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デオドラモミの錬金術師 第五話

過去編です。

 アルフを追いかけ、雨上りの道を走り金融協会の兵舎に向かった。

 観音開きのドアは施錠されておらず、大量の武器や生活用品があったはずのそこはもぬけの殻になっており、誰一人見当たらなかった。物を動かして舞い上がった埃のにおいが立ち込めている。おそらく雨が上がる前の暗い時間帯に出たのだろう。


「ユー、上官に知らせてくる! そいつらもいるかどうかわからんがな!」


 そう言うとアルフは空の兵舎を後にしてかけて行った。

 静かになった兵舎の玄関に一人取り残された私は、日々当たり前のように行動を共にしていたマリソルが協会派遣の剣士だということを思い出した。まさか彼女までいなくなってしまったのだろうか。心臓が握りつぶされるかのような不安が込み上げた。誰よりも正義感の強い彼女がいきなり去ってしまうのだろうか。私は信じたくなかった。


 床の軋む音がした。突然の音に反応しそちらを見ると、


「おい! ユウ!」


 見慣れた褐色の肌と耳に覚えのある声が聞こえたのだ。それには太ももの力が抜けるほど安心してしまった。

 マリソルだ。やはり彼女は裏切らなかった。声はいつも以上にきれがあり、焦りのせいなのか切り伏せられてしまうほど攻撃的だった。


「ユウ。全員に伝えろ! お前たちは協会のしんがりにされている。いつかはわからないが、ここに敵の大隊が来る。その情報を入手した協会は夜のうちに撤退した。卑怯なことにこそこそとな!」


 しかし安堵もつかの間、彼女の慌てた様子は残留を喜ぶ隙すらなかった。


「マリソルはなんで残ったんですか?」

「そんなこと聞くな! わかるだろう!いいから伝えろ!」

「あなたの立場が危うくなります。大丈夫ではないはずです」

「知ったことか! 逃げ果せる! わたしとユウで全員に伝えるぞ!」


 踵を返しドアから出ようとしたマリソルの腕を私はつかんだ。


「マリソル、待ってください。いきなり全員に伝えたらパニックが起きます。おそらく指揮系統も崩壊しています。まずはアルフに! 彼に伝えましょう」

「確かにそうだな。だが急がなければいけないことにかわりはない! 急ぐぞ!」


 兵舎を出るとアルフを探しに向かった。足の速いマリソルについていくのが精いっぱいだった。遅れて少し後ろを走る私を目で確認すると彼女は、速度を落とすと話始めた。


「ユウ、戦火拡大はすべて金融協会の仕業だ。上の連中が土地を欲しがったらしい。それで攻め入る機運を高めたんだ。殺された民間人は協会の関係者であることは間違いない。だが銀行の金を着服した挙句の追放者だ。敵にわざと襲わせて利用しただけだ!」

「いまいちよくわかりません!自分たちで戦い始めたってことですか?」

「ヴィトー金融協会は土地信託を行っている。間接的な関係者を占領した地域の地権者にして、それを協会に信託させて管理するためだ。しかし今回の遠征はうまくいかずに秘密裏に設けていた期限を過ぎたので撤退したらしい!」

「マリソルはいつから知っていたんですか?」

「わたしもさっき聞いた!」



 野営地の司令部に着くとアルフがいた。どうやらいつもいる女性の上官は一人残ったらしい。彼女の判断で斥候はすでに放たれており、比較的すぐ戻ってきた斥候の情報では橋のある方角を除いた三方向から部隊が攻めてきているらしい。


「総員撤退だ。あえて逃げ道を残して誘い込もうとしているとも考えられる。もしそうだったとしたら、その時は覚悟を決めるように」


 野営地に残っているのは学徒と少数のプロだけだ。学徒はこれまでの任務で実戦経験を積んでいるとはいえ、まだ素人同然だ。プロも少なく防戦になった際に彼らの数十倍以上いる学徒を守ることはできない。


「学徒の連中には撤退とだけ伝えろ。罠の可能性については言及するな」


 指示を受けた私、アルフ、マリソルは野営地全域に撤退の情報を伝えた。

 緊急性を煽るとパニックが起こるので撤退としか伝えなかった。しかし、緊急性が無い上に帰れると知った学徒たちは喜びだし、のんびりと用意をしている。間に合うのだろうか。


