弓兵さんはバズりたい 第四話
カトウの過去編 前編です。
「ゼンはさぁ、進路どうすんの?」
「進学。ひばりと同じとこ」
ゼン。オレのことだ。加藤善明でゼン。聞いてきたやつは四ツ谷亮。リョウと呼んでいる。
将来、特にやりたいことはないけどとりあえず進学。ひばりが南大沢にある都立の大学に行くから、オレもそこを志望校にした。なんとなくおしゃれで面白そうだから建築学部にした。
「お前らまだ付き合ってんの?全然ヤラしてくれないのによく付き合うよなー」
「そういうんじゃねーから」
ひばりは彼女だ。大村ひばり。実家が雲雀苑という中華料理屋だ。娘の名前を店名にしたわけではなく、店の名前を娘に与えたらしい。大きい店ではなく、一時流行ったいわゆる町中華だ。味はおいしく値段の割にボリュームがあることに地元では定評がある。通学路にあるので、どれだけ食べても飢えている学生と昔からの客が多く、客足は途絶えないので貧しいわけではない。
ひばりはどうしても大学に行きたいらしい。私立の大学では授業料が払えないから、国立か公立の大学以外はダメと言われている。浪人したらそのまま店の手伝いをしなければいけないが、それは死んでも嫌だと言い続けていた。店と同じ名前なんて、継がなければいけない運命みたいだと心底イヤがっていた。
そんな風にやらなければいけないひばりがうらやましいような、それでいて、何熱くなってんだよ、という冷静な自分もいた。
「おまえこそどーすんの?」
「都内の私大。おしゃれなとこにある大学何個か受ける。まぁよゆーっしょ。田舎の大学なんか受けねーよ。稲城なんかにいたら腐りそうだぜ」
まぁ、みんなそんなもんだよな。目的は特に無いけど進学するのが多数派だよな。と自分に言い聞かせていた。
オレはリョウほど稲城が嫌いじゃない。田舎で不便かもしれないし、都民で稲城市を東京都と認識している人も少ないような気もする。それでもオレは好きだった。
八月も終わりが近い。高校三年生の夏がもうすぐ終わる。
その日も勉強しているひばりには会えず、こうしてリョウと会っていた。
部活も三年になり引退。することがない夏休みは一日中寝てるか、市立病院の横の公園でうだうだと過ごして、蝉時雨に交じってときどき空を縫うトンボを目で追いかけるぐらしかしなかった。
そしてダラダラとし続けて、甲子園で響いた試合の終わりを告げるホームランの音ともに雨が降りはじめて、暑さにくたびれて色づいた葉が落ちて、年を越したら気が付けば二月を過ぎた。
結局、オレはひばりと同じ大学には行けなかった。ひばりは目標通りの都立の大学に進学し、一方のオレは少し離れた京王線沿線の大学に行くことになった。リョウもそこに一緒に通うことになった。
入学して二カ月、ひばりとわかれた。四月しかまともに大学に行かないというオレのやり方が気に入らなかったようだ。ゴールデンウィークが明けてからはほとんど会っていない。本当はひばりとは別れたくなかった。高校時代からひばりは勉学も優秀だったし、弓道でも八射皆中はざらなほどだ。だから、そばにいてもいいと思った。でも、弓道部の同期でとりあえず付き合いはじめた程度の間柄だったので、そこまであと腐れなかった。好きで付き合ったわけではないから、その程度だったんだと思う。
リョウもオレと似たような感じで、学内で出会うことはほとんどなくなった。たまに会うときは誰とヤッたとかそんな話ばかりだった。マッチグアプリやらハブやらに通い詰めて遊びまくっているらしい。ハブにいる女だけの二人連れなら簡単にヤレるとか言っていた。
にわかに信じがたいが、彼はそれでうまくヤッているらしい。実名でやっている彼のSNSの書き込みはそればかりだ。一度誘われたことがある。たまたまその日はバイトでオレはその誘いを断った。バイトというの建前だ。ただ毎日がだるくて、わざわざ都心まで出て人の相手するのが面倒くさかっただけだ。
大学に行っているのか行っていないのか、わからないような状態の学生生活が始まってあっという間に時が過ぎた。気が付けばいつの間にか二回目の夏休みは始まっていた。
