まるとも思えない。それにあの彼があの様子では明日の予定を決めるために三日はかかってしまうだろう。
「あー、確かにそうだな。職業会館も混んできたしどこかへ移動しようか」
するとカトウが横からひょいっと顔を出した。
「あのセンパイ、オレこれからウミツバメ亭手伝いに行くんスよ。ついでにどッスか?」
「お昼も過ぎたし、そこに移動するか。でもククーシュカさんは出禁になってないの?」
親指を立ててカトウは笑った。
「大丈夫ッスよ。出禁になってるのシバサキさんだけッスから。それに今オーナーいないんで」
それぞれに小さく頷き誰も止める様子はない。ククーシュカも用がないなら黙って消えているだろう。若手メンバー全員でウミツバメ亭へ赴くことになった。
ドアベルがならして店に入るとアルエットが出迎えてくれた。化粧っ気が全くなかった以前に比べ、だいぶ雰囲気が変わり、長い髪を後ろで結わえている。言い方は悪いがイモっぽさがなくなって垢抜けた可愛さになっていた。束ねた長い髪を揺らしている。
「いらっしゃい。あれ? イズミさんとアキくん、今日はずいぶん早い時間にお客さんたくさん連れてきましたね」
「七人だけど……。アキくん?」
誰のことだろうか。俺は首をかしげてアルエット見た。
「アキくんはアキくんですよ。ねー? アキくん?」
アルエットは俺の少し後ろにいたカトウを糸目になるくらいの笑顔で嬉しそうに見ている。俺が振り向くと、カトウは時刻になると目が動く鳩時計のように視線だけを逸らした。善明でアキくんか。雰囲気もだいぶ変わったのはそういうことか。若いっていいな。
アルエットとシェフに許可をもらい、店の奥のテーブルを移動させ八人掛けにしてそこに全員が座った。店はもう混雑する時間帯ではないので、常識的な範囲なら長居して会議に使っても大丈夫だそうだ。カトウは厨房に挨拶に行くため裏手へ消えていった。
俺はボロネーゼ、カミュはバジリコ、レアはラザニア、オージーとアンネリは食欲がないらしく炭酸水と二人で小さめのピザを頼んでいた。
俺の隣に座ったククーシュカはほとんど燃料のようなとんでもない度数のアルコールを無表情で頼んだ。話し合いと言う一応仕事中なので、さすがにそれはマズいような気もした。だが、少しアルコールが入ったほうが彼女も何か話すのではないだろうかと思い、止めはしなかった。
思い思いに自分たちの食べるものを頼んだ後、料理がそろうまではカトウも話し合いに参加できないのでそれまでは好きに過ごすことになった。早くも出てきたアルコールをコップに移すとククーシュカはまるで水のように飲んでいた。彼女はそれ以外に頼まず、何も食べないので本当に燃料なのではないだろうか。そして、しばらく経つと「おいーッス。できましたよー」とカトウが料理を次々運んできた。テーブルに全員食事が並ぶと食べ始めた。
食後のコーヒーを囲んでいると厨房からカトウが戻ってきたので会議が始めることにした。一時的に率いていたこともあり、再び俺が音頭をとることになった。
「えーと」
いざ何を話し合えと言うのだろうか。話し合うべきことは山ほどあるが、カトウ謹製のおいしい食事のせいでチームの雰囲気は先ほど揉めていたとは思えないほどほんわかとしてしまった。胃もちょうどよく満たされ体温も上がり、みんなに向かって話し始めはしたがどこか頭の片隅に眠気の気配を感じる。
だが、明日からは、と話し始めると店がざわつき始め、立ち上がっていた俺には店の様子が見えた。慌てた様子の給仕やシェフが出入り口に集まり始めている。俺たち以外の客も何かが起きていることに騒然とし始めた。
そして、聞き覚えのある誰かの声が聞こえ始め、それはついには怒鳴り声になった。
「何で誰も僕を探しに来ないんだ!」
遠くで聞き取れなかった声がはっきり聞こえた。シバサキの声だ。
「お前たち! ふざけているのか! なんで上司をきちんと追いかけてこないんだ!」
この店を出禁になったはずのシバサキがずかずかと入り込んできたので店のスタッフが止めにかかっていたが、どうやら突破されてしまったようだ。何人か弾き飛ばされ怪我をしている。
