白狼と猟犬 第六十一話
いずれにせよ、独断専行などは他軍自軍どちらにとって必ずしも有益なものではない。私を含めた女中部隊員がしようものなら規模とその後の影響にもよるが減給と謹慎処分だ。
だが、頭ごなしにポルッカの行動を責められない自分がいるのも事実。
彼女の性格的に独断専行に出てもおかしくないと私は踏んでいた。そして、二度にわたる狙撃未遂は彼女の独断専行であるとなぜかすぐに理解できた。
『何故か』などとというのは今さらになっては白々しい。それはかつて自分のしていたことに似ていたからだ。
昔の自分はこうだったのかもしれないと現実を突きつけられているようであまり良い気分ではなかった。
かつての行動には確かに誇りはあるが、第三者の目線では違うように見えるという現実を直視しなければいけないという状況を避け続けていた自分に、ムーバリに報告を受けて初めて気づかされた。
私自身、ポルッカ同様に独断専行をしたことがある。
若いときに私は橋での攻防で指示を無視して敵を撃った。結果を直視したわけではないが、あのとき指揮官は私のせいで撤退になったと言っていた。
しかし、もとより聞いていた作戦では橋より先には進軍しない予定だった。その後も橋は帝政ルーアでもなければ、連盟政府でもないままけりがついた。
それから四十年経過して帝政ルーアがなくなり、ルーア共和国になった今でさえもどちらのものにもなっていない。(人間側は南方地域の蛮族からの解放へ向けた自分たちの戦略上重要拠点だと主張しているらしいが)。
つまり、良くも悪くもなっていないのだ。
ならば若気の至りで笑い話にしてしまえば良いかもしれない。
しかし、私はそのとき指示を無視したおかげで最前線で死んでいたかもしれない兵士たちの命を一つでも多く守れたと、若気の至りなどいうまるで間違った行動を取ったかのようなニュアンスを含んだ言い方をしたくない、されたくないという、ある種の誇りのようなものさえ感じている。私にとっては成功だ。
ポルッカのした狙撃はセシリアや奥方と標的が定まっていないが、放たれた弾丸に迷いはなく、明らかに何らかの意思を持った弾丸だった。
それがどんなものかはわからないが、私と同じく明確な目的がある狙撃であることはすぐに分かった。
独断専行をした橋の時、私は“的”ではなく“敵”として引き金を引いていた。ポルッカは若い。実力は充分だが、精神面において発展途上の彼女は、まだ撃つものは“敵”だと考えているのだろう。
私の独断専行では“何も起きなかった”し、それでいて“多くの兵士を救えた”のだ。しかし、今の状況において彼女が引き金を握れば、放たれるのは一発の弾丸では済まされなくなる。
憎い。憎たらしい。
だが、撃たれたから抱く憎悪ではない。
惜しいからだ。実に惜しい力だ。憎たらしいほどに可能性を持った惜しい力だ。
若いならまだ可能性はあるはず。四十年近く銃を握っていた先駆者として、実力は充分な若者をこんなところで潰してしまうのは――。
「で、ジューリア。お前さんはどうしたい?」
昔を思い出しては遠くなっていた意識に奥方の声が響いた。はっとするとすぐに答えた。気がつけば拳を握りしめていて、掌の中は汗にまみれ、食い込んだ爪の痕がついていた。
「どうもいたしません。私たちは指示に従うだけです」




