彼女の商量 第十二話
「そんなわけ無いと思うけど。それまで当たり前になったら普通には暮らせないよ」
「そういうことです。完全なる自由は犯罪の自由も含まれてしまいます」
広義の自由には責任があります。自由という言葉がつく限り、それは責任と一蓮托生なのです。
当たり前に享受しているので無意識の中にありあまり区別されることはありませんが、一般的に人民が求める『自由』というものは、不平等と言う責任が課された中で開花するものなのです。それを狭義の自由の一つとしましょう。ですが、狭義の自由はもう一つの形があります。
そのもう一つの狭義の自由とは、完全なる自由です。しかし、残念なことにそちらは責任だらけの迷宮で、与えられると選択肢さえもなくなります。人間はある程度の選択肢の中で生きています。それが奪われてしまうと何もすることができなくなってしまいます。
それをどう解消すればいいのか。自由とともにある程度の不平等を与えることで個人のレベルでの責任に落とし込めば良いのです。それにより選択肢を生み、競争を生みます。そして、その責任を負う行為は法によって守られるのです。それが私たちの言う『自由』なのです。
ですが、元勇者たちは繰り返された会合の場において『自由』を否定し、完全なる自由を保障しろと主張していました。ストスリアの学者たちの発言を盾に、私たち商会のみならず、協会、さらに連盟政府の介入を拒否しました。
完全なる自由は広義の中にある狭義の一つに過ぎず、もれなく責任がつきまといます。しかし、それは個人レベルなどではなく、生存競争や本能に至る物で、もはや理性さえ失っているとも考えられます。
自分たちは不平等により押さえつけられている、圧力をかけられている、それは凶悪な物でやがて未来を蝕む、と声高らかに宣言し、取り払われて自由になるべきという主張は、晴れ渡る空のもと崖の上から街を見下ろしているかのような爽快感と開放感を味わわせてくれます。
しかし、法の庇護さえも払いのけてしまうことで生き残るために必要な理性なき責任をすべて自ら負わなければならなず、見えていない足下の切り立った崖を無視しています。
その見せかけだけの自由という素晴らしい景色だけを並べて自らの都合の良いことだけに使うのは、法治国家である以上どれだけ『自由』が保障されていても許されません。それが許されてしまえば、やがてそのような自由は自らの手によって消え、私たちが守り与え続けていた『自由』さえも汚染することになるからです。