デオドラモミの錬金術師 第六話
過去編です。
人は死ぬと幾許か軽くなるらしい。
それを魂の重さだという輩がいる。その幾許かごときに体を操られているなんぞ私は信じない。だが、マリソルとティソーナは以前より軽かった。
どれくらい走っただろうか。おそらく数時間前に馬車が通ってできたいくつもの轍は線状の水たまりになっていた。雨が降りぬかるんで悪くなった道をひたすら走り続け、私は川へとついた。
境である川にかかった橋を渡った。そこには警備兵がおり、通過を許されないかと思ったが、事情を聴いていたのだろう。始めは警戒していたが、野営地にいた学徒と金融協会のものだと伝えると通してくれた。どうやらヴィトーも政府もそこまで鬼ではなかったようだ。金融協会のものは何時間も前に通過したはずと怪しまれたが、一人行方不明になった連絡を「負傷して隊列からはぐれ、森の中で倒れていたところを救出したが手遅れだった」と言うことにしてごまかした。
門をくぐり鉄の扉が閉ざされると焚火と何人もの学徒の姿があった。泥も血も、何もついていない身なりの彼らの姿はどこか暖かいものに見えた。それと同時に何も知らないのだろうかと、怒りに似た感情も湧き上がってきた。血まみれ泥まみれで、肩で息をする私を見て彼らは何を思うのだろうか。
「ありゃユウじゃねぇか! それにマリソルも!」
「おい、大丈夫か!?」
呼び声に振り向くと見知った顔の三人がいた。三人は焚火のそばから私のところへ駆け寄ってきた。何も言わない私とマリソルを交互に見つめて、そして背中のマリソルを見て三人は押し黙った。
隠れるようにフードをかぶったダリダは覗きこんで、冷たいマリソルの顔を撫でた。被せていた布からたまった雨水のしずくが垂れた。
「最後は……、ううん。なんでもないわ」
布をそっと戻すとそれ以上は何も言わなかった。マリソルの穏やかな顔を見て何かわかったのだろう。
「ユー、少し休め。それからマリソルを葬ってやろう」
「いえ、マリソルは私が」
「……そうか、だが休むことは休め。人数の割にテントが多い。何個かがら空きだからそこを使え」
アルフは表情少なく私たち二人をテントへ案内した。
テントの中に入り、硬直したマリソルを体から降ろした。顔を撫で少しだけ開いていたまぶたから瞳を覗くと、開いた瞳孔は透き通るような紺碧ではなく、時化の海のように曇り始めていた。あれから半日ほど経ってしまったようだ。ぐっとまぶたを抑えて目を閉じた。葬る、いずれそれが必要になるだろう。だが、私はマリソルがそれを必要としていないような気がした。
疲れ切った体で何を考えたのか、私は工作を始めた。
自らの技術を駆使し超低温のゆりかごを短時間で作りあげ、彼女の体から出来うる限りエネルギーを奪い温度を下げた状態で保存しようとしたのだ。生き返るわけもないのはわかっている。遠い未来に希望を託すわけでもない。ただ、彼女を手放したくないという思いしかなかった。箱は何よりも固く頑丈なものにして閉じ込め、私だけのマリソルだと主張するかのごとく。作り終えて硬直した彼女の体を整えて中に入れると、私は気を失うように眠り始めた。
そして、私はそれ以来、何者にも壊されることのないそのゆりかごを片時も離さずに担いで生活するようになった。
絶えず新しい情報が入ってくる。眠りから覚めるたびにそれは更新されていった。
やはり内地は野営地にいたときよりも得る機会が増えた。それによると、前線は完全に後退したそうだ。その段階ですでに戦火拡大の発端の橋、目の前のこの橋こそが最前線となっていた。
私の到着後、二日もしないうちに橋や境は政府軍が管轄することになり学徒たちは解散になった。命からがら逃げてきた学徒たちはそれぞれの家路に就いた。急な決定で各領地に招集をかけたため、首都から遠いこの場所へ政府軍本隊が到着するまでにまだ時間を要するらしい。
しかし、敵はのんびりとその到着を待つわけがない。誰がどう考えても隙が大きすぎたのだ。到着するまでの間に敵が攻め込んでくるという情報が入ってきた。敵は警戒した政府側が守りを固めてきていると考えたのだろう。大規模な軍隊を率いてきたようだ。大規模な進軍が始まったという斥候の知らせが届いたときには学徒もほとんどいなくなり、プロも次の仕事へ向かって行ってしまった後だった。
残ったのは数十人の学徒と私、アルフ、リクだけだった。ダリダもいたが、行動を起こすと政府に捕縛されかねないので後方へ回ってもらった。わずかにいた数十人の学徒たちは恐れおののき、気がついたら皆逃げ出していた。野営地の時とは違い、部隊を解散したあとで逃げ出しても膺懲部隊送りはないので一斉にいなくなったようだ。もとより足手まといにしかならないと思っていたので、誰も気にも留めなかった。ただ、クズどもが、と謗ることは我慢しなかった。
ほどなくして戦いは始まり、最前線に私とアルフとリクの三人が立ち、橋の上で熾烈な攻撃を受けた。
しかし、狭い橋の上での戦いは体の大きなリクとアルフにとっては不利ではなかった。脇さえ固めてしまえば囲まれてしまうことが無く、むしろ数が少ない私たちにとっては有利な状況だった。前衛をリクとアルフで、後衛に私が付きサポートと弓やその他の飛び道具への防御対策を施した。しかし、不利ではないもののあまり冷静な判断とは言えない思いつきの戦い方だったのが仇になったのだろう。戦いの中でアルフは足を負傷し、歩行が困難になった。遠距離攻撃ができないアルフはただの的でしかない。結果的に戦闘員はリクだけになってしまった。