七月半ば前、リョウと久しぶりに会うことになった。彼は同じ大学に通っているはずなのに、京王線の新宿寄りの駅で一人暮らしをしている。あれだけ稲城を嫌って都心に行きたいと言っていたから、そこに住んだのだろう。家賃もそれなりのはずだ。大学にくる時間は昼過ぎかもしくは来ないので通学時間はあまり気にしていないようだ。最初は都心部の繁華街で会おうと言ってきたが、それは遠すぎるからやめてくれと言うと調布になった。乗り換えが面倒臭いから、彼にとってはそこが東京のギリギリ限界らしい。
まだ明けない梅雨の夕方。雨は一日中降り続けていた。
集合場所も目的のお店も駅前なので傘を持って行かなかった。ほどなくしてリョウが現れると雨を避けるようにいそいそと目的の居酒屋に向かった。
席に通されて適当にアルコールを頼み、それからは大学の話や会った女の子の話をしていた。一時間くらいしただろうか。リョウはずいぶん酔っぱらった様子で大きな声でしゃべりだした。
「俺だけどさぁ、先週からひばりと付き合ってっから」
それを聞いたとき、複雑な気持ちになった。大学にまともに来ないこの男とオレは一体何が違うんだろう。
馴れ初めは部活動らしい。オレたちの通う大学にも弓道部はある。インカレのいわゆる飲みサーで「求愛部」などと呼ばれている。それが嫌でオレは名前だけの部員だ。ゴールデンウィーク中の部活動のバーベキューでたまたま遭遇したらしく、懐かしくなり話をしていたらうまくいったらしい。その時にオレの話もだいぶしていたらしい。自分がネタにされたことへの出遅れた怒りの感情を湧き立たせても意味がなく、耳元を蚊に飛ばれているような、不愉快な気分になった。冷静を装いながら、へぇ、そうなんだ、と言いながら枝豆に手を伸ばした。
「ちなみにもうヤッたわー。急だったからナマでヤッちゃったけどちょーよかった。ゼンみたいに手すら繋がないのとは話が違うから。でも、お前のこと褒めてたぜ。優しい奴だってさ」
気が付けば、枝豆の殻入れにオレは手を突っ込んでいた。
その一言で血の気が引くような、何かが体から離れていくような気持ちになった。遊びまくっているからそんなだろうとは思っていた。リョウが直接言いさえしなければ何も感じなかったのかもしれない。オレはリョウがひばりとヤるためだけの踏み台にされたのだ。
しかし、もはや元カノだし、そこまで好きでもなかったからどうでもいいはずだ。それなのに、ひばりの体のことについて話しているリョウの声が遠くでエコーしてよく聞こえないような気持になった。聞こえないんじゃない。聞きたくないから上の空なんだ。冷静なふりしてるわけじゃないが、何もすることが出来なかった。そのとき、リョウを思い切りぶん殴ることもできたはずだ。でも、ひばりはもう他人だ。殴る意味が分からない。次第に何が何だかわからなくなっていった。
話が終わっても、リョウを恨む気にもならなかった。恨みたかったのに負の感情が湧いてこなかったのだ。ノートやらレジュメやら、そういうのを集めることに彼は異常なまでにうまく、オレの手にした資料のほとんどは彼譲りだったからだ。
飲んでいたのは調布駅前だったはず。雨は止んでいたことしか覚えていない。気がついたら稲城駅の隣の若葉台駅にいた。
ひばりの実家である中華料理屋は若葉台の方が近い。何を思ったのか、オレは雲雀苑を目指していた。本当に何がしたかったのかわからなかった。もしかしたら、ひばりにリョウは遊びまくっていることを伝えたかったのかもしれない。伝えてどうするのか、別れさせてよりを戻そうとしたのだろうか。違う。ただ関係をめちゃめちゃにしたかっただけだ。そもそも、ひばりはもう実家にはいない。実家が嫌過ぎて一人暮らししている。雲雀苑に行ったところで会えるわけもない。
店の前に着いたのは九時前でまだ営業中だった。
個人経営の中華料理屋にしてはずいぶん遅くまで営業しているようだ。早い季節の虫が鳴く夜道を煌々と照らし、羽毛の塊のような虫を引き寄せている看板の下の引き戸に手をかけ引くと、立てつけの悪いそれはガタガタ揺れながら開いた。
