スワンが空翔ぶその日まで 第三話
グリューネバルトにアルク・ワイゼンシュタインへの論文投稿を止められた日の夜のことだ。
俺は昼間のグリューネバルトの反応が気になり、片付けが済んだ部屋に残された引き出しからずいぶん前に来たあの封筒を引っ張り出しその内容のすべてに目を通した。実績は新しい故に少ないが、著名な査読者が多い。その査読者についてはフェアに査読を行うために記さない。もし論文を託してくれるならば公開する、とのことだ。そのほかに書いてある内容はシーグバーンの説明とほとんど同じだ。そしてやはり具体的な金額については論文の内容による、としか触れていなかった。
何か少しでもオージーたちのために情報を得ることができないだろうか、手紙を探し出したが特に新しい情報は何一つない。それではあまりにもお粗末ではないか。俺はそう思い『アルク・ワイゼンシュタイン』に手紙を出そうとした。しかし、住所や代表者、そういったビブリオテーク運営の情報が手紙のどこを見ても一切載っていなかったので、唯一書いてあった私書箱のようなところへ手紙を投函した。
それから二日後の夜、アルク・ワイゼンシュタインの基準に従って論文を書き上げていくオージーとアンネリの手伝いから帰ると手紙が届いていた。急いで中味を確認すると初めて受け取ったときの手紙と全く同じ内容が書かれていた。何らかのミスが起きて伝わらなかったのだろうか。それ以上の連絡はやめることにした。
しかしその次の日、治療施設に膨大な量の手紙が届いた。最初は真面目にすべて読めば何かあるのではないかと思い、一つ一つ開けていったが五通開けたところですべて同じだった。その次の日も手伝いから戻ると手紙の山ができていた。前日の分も合わせて片づいた部屋には手紙だけがあふれかえってしまった。これではほとんどスパムではないか。治療施設にも迷惑がかかってしまっている。
何かがおかしい。俺はダリダへのコンタクトを急ぐことにした。
そして返事の手紙が届いてから、正確にはスパムが来始めてから一週間経った。論文作成はひと段落ついたようなので俺はダリダのもとを訪れることにした。その日の朝、部屋に迎えに来たカミュに「今日はブルンベイクの知人に急遽会いに行くので、アカデミアにいけない」と伝えた。すると彼女は同行すると言ったが、改心した様子を見せていて協力的ではあるがシーグバーンの存在が心配なのでアンネリのそばにいてくれと頼んだ。
本当のところ、彼女をアニエスに会わせてはいけないような、そのぼんやりとした気持ちがあることについては黙っておくことにした。
カミュをアカデミアまで送った後、再びポータルを開くと寒村が見えた。それと同時に先行く季節のひやりとした空気が流れ込んでくる。年間を通して気温の上がらないその村はすっかり真冬の装いだった。ただでさえ寒いブルンベイクの村に、さらに寒さが増すシーズンにばかり行くことになるのはなぜなのかと思いながら、ポータルを抜けると身震いするような気温差と10か月ぶりの光景が広がった。乾いた土の匂い、立ち上る自分の白い吐息、何も変わっていない。
まるで昨日までここにいたかのような気持ちになる。しかし、感慨に耽っている暇はない。見慣れた通りをぬけると見えるパン屋、モギレフスキーベーカリーへ足早に向かった。
お礼を言いそびれて疎遠になってしまったアニエスには会いづらい。それに加えて、まめに顔を出しなさいと言われていたのにもかかわらず、バイトを辞めた後一度もここを訪れていないから、アルフレッドにも顔を合わせづらい。だからそれ以外の誰か――一人しかいないが――を期待して挙動不審にそっと窓を覗くと
「あら、イズミくん?」
後ろから耳に覚えのある声で話しかけられて飛び上がってしまった。振り向くと、ファー付きの黒いコートを着た女性が珍しいものを見るような顔で立っていた。大人びたコート、そしてこの色っぽい声はほかでもない、それ以外の誰か、つまりダリダだ。セーフ。
「久しぶりね。体は大丈夫なの? 最近顔出さないからアルフレッドも心配してるわよ? アニエスも、ね」
目が合うと笑顔になり、小走りで傍に寄ってきた。そしてドアの鍵を開けた。
「こんにちは、ダリダさん。今回はお伺いしたいことがあります」
「あらそう? 立ち話もなんだし、少し入ったら? 今日お店はお休みだから」
鍵を開けて店のドアを開くと、手で中に導くように向けている。
