スプートニクの償い 第九話
「私はあなたに会ったことで生きる意味を知ったの。もう少し早くあなたに会えていれば」
「知ったんじゃない。取り戻しただけだ。まだこれから時間があるだろう? 病気を治して、俺たちと一緒に過ごそう」
「無理よ」
ククーシュカはまるで心の戸を閉め突き放すように遮った。その顔は無表情を装っていたが、次第に崩れていき、一度乾いた目尻には再び光る物が溢れ始めた。
「時間が、時間が無いもの」
やがて涙はこぼれ、こめかみを伝い枕に至った。流れた後ははっきりと残ったが、乾いた冬の空気はすぐさまそれを奪っていった。寝具から僅かに出ていたククーシュカの掌は毛布を皺が寄るほど強く掴み、不規則にそして小刻みに震えだしている。そこにあるのが悲しみだけではなく、自らの行いへの怒りとそうせざるを得なかった人生の悲哀も込められているのはすぐにわかった。
「奪いすぎた。優しいあなたが殺しの一も千も同じだなんて言うのは、死にかけた私を安心させるためだっていうのは、バカでもわかる! 本当は、本当は同じなわけがない……! あなたの意味のある十六と、私の意味を持たない一千が同じなわけない! 奪うだけ奪い尽くした私なんかに、生きている意味はもう持たせて貰えない! 私には生きていた意味が無い! 振り返って見えるのは、地平線の先まで続く血だらけの足跡だけ!」
俺の気配りは返って彼女を傷つけてしまったようだ。
彼女はこれまでどれほど命を奪ってきただろうか。数えてもきりが無い。殺人は数えること自体が間違っている。それは一でも多すぎる位なのだ。だから、十六も千も変わらない。
しかし、自分のしてしまった殺しと彼女の殺戮は同じだとは思いたくない心がどこかにあったのは間違いない。その一方で、目の前で苦しむ殺戮者を落ち着かせるための嘘もそこに同居していた。
相反する物が心の中で互いを食い潰し合い、そしてできあがった中途半端な気配りは、目の前の苦しむ者にさらに罰を与えるかのようなものになってしまったのだ。
それによってもたらされた怒りと絶望に声を上げたククーシュカは大きく咳き込んだ。咳と言うよりもゴロゴロとした音を立てている。綺麗な網目をしている肺の線維などは崩れ去り、黄色い膿で満たされてしまい、ほんの少しだけ残った正常なところで辛うじて息をしようとして、粘り気の多い膿で張った膜をそれで押し退けるような咳だった。次第に強くなり、やがて血が混じり始めた。
力も弱まり手で口を押さえることもかなわなくなり、ただ咳をするためだけに残りの力を振り絞っているようだ。
咳き込む度に口からは泡の混じった血が噴き出し、口周りに付いた血しぶきは乾きにくく、頬や顎に赤い筋を残していく。
それがあまりに苦しそうで、見ていられなかった。
光に当たろうとした。だが、あまりにも不器用でそれがうまくいかなかっただけの彼女を、俺は見捨てたくなかった。