愛はいなずまのように 第一話
エルメンガルト先生のお話。
「エルメンガルト・シュテール。ああ、僕の愛しいエリー。久しぶりだね」
「誰だい、あんたは?」
忘れているはずがない。
そいつは少しだけ開けたドアの隙間に手を潜り込ませて思い切りこじ開けてきた。それだけでも十分気持ちの悪いというのに、あまつさえ私が誰の顔であるかを認識するよりも早く愛を語り出したこの男の見た目はよく覚えている。シンヤとの間に割って入ろうとした男だ。
見た目はあの頃と全く変わらない。歳を取ってはいるようだが、そこに老いは感じず、ただの時間の経過しかない。苦難を背負った顔ではなく、若さはあるがどこかあどけなさとはまた違う未熟さのようなころころとした丸さが残っている。
だが、かつて会っていたことは覚えているが、その名前は覚えていない。これまでの人生について大方のことは思い出したが、この男についてはそもそも名前を聞いたかどうかも怪しい。
男はドア枠に肘で寄りかかりながら、ため息をこぼすと首をぐるりと回して微笑んだ。
「いやだなぁ。僕だよ、僕。君が愛したシバサキ・リョウタロウだよ」
「シバサキ……」
そんな名前だっただろうか。
だが、とりあえず会っていたことは覚えていたので、名前を覚えているふりをして話を進めることにした。
「あぁ、いたね。シンヤに毎回ぶちのめされてパンダになっていたあの中年か。折れた前歯二本はもう治ったのかい?」
「歳を取ってしまったようだね。でも、相応に美しくなった。イイ女になったね」
「抜かせ。ババァに欲情するほどシンヤに殴られちまったのかい」
シバサキと名乗った男はふぅーんとため息を吐き出した。それに混じって何かが焦げるような苦い臭いもした。銘柄もわかる。甘さのある香りはスパラティーボ・イスペイネだろう。喫煙者――それもなかなかのヘビースモーカーの吐息の匂いだ。
まさか自分もそのような匂いがするのだろうか。思わず掌を口に当てた。
「可哀想に。記憶もだいぶ混濁してしまったようだね。それは間違った記憶だよ。僕たちの邪魔をしていたヤツこそが、シンヤじゃないか」
「そうかい。じゃ今すぐあの自慢のアレを見せておくれよ。私が愛した人はアレが素晴らしかった。私はアレが大好きでね。アレであれをナニするのが勇ましくていつまでも見ていられたよ。何十年経っても昨日のことのように思い出せるアレだよ。簡単だろ? 久しぶりに見せておくれ」
「アレって、なんだい?」
シバサキはそう言うと引きつった顔を見せた。
私は黙った。アレというのはシンヤのしていた高速移動のことだ。シンヤは私がアレと言えばすぐに分かったが、シバサキは何のことだか分からない様子だ。私の記憶に間違いは無かった。
答えを待つように黙り続けながら睨め付けていると、シバサキは首を少し傾けて、諭すような顔つきになった。
「ハッキリ言わなければわからないじゃないか。コミュニケーションの大半は非言語だけど、それは親しい間柄であることが必要だ。僕たちは愛し合うほどに近かったが、長らく会っていない。わからないことが多くなるのは仕方が無いよ。その“わからない”を補完して会えなかった時間を埋めるのが君の言葉だ。エリー? さぁ、ね? 一言で何十年分の時を超えられる言葉の魔法だよ」
そして、促すように微笑んだ。そのとき“悪いのはお前だ。自分は譲歩してあげている”と言わんばかりの顔つきをしていた。
その態度が昔からまったく変わっていないことを思い出した。何十年の時を超えても相も変わらず不愉快この上ない。
私は胸くその悪さに「失せな」と言い終わるよりも早くドアを閉めようとした。しかし、今度は隙間に足を挟み込んでドアを止めてきた。