「いえ、それは。急ぎなので」
忙しいようなふりをするために無表情を装い、その誘いを断った。しかし、それを見たダリダは小さく笑った。
「アニエスは今、山で訓練中だからしばらくは戻らないわよ。それにアルフレッドも買い出し。会いづらいんでしょ? ふふふ」
見透かされていた。恥ずかしさで顔に血が上るよう熱い。真っ赤になっていないといいが。情けない返事の後に俺はダリダに導かれ、開店前の店の戸を開け入っていった。
ダリダの淹れてくれた紅茶は林檎のような香りがした。いつか嗅いだことのあるそれはカモミールだろう。そして紅茶を飲みながら遭難直後からフロイデンベルクアカデミアで実験を手伝った日々の話をした。そして最後にビブリオテークの、気になっていたアルク・ワイゼンシュタインの話をした。
「イズミくん、やっぱり不思議ね。今度は研究機関にいるなんて」
ダリダは机に頬杖をついて優しい目をして静かにうなずいていたが、最後の話題になると背筋を伸ばした。
「アルク・ワイゼンシュタイン。知ってるわよ」
ダリダが知っているのか。この人は非常勤ではあるがアカデミアの講師だ。それほどの立場の人が知っているならばおそらく信用に値するだろう。そう思った。
気が抜けたように顔がほころんでしまった。しかし、ダリダの表情は真剣なものになった。
「そこだけど、投稿しちゃゼッタイダメよ。保存料金のこと書いてないでしょ?通常の何十倍とかとんでもない額を提示してくるわよ。そこはお金だけが目的のビブリオテークなの。名前が似てるからって同じ系列じゃないわよ」
安堵から一変した。俺は前向きな回答を期待していたからだ。
言われた言葉をかみしめると不安が込み上げてきた。
「名前が似ている? どういうことですか?」
「有名なところに似ているじゃない。『アルク・ワイゼンシャフト』に」
はっとした。とんだ勘違いをしていた。『シャフト』と『シュタイン』はまるで違う。
オージーの説明の中でその名前を一度しか聞かなかったから、同じところだと思い込んでいたのだ。しかしオージーたちはまだ学生とは言え学術業界の入ってそれなりに時間が経っているから、どれだけ名前が似ていたとしてもその程度の区別はついているはずだ。
だが、有名なところの系列だと勘違いしているのではないだろうか。二人ともまだ若いから名前を似せていることに疑問を持たなくてもおかしくない。
ダリダは煙管を取り出しながら続けた。どうやら俺が名前を勘違いしていたことに気が付いたようだ。
「そういうのが常套手段よ。それに迷惑なことに査読者にユーちゃんの名前が勝手に使われているの。本人は知らないみたいだけど、困ったものね。イズミくんも気を付けるのよ」
「ユーちゃん?」
刻みタバコを火皿に軽く詰めて、マッチで火を点けた。
一服吸うと、
「ユストゥス・グリューネバルトのことよ。フルネームは初めてかしら? 仲間だったころからそう呼んでるの。ときどきプロフェッサーとも呼んでいたけどね」
査読者が知らない。間違いない。『アルク・ワイゼンシュタイン』は詐欺ビブリオテークだ。
これまでの矛盾点と違和感がすべてつながり、一つの線となった。
ややこしい名前、スパムのような勧誘、莫大な費用、運営の情報がない。そして、名前の無断使用。ハゲタカジャーナルと何一つ変わらないではないか。
これだけの証拠がありながら、なぜ気が付かなかったのか。腹の底が煮えるように熱くなる。しかし、それよりも早くオージーとアンネリを止めなければいけない。
俺は無言で立ち上がり、店のドアを開けようとした。
「あら? もう帰るの? アルフレッドに会って行かないの? アニエスも口には出さないけど寂しそうよ?」
後ろから呼び止められたが振り向いている暇もない。
「ダリダさん、今はちょっと時間が無いので、ごめんなさい。近々もう一回来ますよ。そのときに説明します」
俺は店を出て、ポータルを開ける場所のある町の外まで出た。二人を止める。止めなければならない。
人もいないだろうとフロイデンベルクアカデミアの教室前の廊下にポータルを開き、ノックもせず勢いよくドアを開けた。
部屋の中にはオージー、アンネリ、カミュと離れたところにシーグバーンがいた。
「あー、来た来た。何やってんのよ。あとはイズミのサインだけよ。さっさと書きなさいよ」
アンネリののん気な声が聞こえる。どうやら論文は書き終わっているようで、あとはそれぞれの直筆のサインをすれば終わりのようだ。俺は強引に論文を受け取った。