通過する隙を作ってしまったが、すぐに前衛を一人体勢に整えたリクが防いだ。
一度攻撃の波が途切れた時だ。橋の向こう岸から金属の擦れる音が聞こえる。次なる攻撃の波もすぐに来るだろう。まだ少し余裕の色がうかがえるリクが口を開いた。
「ここは俺で守るしかねぇよ。残ったプロだからな。アルフ、槍借りるぞ」
そういうと近くに落ちていたブルゼイ・ストリカザを持ち上げた。アルフが持っていても大きく感じていたそれはリクが持ってもやはり大きく見えた。どれだけの大きさだろうか。
「こいつァでけぇ獲物だな。イケそう、かもな」
槍を振り回すと空を切る音がした。手になじませるように回した後、両手で力強く握り切っ先を前に構えた。
「おい、何考えてるんだ!? リク!?」
「何って、俺一人で何とかすんだよ」
「そんなことはさせられない! ふざけるな! ぐっ!?」
一人でこの橋を守ると言い出すリクにアルフは出血を止めるために布で縛った足で立ち上がろうとした。しかし、傷は彼が思っているよりも深く、かろうじて止血した傷口から滲み出た血が縛っている布をじわりと赤くしていった。力なく跪きふらついた。
「あとでこいつを返しに行くぜ。ユー、お前アルフ担いで逃げろ」
大きなリクが持つとアルフよりもリーチは一層広くなったようだ。その一振りで橋の両端までリーチに収めることが出来る槍があるならば、リク一人でも援軍が来るまでは持ちこたえられるのではないだろうか、そう考え彼にその場を預け私はアルフを抱え、橋を戻ろうとした。
「待て! 待て! ユー、降ろせ! リク、お前にはダリダがいるだろう!? 俺がかわりに残る!」
担いでいるアルフは戻せと暴れ続けた。どすどすと背中を叩く痛みで足がふらついたが、屈してはいけないと思った。戻ればリクの覚悟が鈍る。
「けが人が残って何するんですか!?」
思い返せば残酷な判断だ。しかし、傷病者と戦闘補佐を守りつつ大勢を相手にして一人で戦いを続けるのはどれだけ有利な環境でも隙ができる。
どうすればよかったのか。逃げる以外にできることがあるとしたら何ができただろうか。
そしてまた同じことを考え始めるのだ。
アルフの足を治せたら?
もし、私が僧侶になれていたら?
もし、私が僧侶になれていたら?
走りながら私は頭の中で無限に繰り返した。
「無念なのはアルフさん、あんただけじゃないんだ!」
暴れるアルフを担いで私は走った。
最後までリクの名前を叫んでいたアルフは次第におとなしくなり、言葉を発しなくなった。小さく震えていたことはどれだけ時間が経っていても忘れられない。
それから数時間ののち援軍と合流し再び私たちは橋へ向かった。橋に近づくにつれ血の匂いは濃くなっていった。そして、到着した橋の一帯はすべての命が果てたかのように不気味に静まり返っていた。橋の上には屍の山、橋げたには斃されて落ちた屍が引っ掛かり、川の流れにゆらゆらと揺らめいている。死体も血痕もあるのは橋の中央よりも先だけだった。リクは確かに持ちこたえ、中央より先には敵を一人足りと通さなかったのだ。しかし、その彼の影はどこにもいなかった。
リクの捜索が行われて二週間ほど経過したのち、リクは発見されることはなくついに死亡扱いになり、葬儀が執り行われることになった。
捜索が打ち切られたあくる日に葬儀は行われた。雨期も終わりが近づき、気温と湿度ばかりが高い日だった。参列者は一様に汗をぬぐっていた。
発見されたリクの衣服の一部が申し訳程度に詰められた黒塗りの豪華な棺を、正装をした連盟政府の騎士たちが運んでいった。ほとんど空っぽで軽い棺は、バグパイプの音に合わせ隊列を組んだ騎士の肩に乗りゆっくり進んでいく。それまで呆然自失状態だったダリダがそれまでの渇きを潤すかのように泣きじゃくり、棺にすがりつく。それを必死で止めるアルフ。
しかし、私は目の前のその光景はどこか空虚で、自分の目を通して他の誰かが見ているような、そんな気分だった。
リクは死んだ。私はあっさりと彼の死を受け入れたのだ。死に瀕する彼の姿を見なかったはずの私が、看取ったはずのマリソルよりも先に彼の死を受け入れた。
それ以降、戦争支持の世論は突如として冷え込み、戦争の機運はすっかり下がっていった。それに金融協会は特に反発せず、だんまりを決め込んでいた。もちろんだが、リクの英雄的な最後がそれを導いたわけではない。だが、私はどうしてもそう思いたかった。彼をおいて立ち去った自分自身への言い訳が欲しかったのだろう。英雄視することで自らに赦しを請うたのだ。
互いに独立した生と死を白と黒と例えよう。その二つははっきりと分かれていて、物事を区別するにはとてもいい。生きていたリクは、私が背を向けている間に死んでいた。つまり、白と黒だけを見ていた。
一方、看取ったことでマリソルが白と黒の境をまたごうとしているところを私は見てしまった。彼女は確かに死んだ。でも、いつ白が黒になったのかはわからなかった。
マリソルの死を受け入れられない私の中の彼女はまだ灰色だった。
読んでいただきありがとうございました。