むあむあとした雨上りの屋外へ流れ出す空調の効いた空気に乗ってごま油の匂いがふわりと漂った。上の方にある棚にデジタル放送移行前から置いてあるだろうブラウン管のテレビは、長年の脂汚れで薄茶色になっている。画質が悪くなりすぎて誰が映っているのかわからないバラエティが流れていて、いらっしゃいの代わりに聞こえた観客の笑い声が音割れしているのは、オレの精神状態のせいだけではないはず。
愛想の悪いおやじさんが厨房でタバコを吸っている。入ってすぐの席に着くと薄汚れたピンクのエプロンのおばさんが、ビールメーカーのロゴが描かれた小さなグラスに水を入れて持ってきた。どん、と置くとすたすたと裏手へ消えて行った。二人とも、ひばりの両親だ。オレはこの二人を一方的に知っている。店には昼間に数回足を運んだことがあるし、ひばりが見せてくれたスマホの家族写真で見たことがある。
その写真の中で、この二人は愛想の悪さからは想像もつかないような笑顔だった。紹介されたわけでもないからオレのことなど知るはずもない。きっとこの店にいるのはひばりの両親によく似た人なのだろう、と思うようにした。
チンジャオロース定食を頼んで何もわからないテレビを観ていると数分で料理が出てきた。箸をつける前に眺めると妙な気持ちになった。なぜだろう。
オレは何をしに来たのだろうか。
その場でこのひばりの両親に、両親によく似た二人に、お宅の娘さんはクソ野郎と付き合ってますといきなり言えばいいんだろうか。幸いにも客はオレ一人だ。だから目立つこともないだろう。それにきっとこの店には金輪際近づかないだろうという自信もあった。でも、なぜかできなかった。蛍光灯の低く小さい音が聞こえる。もう黙ってチンジャオロースを食べるしかない。
口に運ぶと普通のチンジャオロースだった。
本当に、普通の。おいしいチンジャオロースだ。
本当に何がしたかったのか。その味があまりにも普通過ぎて、忘れてしまいそうだった。
いや、このまま食べ続けて気がついたら何もかも忘れて立ち直れるのではないだろうか。
それがいいのかもしれない。
しかし、半分ほど食べたときだろうか。チンジャオロースに一センチほどの黒い枝みたいなものが見えた。
焦げた食材だろうと思い箸で持ち上げようとすると、意外と大きく重みがあった。
少し力を込めて持ち上げると、黒い光沢と長い触角。てらてらと油で光っているそれは
ゴキブリだった。
オレはそのままそっと箸を戻して食べるのを止めた。
気持ち悪いとか、そういう感情は一切なかった。それ以上に忘れかけていた怒りや嫉妬が渦を巻き始めて、心臓をドクンと打った。その一撃につられて、何か黒いものが心の底からゆらりと立ち込めると、これがあればなんでもできてしまうような、そんな万能感にさいなまれた。俺はひばりの両親にもひばり本人にも何も伝えることが出来なかった。その代りにこれを使えば雲雀苑の人間以外のすべてを、世間を動かせるのではないだろうか。
思わずスマホを取り出し、皿の上のゴキブリの写真を撮った。
二、三枚撮った後、箸でその物体を食材の下にぐいぐい押しこみ、表面上は見えないようにした。そして、何ごともなかったように会計を済ませ、店を後にした。
オレはすぐさまそれを不特定多数の誰でも見られるSNSに載せようとした。暗い夜道の中で、顔の前のスマホは送信ボタンを不気味に光らせ人差し指を待っている。これを押せばオレは復讐を果たせる。さあ押すのだ、とオレではないオレが背中を押す。しかし、その都度ひばりの顔がよぎり、押すのを躊躇した。
歩きスマホで前を見ていなかった。急に視界に現れたサラリーマンとぶつかりスマホを落としそうになった。
慌ててキャッチし、無事を確認しようと画面を覗くとそれはすでに送信されてしまっていた。ぶつかった拍子に押してしまったのだ。やってしまった。ひばりのことを思い出し、心臓が痛くなった。
そのままアプリをそっと閉じて、通知を切って何日も見なかった。
怖かったから逃げていたのだ。
騒ぎになるのではないだろうか。マスコミが来るのではないだろうか。そんな心配をよそに日々は過ぎて行った。
しかし、一週間経っても何も言われることはなく、オレは勇気を振り絞りアプリを開いた。反応した数は数百とほとんど話題になっていなかった。おもわずホッとしてしまった。
その時は誰が見ているかなんて、考えもしなかった。
読んでいただきありがとうございました。