 そういえば、リクとダリダはどうしたのだろうか。てれてれと楽しげに歩く学徒を誘導しながら、ふと二人のことを思い出した。この忙しいときに何故いないのだ。それとも、もう撤退したのだろうか。もしそうならば、そうしていてほしい。二人が幸せになることを私は邪魔するつもりはない。脱走でも構わない。逃げ出して、どこか静かなところまで逃げて、二人でひっそり幸せに暮らしていてもらいたい。



 近づく砂利を踏む足音に味方が増えたような気がして思わずにやりと笑ってしまった。


「どこいってたんですか? 二度とお目にかかれないかと思いましたよ」

「ユーちゃん!」「おい、ユー!」


 リク、ダリダの二人が私の名前を呼んだ。心の中ではなんでまだいるのだ、と怒りに似た感情が小さく火がついた。


「ダリダがヴィトーの連中に連れて行かれそうになってな。俺がかくまって隠れた。みんなを置いていけねぇよ」


 ダリダは希少な、しかも若い占星術師だ。亡くすのは惜しいと考えた政府に頼まれたヴィトーが連れ戻そうとしたのだろう。容易に想像がつく。


「みんなを残して戻ることなんてできないわよ。だから」


 二人の言葉が鼓膜を震わすと、体内に募っていたピリピリと神経を焼いていた炎が大きく膨れ上がった。


「何言ってるんだ! あんたたちは! なんでとっとと出て行っていないんだ! ダリダもリクも!」


そして、みんなが、みんなが、と言う二人に私の怒りは爆発し、怒鳴り声をあげてしまった。それに二人は驚き、話の途中で口を開けたまま呆然と私を見ている。


「も、申し訳ないです。二人がここに残ってくれたことは非常にうれしいです。けれど、みんながみんながと言って自分たちの優先度を下げるのは、その、非常に不愉快です。二人は結婚するんですよね? ここでみんなが、みんながと言って救えるかどうかも分からない命のために自らの命をささげるくらいなら、さっさと戻って家族を築くなりして命をつないでください。この野営地で非生産的な戦いをつづけるくらいならそっちの方がましです」

「ユーちゃん……」

「なぁ、ユー……。おまえの言いてぇことァわかった。けどよぉ、俺らまだここにいるんだ。上官に話も聞いちまったしいまさらもどれねぇよ」


 死にたがりがよく言う戯言だ。虫唾が走る。ならばいいだろう。この二人のうちどちらがかけようものならそれは私の責任だ。今際の際まで私自身を呪って呪って苦しめてやる。


「この期に及んでまだそんなことを言いますか。わかりました。では約束です。二人とも死なないでください」

「死なねぇよ。舐めんな」

「ユーちゃん、私たちは何をすればいいかしら?」


 ダリダは誘導の指示、リクは移動部隊の監視を指示した。

 野営地を出る最後の馬車には私とマリソルで乗るので、二人にはその前に撤退してもらうことにした。



 学徒たちのダラダラと続く撤退は、その後一時間ほどもかかった。

 兵舎でふざけていた最後の数人の準備が終わり、野営地の停車場に向かおうとしているときだ。後方から大きな音がした。ふざけていた学徒たちの動きが止まり、ざわつき始めた。その場にいた私とマリソルはついに来たことを理解し顔を見合わせた。唾を飲み込み、覚悟を決めた。私たち二人の様子を見た学徒たちは何かに勘付いたのか、口数が減りてきぱきと動くようになった。そして大きなものが倒れる音がした。おそらく壁が壊されたのだろう。