「どけっ! 邪魔するな! 僕はそいつらの上司だ!」
こちらを指さし、なおも怒鳴っている。この人は本当に怒鳴るのが好きだ。出て行った彼を放ったらかしにするのは、怒りを増長させて被害を拡大させるのではないだろうかとどことなく感じていたが、やはり火に油を注いでしまったようだ。
これは誰かを学級委員に仕立てなかった俺たちの落ち度だ。では、なぜお前が行かなかったのか、ともし問われたら、君はいきたいかね、と問いただしたい。誰か一人ではなく全員で探しに行くなどつけあがらせるだけだ。よって、このチームには誰かを責める誰かはいないだろう。
給仕の栗色ショートヘアーの女の子が抑え込むスタッフの集団から離れ、店を出てどこかへ行った。おそらくオーナーを呼びに行ったのだろう。来るのはその人だけではないはずだ。怪我人も出ているので少々まずいことになりそうだ。
「職業会館を出てからずっとお前たちをつけていた! いつになったら僕を探しに来るか、ずっと待ち続けていたんだぞ! それなのにお前たちときたらのん気に飯を食うなんぞふざけているにもほどがある! 僕なら怒られてしまった日は不安で不安で飯も食えなくなったぞ! そうなるのが嫌だから真心こめてどこまでも謝りに行ったぐらいだ!本当にお前たちは上司に冷たい!」
追い出そうと纏わりついていた給仕や厨房担当を力づくで無理やり引きはがし、俺たちのいる奥のテーブルまで来ると空いていた席にどかりとかけた。
「客に水も出せないのか!」
「お客様、当店は出禁になっているはずですが」
ばんばんとテーブルを叩くシバサキに、チームの誰かが動くより先にアルエットが動き出した。
「店が客を選ぶなんぞありえない!僕たちがいないと生きていけないくせして神様をなんだと思っているんだ!」
シバサキは立ち上がり、アルエットを思い切りはり倒した。持っていたお盆が宙を舞い、地面に落ちて回って倒れた。その様子を見ていたカトウはすかさずシバサキの肩を掴んだ。
「なっ、何するんスか!? シバサキさん! この子は関係ないじゃないですか!」
シバサキはすぐに振り払うとカトウを睨み付けた。
「ああ!? なんだよ! お前の知り合いか!? ならちょうどいい! こいつにお前らの失態を謝らせろ!」
起き上がろうとするアルエットをさらに蹴った。
「たかが給仕だろ!? 英雄に向かって出禁とかナメたこと言うな!」
するとシバサキはテーブルに置いてあったククーシュカの頼んだ酒瓶を持ち上げ、彼女に酒を浴びせた。こぼれたのは度数の高いアルコールだったのでマッチをこすればいまにも燃え上がりそうな匂いが立ち込める。
そして、アルエットの腕を持ち上げた。
「ビンボー人のくせにいいからだしてんな。お前のことタダで貰ってやるから許してやる」
「痛い! やめて! 放してください!」
アルエットは必死の力で抵抗するが力ではかなわない。シバサキはゆっくり舐めまわすように彼女の体を見た後、体に顔を近づけてすんすんと匂いを嗅いでいる。
「酒のにおいと混じっていいにおいじゃねーか。選ばしてやるよ。そのまま火ぃつけられて店ごと火だるまになるか、貰われるか」
アルエットは顔を赤らめ屈辱的な顔をしている。シバサキは「死にたくねぇもんなァ」と耳元でいうと、彼女の胸に手を伸ばして汚そうとした。その時だ。
グボッと鈍い音とともに鮮血が舞い、床に血が飛び散った。弧を描いて続く赤い点の先に、口から飛び出した白い何かが床に落ちた。シバサキの顔面にカトウの拳が食い込んだのだ。拳にはいつか俺がかけた強化魔法が残っていたのか、シバサキは見事に飛んで行った。
「アルエットに触るな!」
言葉より先に身体が動いたようだ。シバサキは飛ばされ情けない声を上げている。手から離れ自由になり、ふらついていたアルエットをカトウはそっと胸板で受け止めた。
「アキくん……」
カトウからそっと離れるとアルエットはへたり込んでしまった。傍にいたカミュに何も言わずにアルエットを預けるとカトウは五メートルほど先に飛ばされて転がるシバサキの前にずしずしと音をたて仁王立ちした。その姿はまるでこれまで見てきたカトウではない。よく見れば鍛え上げられていて腕は太く肩幅もある。シバサキを見下ろすカトウの眼は上司を見るそれではない。道に転がる糞を避けるときの不快と蔑みを集めたような眼差しだ。
