スプートニクの約束 第五話
麻袋から女の子を出し、目を開けるかと思い肩を揺すってみた。しかし、反応はない。
まさかとは思い、口と鼻に耳を寄せると息をしているようで風が当たり、睫毛に人差し指で触れると瞼が動いた。生きてはいるようだったので一安心したが、女の子の呼吸はゆっくりであり、深く眠っているような呼吸だ。睡眠薬か何かを飲まされて眠らされているのだろう。
眠りの呼吸は深く遅く、反射も強くはない。この様子では当分目を覚まさないだろう。このままにしておくことも出来ないので、どこかへ移動し彼女の目覚めを待つことにした。
だが、少々困ったことがあった。槍を担ぎ棒にして彼女を背中に載せようとしたが、そうすると何故か槍が持ち上げられなくなるほど重くなるのだ。
しかし、楽器ケースは先ほどの戦闘で壊されてしまったので仕舞うことが出来ない。投げ捨てた麻袋を引き裂き帯状にして、女の子を背中に縛りつけるようにしておんぶした。
幸いなことに職業会館裏通りは無関心な住人のおかげで武器を持ってうろついても全く目立たない。そして、近くには看板のない蔦だらけの店、カフェ・ロフリーナがある。衰弱しているかもしれないこの女の子の様子を確かめるためにそこへ向かうことにした。
「いらっしゃい。おや、子連れとは珍しいですな。お子さんですか?」
入り口のドアを開けるとドアベルが鳴り、マスターの右目が鋭く飛んできた。
マスターは珍しくカウンターの奥で腰掛けて作業をしていた。相変わらず客は一人もいないようだ。昏睡状態の女の子を連れて入るには目立たないのでちょうどいい。
「ははは、ご冗談を。私は妻帯などできませんよ。友達の子のベビーシッターですよ」
「それは、それは。両親とは似ても似つかぬほどに愛らしい子を預けるとは、そのご友人二人はさぞあなたを信頼されているようで。目が覚めたらオレンジジュースでもお出ししましょう。あなたはコーヒーでよろしいですな」
どこか、つかえる物言いだ。マスターは笑わずに立ち上がり、何かの準備を始めた。思い過ごしだろうと席に向かおうとして視線が逸れると同時に「それにしても――」と私に語りかけてきた。
「近頃、麻袋に子どもを入れて街を歩く親がいるらしいですな。まるで虐待だ。その子もお客さんが保護者なら安心でしょう」
マスターの方を見ると、カウンターの上を整理している義眼の右眼だけがこちらの遙か先に焦点を合わせていた。研磨された白い陶材とはめ込まれた青いガラス玉が命の放つ輝きではない光を向けてきているが、焦点は私たちにあっておらず不気味だ。
「何か、ご存じで?」
明らかに何かを知っている様子のマスターに私は警戒してしまった。まさかこの人までこの女の子の誘拐に関与しているのではないか。足を徐々に肩幅に広げながら腰に力が入ると、右手は槍を強く握りしめてしまった。
だが、マスターは義眼の右目は動かさず、左眼を手元に向けたまま作業を続けていた。
「いえ、何も。麻袋を担いだ男女のお客さんが先ほど店の前を通りましてな。ここでは上佐であるあなたがその子を連れているということはもう問題はないのでしょう。豆を切らしていましたが、買いに行く必要もなくなったようです。あと十五分もしたら、とびきり美味しいオレンジジュースと甘いケーキでもお出ししましょう」