 次第に近づいてくる破壊音が止まった。


 次の瞬間、目の前がオレンジ色に包まれた。飛ばされ壁にぶつかるとマリソルの声が聞こえた。

幸いにも私は飛ばされたで済んだようだ。


「ゴホッ、おいユウ! 大丈夫か!?」

「問題ないです! ただ」


 爆破の刹那の瞬間、何人かの学徒が炎に飲み込まれて消えた。残った一人の学徒は荷物をすべて放り、そして走り出した。その姿を見たマリソルが声を上げた。


「おい、そこの腰抜け! 全力で走って逃げ伸びて、襲撃が来たと撤収部隊に伝えろ! あとで追いつくから最終馬車を出せ! 早く!」


 指示が伝わったのか、うんうんと首を縦に振りながらかけて行った。転びそうになりながらも彼は懸命に走り去っていった。

 晴れない煙の向こう側で無数の咆哮が聞こえる。どれほどいるのだろうか。


「ユウ、悪いな。お前にはいてもらわないと困る」

「今さら何を言ってるんですか。少し下がってください」


 私は前に出ると呪文を唱えた。マリソルはティソーナの柄をじりじりと握りしめ、重心を深く落とし構えた。

 そして、私は前方に向けて強烈に空気の振動を放った。波打つ煙が瞬時に晴れあがる。



 開けた視界に私たちは絶望しそうになった。

 百、二百入るだろうか。もはや数えるのもあきらめた。突然の爆音に驚いてひるんでいた敵たちは再び咆哮を上げた。


「どうします? 逃げます?」

「生存最優先だ。適当に払いのけて私たちも撤収だ! 八重の潮路にアルバトロスの加護を!」


 そういうとマリソルは不敵な笑みを浮かべた。

 そして目にもとまらぬ速さで走り出した。私はそれに遅れず、彼女を全力で強化した。

当然弱い私は狙われる。だが、それでおちおち死んでしまうほど弱くはない。そう断言できる自負がある。


 馳せる彼女を強化しつつ、迫る敵の戦力を分析した。平野での合戦ではないし、ここは建物が多く屋根の下だ。弓兵は役に立たないはずだ。崩れそうで足場が悪いとはいえ屋根を突き破っての落下攻撃も想定できる。それに屋根の自然崩落に巻き込まれる可能性もある。屋根と柱を強化し並大抵の力では穴をあけることができないようにした。目前に迫る敵は剣、槍、戦斧が中心だ。特に槍はリーチが長い。しかし、マリソルのティソーナはそれをしのぐほどだ。


「マリソル、少し下がれ! 私たちが背中合わせになってはダメだ!」

「承知!」


 マリソルは敵を薙ぎ払い、私のほうへ飛びのいた。横に並んだマリソルはつぶやいた。


「多い。背中合わせになったほうが生き残るらしいな」

「バカなこと言わないでください。ピンチはチャンスだとか気休めはいりません。引きますよ!」


 私たちは崩れかけた建物の狭いドアを狙い外へ出た。出た瞬間を狙い、建物の強化を解き倒壊させた。追いかけて部屋に押しかけていた敵たちは下敷きになり、がれきで背後をふさぎ進撃を遅らせた。


「ユウ、やるな! これで時間は稼げる」

「行きますよ!」


 通りを抜け、もう少しで広場に至るときだった。

 右肩に大きな何かがぶつかってきた。何かと思い横を見ると、並んで走っていたはずのマリソルが見当たらない。そのかわりに私たちの体の三倍はあるだろうか、大きな敵がいた。

足元に何かあたりそれを見ると、マリソルが血を流して倒れていた。

 がほがほと咳をしながら何かを言っているが聞き取ることができない。血を吐きながら苦悶の表情を浮かべる彼女はおそらく肺に穴が開いたか、気胸を起こしたかだろう。

 口の動きから見ると逃げろと言っているのはわかる。だが、彼女を置いて逃げることはできない。振り上げられた敵の腕を私は破裂させ、持っていた武器の落下速度を利用して敵の足をつぶした。

