トリックスターの悲劇 第五話
予兆は予兆に過ぎない。起きなければただの思い過ごしだ。そうして五分もすれば違和感も忘れて、作業に集中し始めていた頃に突然、まるで金属を金属で切り落としているような音が窓の外から聞こえ始めて、集中は妨害された。
さらにどうやらそれはここへ向かっているようで、次第に大きくなっていったのだ。また何か問題が、と首を上げて窓の外を見ても何も見えなかったので、関係はないだろうと構わずに作業を再開した。
だが、それはすぐに耳から離れることはなくはっきりと聞こえてくるようになったのだ。それはどうやら子どものわめき声のようだった。
再び首を上げて窓の外を覗くと、シバサキが戻ってくるのが見えた。いくらやかましい男でもさすがにこの音の原因ではないだろうと無視しようかと思った。しかし、何か様子がおかしく、目をこらしてみると小さな子どもを抱えていたのだ。
まさか、と思い机から勢いよく立ち上がって近くに置いてあった双眼鏡を取り上げて再びシバサキを見つめた。すると、シバサキが抱えていた子どもはなんとセシリアだったのだ。
上腕が引き締まるような感覚に襲われ、脇の下から血の気が引くような寒気が起きた。「まさか、まさか、まさか、そんなはずがない。いくらシバサキでもそんなことは」と頭の中だけで復唱しているはずの言葉が思わず口からこぼれてしまった。
不安と焦りに苛まれながら入り口へと駆け寄り、思い切りドアを開けた。
そこには笑うシバサキがセシリアを抱きかかえて立ちはだかっていたのだ。セシリアはシバサキの腕の中で猛烈に暴れ、掌に渾身の力を込めて無精髭を押し退け、自らが落ちてしまうことなど気にもしていないのかと思うほどに両足をばたつかせている。
私は子どもが苦手だが、それでもわかる。セシリアは全身でシバサキを拒否している。
先ほど脇の下からこみ上げた寒気はすでに全身を覆い尽くし、手も足も震えだしてしまった。喉も渇くような気がして、思わず唾を飲み込んでしまった。
口角が上がり引きつる顔を押さえ、私はシバサキに尋ねた。
「シバサキ……さん、あ、あなた、何をされているのですか?」
そう尋ねると、シバサキはセシリアを撫でようと頭に手を伸ばした。しかし、セシリアは耳が遠くなるほどの悲鳴を上げ、その手を何度も叩いて拒絶した。
「ん? おう、この子をお迎えに行ってたんだよ」
キンキンと耳の奥に響き渡るような悲鳴にかき消されそうな声でシバサキはそう言いながら笑った。
大きく苛烈になった悲鳴に私は目眩が酷くなるような感覚に襲われた。素早い瞬きを繰り返して意識を留めながら、「なぜセシリアをあの二人から引き離したのですか?」と再びシバサキに尋ねた。
すると、シバサキは拳を握りしめて目をつぶり、歯を食いしばりながら下を向いた。
「そこのテーブルに一人でいたから連れてきたんだ。バカイズミは面倒も見ないで……。寒空で一人かわいそうに放置されていたんだ。ネグレクトだ! 許してはいけない!」
そう言いながら握りしめた拳を振るわせた。だが、鼻から息を吸い込むと突然穏やかな表情になった。