「ちょっ! 危ないわね。どうかしたの?」
そして、ぱらぱらと中身を見た後に著者の名前順を見た。オージー、アンネリ、俺、カミュ、そして最後にシーグバーンの名前が書いてある。
俺の知っている論文は、一番最後に名前を書かれる人は教授など指導する立場の人であり、連絡の際に代表者となる。それがここでも同じかはわからない。もしそうならば、代表者がシーグバーンということだ。
そして、この論文の中にはどこにもグリューネバルトの名前が書かれていない。
初めからだますつもりでいた人間がまるで今まで指導をしてきたような面をして、そこに名前を堂々と書ける精神が理解できない。論文を皺ができるほど強く握りしめてしまった。
「さ、さぁ早く書いてしまってくれ。ぼくが直接届けよう。お金は後で受け取りに来る」
その一言で鼓膜まで響くほど脈が強くうったような気がした。掴みかかりたい気持ちを抑え、シーグバーンを睨み付けた。
「いやだ。俺は書かない。それでも出すならここで破り捨てる」
「なんで!? いきなりどうしたの!?」
それを聞いたアンネリは両手を握りしめてソワソワした目つきになった。オージーは目を見開いたまま俺を見つめている。
「シーグバーン、あんた、俺たちのこと騙そうとしてるだろ? あんたの奨めるアルク・ワイゼンシュタインは詐欺師だろ?」
オージーは表情を険しくして俺のそばへ近づいた。
「イズミくん、それは失礼だ。シーグバーンは研究者としては一流だ。学術の発展の邪魔をするはずがない。少し落ち着いて話をしてくれ」
震えだしたシーグバーンはもごもごと口を動かし始めた。
「ここは、せ、先進的なことをやっているからお金がかかってしまうんだ。オージー、やはり彼らは素人だ。ぎょ、業界を知らないのだよ。だ、だからぼくはキミたちだけでいいと言ったのに」
俺はオージーを押しのけてシーグバーンに詰め寄った。
「じゃ、査読者にグリューネバルト卿が名を連ねているのに、なぜ本人が知らないんだ?」
それを聞いた瞬間だ。シーグバーンの震えが止まった。
「どういうことですか? シーグバーン」
少しこわばった顔のオージーが振り向き、尋ねても下を向いたままだった。小さな声で何かを言い始めた。
「惜しかった。惜しかったなぁ。もう少しだったのに」
普段とは違う、言葉に詰まることもなく、そしてはっきりとした声が聞こえた。
突然顔を上げ大声でわめき始めた。
「ばれちゃったなぁ! なんで今までの研究所、ほとんど金が無くなってつぶれたんだと思う? ぼくがぜーんぶ金をふんだくるだけのどうしようもない詐欺ビブリオテークに投稿させたからだよ? グルだったからたんまりくれたよ! ぼくは優秀だからみんな信じるし、更新期限とか卒業とかで焦ったバカどもは気づかないでホイホイ送っちゃうから楽勝だった! 雇う側もアクセプトされればどこでもいいから全然気づかないんだ! はははっは!!」
発狂しだしたシーグバーン。もしかしたらそうではなく本性を現したのだろうか。カミュは大剣を抜けないことを想定していたのか、片手剣をどこからか取り出し構えた。
彼はふらふらと部屋の中を歩きまわり、足元にあったものを次々蹴り飛ばしている。日焼けした書類や埃が足で蹴られて舞い上がる。驚いたアンネリはオージーの陰に隠れている。窓の前でシーグバーンが立ち止った。そして両掌を上に向け天を仰ぐようにして言った。
「みんな間違ってるんだ! この世界で正しいのはぼくだけだ! 何もかもぼくに見つけられるべく待っている! ゴミみたいに小さな発見も、世界を揺るがす歴史的発見も全部間違っている! すべて詐欺師の腹の中で罰を受けるべきなんだ! でも、ぼくがいる限りいずれすべて発見される! はははは!」
杖を握り大きな動きをし始めた。部屋の中に緊張が走る。
「何をする気だ?」
動揺する一同を見たシーグバーンは大声を上げて笑い出した。
「何って、新しい発見をしに行くだけだよ! ははははは!」
そして、窓ガラスを割り外に飛び出すと、笑い声をあげながらどこかへ去っていった。
静かになった部屋の割れた窓を風が抜けると、冬の足音がした。あまりにも一瞬の出来事で、誰も口を開かない。俺がしたことは間違いではないはずだ。
事態が沈静化して、冷静になった心に込み上げてくるのは罪悪感だけだった。
読んでいただき、ありがとうございました。