 その隙にマリソルを抱え広場へ逃げた。


 私は誤算をしていた。敵は三方向から攻めてきていたことを忘れていた。目前に迫る敵に気を取られ、後方を見落としていたのだ。広場に出ると歩みを止めてしまった。

 出口はすべて敵に包囲されており、退路は断たれていた。


 負傷したマリソル、戦いに不向きな錬金術師。

 何ごとだと敵は私たちを囲むように集まってきた。もはやこれまでか。逃げられない。

 囲む敵たちは武器を持ち、ゆっくりと近づいてきた。もはややられることはないだろうとあえて隙を与えているようにも見える。


 マリソルは腕の中で声に出せない痛みに耐えている。早く治療しなければ。

 血にまみれて涙を流す彼女を私は見ていられない。


 何もできないのか。これで終わりなのか。


 隙だらけで、できるものならやり返したい。


 マリソルをそっと地面に横たえると私は呪文を唱えた。

 自分たちを除いた広場の一帯のエネルギーの流れを混乱させてしまおう。きっとさきほど生き延びた彼と最終馬車も発っただろう。

 これでおしまいだと言うなら、細かい設定は不要だ。魔力の限りを暴走させる。世界が壊れるほどの魔力など私にはありはしない。それでも、一帯を巻き込むことくらいはできるだろう。

 エネルギーを大きく、そして小さくさせる。変化量も効果範囲も設定しない。どのくらいの規模になるかは私の能力次第だ。


 呪文を唱え、地面に杖を突いた。デオドラモミでできた私の杖が地面を軽快に鳴らした。

 動きに警戒した敵たちが腕で顔を覆かくすように防御した。



 しかし、何も起こらない。

 何も起こらないとわかると、敵たちは手をおろし笑い始めた。

 敵の一人が前に出て武器を緩慢な動作で構えた。


 やはり、私も所詮その程度か。

 私はゆっくり跪き、マリソルを力強く抱きしめた。


「マリソル、ごめん。無理だった」


 そう言い頬を撫でると苦しそうに笑顔を見せた。そしてそっと口づけをした。



 それに怒ったのだろうか。驚いた表情を見せた。

 しかし、様子がおかしい。顎を動かし何かを伝えようとしているようだった。


 ポツポツ、と手の甲に紅い液体がついてきた。

 何ごとかと思い顔を上げると、目の前に迫っていた敵が絞り出されたかのように出血し、血をまき散らしている。砂埃の立ち上がる広場は異様な光景が広がっていた。

 血まみれだったり、押しつぶされたようになったり、何人かが一つに凝集したような死体が無数に散乱していた。かろうじて意識があるものが唸り声や悲鳴をあげているのが聞こえる。錯乱状態なのか、同じ動作を何度も繰り返しているものもいた。


 すぐに砂埃がはれると野営地は異様な光景になっていた。

 建物はらせん状に捻じれ、かろうじて残った壁にめり込み脈打つように動き続ける何か。その光景は、見ていて気持ちのいいものではなかった。そして鼻を突く異様な臭いもする。呪文を唱えて効果が出るまでの間見ていたわけではない。しかしこれは私がやったのだろう。


 腕の中のマリソルが大きく動いた。痛みに体をよじらせているようだ。慌てて彼女の容態を確認した。


「ごめん」


 上着を引き裂いた。大きく美しい胸があらわになるとわき腹のあたりから出血しているのが見えた。かなりの出血量でぶくぶくと血の泡が出ていた。思った通り彼女は右肺に穴が開いていた。

 足や腕を触ると唸り声をあげた。どうやらあちこち骨折もしているようだ。


 私は僧侶の家系なうえに、解剖学まで勉強した。人体の作りは手に取るほど、ではないがわかる。

 適度な大きさの密閉できる四角い布を探し出し、開いた穴にあてがい三方を彼女の皮膚に縫い付けた。これで閉鎖性を維持できるはずだ。うまくいったのか彼女は苦しそうではあるが呼吸が整った。

 痛みを我慢してもらい彼女の手足の折れたところを人差し指で探り、折れた棒で固定をした。

 しかし、出血もひどい。目に見える傷を簡単に焼いて止血した。本当に付け焼刃だ。内部で出血して溜まるとまずいうえに感染症も心配だ。早く運ばなければいけない。


“もし、私が僧侶になれていたら?”


