過去と未来を紡ぐ場所 第九話
それは耐えかねた彼女がついに止めてくれと悲壮に満ちた声で叫んだわけではなく、まるで何か大事な物を見つけたように前のめりになりながら俺を駆り立てるように声を上げたのだ。映像の中ではアルフレッドが釜から出してきた型をテーブルに置き、そこからパンを外そうとしている。
「え!? と、止め!? ど、どど、どうするんだ?」と慌てていると、「この日! この日です! 私がイズミさんを殴ったのはこの日の夜です!」とアニエスは続けた。さらに駆け出すように前に出ると立体映像の中へと入り込んだ。そして、たった今テーブルに置かれた黒に近い茶色をしたパンを指さした。
「お父様は毎月一回決まった日にロッゲンブロートを焼くんです! しばらく家にはいなかったので見ていませんが、毎月の定番なので絶対です! それにうちのはカラメルを多く入れるので黒くなるんです! 間違いありません」
そして、慌てた様子で映像から出てくると俺の手を掴み、再び映像の中へと入っていった。中へと導かれてよりはっきりと見えた映像のダイニングには、薪ストーブは使い古され、先ほどまで薪を燃やしていたかのように炭はまだ赤く、パン焼き釜の煤の付き具合と焦げ具合も見覚えのある物だった。確かに、そこはごく最近のモギレフスキー家のダイニングだったのだ。
「このまま見続けよう! アニエス、大丈夫か? 辛いところを見るかもしれないぞ?」
「か、構いません! 本を閉じないでください!」
パンが焼き上がるのは早朝だ。夜となるとまだだいぶ先だ。それまで映像が続いているだろうか、はらはらしながら俺たちは並んで見続けた。
何事もないようにパンが焼き上がり、数は少ないがそれは店先へと並び、ダリダが店を開けるとパンは少しずつはけていった。昼も過ぎると暇そうなダリダが紅茶を飲みながら店番をしている。
日が暮れ店が閉じられるといよいよ外は暗くなってきた。
パン屋が燃やされ、ブルンベイクが焼き払われたのは暗くなってからだ。いよいよその時間が近づいてきたのだ。隣で見ていたアニエスが唾を飲み込む音が聞こえた。緊張しているのだろう。
時間も遅くなり、ダイニングの照明が落とされた隣の部屋から光が漏れている。
そして、ついに暗闇に包まれたダイニングで何かが動いたのだ。いよいよ襲撃者が登場したようだ。
黒いフードから顔の下半分だけを覗かせている。やはり聖なる虹の橋の者の仕業のようだ。常に低い姿勢を取っており、どれほどの背丈なのかはわからず、口回りの僅かな部分で判断するとどうやら女性であるようだ。しかし、それ以外は特徴が掴めずわからない。彼女は左右を見回すと、どこかにハンドシグナルを送った。仲間に合図を送ったようだ。すると後ろから二人ほど入ってきた。
そして、店のあちこちに何かを仕掛けていき、最初の一人が灯りの漏れている部屋に入っていった。
「少し場所を変えましょう! 隣の部屋がのぞけるかもしれません!」
見えてもいないのにこそこそと移動して、隣の部屋を覗こうとした。見える場所まで移動したが、それと同時に隣の部屋の照明は消えてしまった。
「クソ。もう少し早く移動すべきだった!」
外からの灯りはほとんど無く、映像は真っ暗になってしまった。その暗闇の中で残っていた二つの影が出て行こうとして動いているのがぼんやり見えたかと思うと、仕掛けていた何かが一斉に燃え始めたのだ。
積んでいた薪、布製の物、紙類、燃えやすい物の近くで火が上がると、すぐさま燃え広がっていった。
出火元を偽装するためなのか、パン釜の燃焼室の小窓からは他とは異なるかなりの高温の青白い炎が轟々と上がっている。すぐに延焼して部屋の炎は一体となった。そして、薪ストーブは高温の熱に晒されると、その金属を溶かし水飴のように溶け始めた。やがて煙突は倒れていった。
映像だとわかっていたが、こちらに向かって倒れてきているように見えたので思わず、アニエスに覆い被さってしまった。再び部屋を見回すとパン焼き釜のレンガにはひびが入り、アーチ状の出窓は崩れやがて釜の天井も崩れていった。俺とアニエスは呆然とそれを見守るしかできなかったのだ。