トリックスターの悲劇 第一話
「あらー、シバサキ司長。お戻りですか? 今まで一体どちらへ?」
建物が揺れると天井から埃と砂がパラパラと落ちてくる。作戦本部で作業をしているとシバサキが戻ってきた。
作戦本部などと気合いの入った名前をしているが、実のところただの元民家である。
もう少しまともなところもあったはずだが、クライナ・シーニャトチカの無人エリアの東寄りは例の民間団体に広範囲に陣取られ、おまけに住民も村長もすっかり懐柔されており、私たちが本部を敷ける場所はエリア内でもさらに倒壊の進んだ建物が多い北側しか残っていなかった。
そこにあった唯一柱と壁が使えそうなほどに残っていた廃屋を改修したのが、連盟政府の作戦本部だ。
その継ぎ接ぎの本部を不必要なまでに揺らす、姿は見えなえなくてもわかる落ち着き無い足音と、拠点の壊れた蝶番を無理矢理押し開けるときにやたらと大きな音を立てる癖はシバサキのものだとはすぐにわかった。誰が毎回直しているのか知っているのかと、音を聞く度に腹の底が縮むような感覚がするので間違いはない。
私はイズミさんとの協力と約束によりクライナ・シーニャトチカへの常駐が原則となったが、ブリーリゾンにある聖なる虹の橋本部の私のデスクには本来やるべき情報解析作業が溜まっていた。跳ね橋も蝶番も吊鎖も、どこも人員は多くないので如何なる状況にかかわらず仕事は次から次へと任される。それらをこなすために、わざわざこちらへ持ち込んで作業をしているのだ。
――そう言った類いの書類等を持ち出すのは厳禁だが、支柱司長であるシバサキもいるということで問題ないと言うことにした。いざとなれば彼の責任である。
実はこの間、紙が一枚無くなった。だが、シバサキへ報告すると彼は「ん」としか言わなかった。絶対沈黙等級のあの計画の書類だった気もするが、肯定なのか否定なのか、そもそも話を聞いていたかどうかも怪しい返事しかしなかったので問題ないのだろう。
作業を中断して入り口の方へ振り返ると、思った通りシバサキだった。しかし、彼はあられもない姿をしていたのだ。
顔の頬は唇から連なるように膨れ上がり、眼は青紫でパンダのようになっていた。服は乾いた砂だらけで、動くたびにぽろぽろとそこに付いた砂が落ちるのだ。
その姿を見た瞬間、またどこかで何かやらかしてしまったのだろうかと言う強烈に嫌な予感が背骨を這い上がった。その不快なむずがゆさに眉間に皺を寄せて、つま先からつむじの先まで彼の姿をなめるように二度三度繰り返し見てしまった。心配からではなく、その悪寒を確かな嫌悪に置き換えるためにどうしたのかと尋ねると、シバサキの唇がもごもごと何か不満げに動き始めた。
「おい、クロエ。セシールを攫うぞ。エルメンガルトの説得に失敗した」
「は? セシール? ……セシリアのことですか? それに説得? 何をしたのですか?」
シバサキはそう言いながら机の上の小さな鏡を持ち上げて覗き込んだ。痛そうに片目をつぶりながら切れている唇を指でなぞり見ている。そしてタオルを二、三枚持ち上げて傷口を拭いた。
「若返らせてやるから僕たちだけに協力しろって言ったが断られた」
「へぇ、そうですか。で、どうやって若返らせるつもりですか? 騙して協力させるならもう少し現実的な方がいいですよ」
シバサキが顔を拭う動きを止めて驚いたように顔を上げてこちらへ振り向いた。
「お前、僕の力をまだ信じていないのか。この間見せたじゃないか。老齢のマウスがまるで赤子のように若返っただろう?」
「信じるには失敗の回数が多すぎですからね」
これ以上何か言うと面倒なことになりそうな気配を感じたので、私は机に向き直り視線を落として作業を再開した。