 彼女を担ぐと、そのことを考えるのを辞めた。おそらくではあるが、襲撃の第一波は収まっただろう。その間に逃げるしかない。橋のある方角へ歩みだした。




 しばらくして、大粒の雨が降り出した。深い森の足場は一層悪くなった。

 当たる雨水に意識が戻ったのか、マリソルが背中の中で動き出した。雨に濡らして体を冷やしてはいけないと思い私は彼女に大きな布をかぶせた。


「ユウ、わたしたちは助かったのか?」

「そう。助かった。もう少しで橋に着く」

「そうか。目が見えない」

「疲れたんだよ。さっきは大活躍だったから」


 しばらく静かになった。疲労の色、と言うよりはだいぶ衰弱してきている。

 声をかけ続けることにしよう。体力の消耗は激しいが、もしここで意識が無くなってしまったらあるいは。


「ユウ、そこにいるのか?」

「いるよ。今マリソルを担いでいるよ。痛くはないか?」

「何も感じない。お前の背中、大きくて温かいな。それだけはわかる」

「もう少しで橋に着く」

「目が見えなくなると、なんだか普段言えないことも、言えるような気がするな。ふふふ、忘れないぞ。さっきのは。私を女扱いしたのはユウが初めてだ。責任もってくれ」

「ならば橋へ戻ったらすぐにでもイスペイネに、マリソルの実家へ向かおう。でも、ご両親にも弟妹にも絶対に頭は下げないよ。甲斐性なしにやらんと反対されたなら誘拐するまでだな」

「恥ずかしいな。私をどこまで連れて行く気だ?」

「マリソル、雪は見たことはあるかい?」

「ないな。白くて冷たいと聞く」

「空が低く垂れこめて降ってくるんだ。曇り空からの贈り物だ。イスペイネは雪が降るには少し暑すぎるような気がするから、どこか遠い山奥にでも行こう。寒すぎるのも嫌だから、シーズンになると真っ白になるような、そんなところに行こう。ノルデンヴィズなんかどうだ?」

「わがままだな。それにわたしは太陽が好きだ。でも、確かに雪は見てみたいな」

「そこに小さな家を建てよう。錬金術さえあればすぐにでもできる。そして家族になろう。子供は二人がいいな。男の子と女の子だ。きっとマリソルに似て力強い子たちだ」

「ふふ、話が早いぞ、ユウ。まだわたしはお前と結ばれるなんて言っていない」

「嫌かい?」

「悪くない、とても、すてきな話だな。きっとお前にも似て賢い子だな」


「ユウ、すまない。一つだけ嘘をついた。協会の話は初めから知っていた」

「知らないはずがないって、わかってた」

「怒らないのか?」

「マリソルは何も悪くない。それだけは事実だよ」

「そうか。ありがとう。ユウは怒らないと思ったから言えたのかもな」


 私の呼びかけも虚しく、背中のマリソルの体温は下がり続けていった。


「ユウ、どこにもいかないで、ユウ」

「どこにもいかないよ。ずっとあなたのそばにいるから」

「寒い。ユウ、手を握ってくれ」

「もう少しだ。大丈夫」

「ユウ、ユウ」

「マリソル、しっかり気を保て、もう少しだから」

「見ろ、ユウ。イスペイネの海はどうだ?」

「まだ着いてもいませんよ」

「ユウ、……」

「おい、マリソル! しっかりしろ! もう少しだから、がんばれ!」


 その時だ。

 雨雲が裂け、隙間から日光が降り注いだ。

 傾いた陽は赤みを帯び始めて、走る私たち二人を追いかけるように照らした。


「きれい」


 マリソルは太陽を掴もうとしているかのように手を伸ばした。


「よせ。マリソル。止めろ!逝くな!マリソル!」


 力いっぱい伸ばした彼女の手のひらが私の顔の前で日光を遮った。ちらちらと指の隙間から覗く日差しに目がくらんだ。


「ユウ、わたし、幸せ」


 耳元で囁くように、消えそうな声でそう言った。

 力なく手が落ちると、曇天は風に流され陽を覆い隠した。

 囁きは消えて、鼓膜を叩く雨音は大きくなった。






 それからはほとんどのことを覚えていない。

 覚えているのは、穏やかな笑顔のマリソルは寝息すら立てることはなかったことと、走る私に合わせて揺れていた腕が次第に動かなくなっていったことだけだ。


 私の太陽は、海のかなたの、水平線のその先へ沈んでいったのだ。

読んでいただきありがとうございました。


禁煙のエピソードを後日どこかに追加します。

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