「な、なんだお前ら! ふざけんるんじゃないぞ! 上司を殴って許されると思うなよ! あと言いつけてやる!」
「黙れ」
カトウの大きな右手はシバサキの頭を掴み、ゆっくり持ち上げた。腕には筋が浮かび、込められた力が強いのか震えている。睨み付けられているシバサキは悲鳴を上げて離れようと暴れ、カトウを足蹴にしているが彼は全く動じない。
地面から足が離れてしばらくそのままだったが、カトウは何かを抑え込むように左手を握ったかと思うと、シバサキを投げ捨てた。力強く握りすぎて爪が食い込んだようだ。左手には血がにじんでいた。シバサキはすぐさまほかの客に抑えられた。
そして、カトウはすぐさまアルエットに駆け寄ると肩を抱き起こした。「すぐに助けなくてごめん。怖かったよな」と声をかけていた。ううん、と首を振るアルエットは涙目でカトウに微笑みかけている。カミュが水浸しになって服が透けてしまいそうな彼女にそっと上着をかけた。それに気づいたアルエットは頬を染め声も出さずにカトウに背を向けてうずくまった。
「ちょっと! 男ども、さっさとどっかいった! シッシッ!」とアンネリは手で追い払うと、申し訳なさそうな顔のレアとともにアルエットを囲うように立ちはだかった。オージーは怪我をした店員の処置に向かっていった。
俺もそれに遅れまいと回復魔法を唱え始めたが、カトウは俺を呼び止めた。
「センパイ、ちょっと話、いいッスか?」
まだ混乱の残る店内を見回すと怪我人は多数いるものの、重症ではなさそうなのでオージーに任せても大丈夫だろう。それにカトウを一度冷静にさせる必要もある。俺は肩をたたき、彼を店の裏へと導いた。ドアを開けると日陰になった暗い路地があり、そこには樽や瓶が置かれていて涼しい。置かれた背の低い樽にカトウは腰かけ、頭を抱え始めた。何か言いたいことがあるが言葉が見つからないのか、黙ってしまった。俺はその横にかけた。
「よいしょと、何が言いたいか、俺はわかるような気がする」
下を向いたまま横目でちらりと俺を見た。目には涙が浮かんでいる。
「へへへ……。センパイさすがッスね」
「いや、誰でもわかるぞ、たぶん」
「オレ、ついにやっちまいましたッスね」
「仕方ないよ。俺もすぐに動けなかった。すまない」
「なんでセンパイが謝るんスか? でも、さっきのは、我慢できなかったッス。せっかく会えた大事な人が汚されるのが、オレには」
声が震えだして膝を拳で叩いていた。
「殴ったのは確かにまずいね。でも、ナイフを抜かなかったのは偉い」
「そう、ッスか」
これまでのいじめなどで次第に追い詰められていき、アルエットが巻き込まれたことで我慢してきた感情がついに決壊してしまったのだろう。これからどうするの、と聞くのは少し酷だ。こうなってしまってはどうなるか、もう一つしかない。おそらくチームにはいられない。
彼がどうしようと知ったことではない、彼の人生なのだから、これから選ぶ選択肢に世間は少し馬鹿にした意味合いを込めてそう言うかもしれない。
しかし、それはあまりにも冷たいような気がする。確かに他人がどれだけ道を示しても、選んで進むのは本人だ。俺はたとえ彼がどれを選んだとしてもそれを見守るだけでなく、少しだけ、ほんの少しだけでも背中を押したい。
「俺は―――」と言いかけた後、鼻から息を吸った。「あ、いや、なんでもない」
彼を最良の方向へ無理やりにでも導ければいい。でも、かっこいいことも言えない。励ますことも引き留めることもできない。それどころか、俺には未来が見えないから、これがいいと言う選択肢すら提示できない。店の裏手に置いてある樽に座り、悲しそうに下を向くカトウに何を言えばいいのか。結局わからなかった。
俺はしばらく震えるカトウのそばにいることしかできなかった。
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