スワンダーフォーゲル 最終話
アカデミア編です。
気温は上がり続ける。実験も加速していく。
できるだけ長い時間、そして気温が一番高くなる前までに実験を終わらせ、暑い時間帯は室内で解析を行うために開始時間は早まっていった。まだ暗い時間から始めることもあった。
オージー、アンネリには申し訳ないが、それはそれで子どもの頃どこか遠くへ出かけるときに味わったようなわくわくした感じが無かったとも言い切れない。
カミュは訓練施設でトレーニングしていることも多くなった。実験は訓練施設で行うので、その時には全員と顔を合わせる。しかし、稀に解析に付き合わずそのまま残り訓練していることもあった。
ほぼ毎日彼らと過ごすうちにたわいもない話もたくさんした。オージーとアンネリはエイプルトン時代からの同期で10歳の時からずっと一緒らしい。
昔から勝気なアンネリにオージーがおねぇちゃん、おねえちゃんと付いて行く日々が過ぎて行った。三度目の夏が過ぎたころ、オージーがアンネリの身長を追い越した。
そのころにはオージーもおねえちゃんとは呼ばなくなり、代わりにアナと呼ぶようになっていた。それからも二人は一緒に過ごした。仲の良い二人はイタズラ好きだった。一番最初にしたイタズラは、制服についていたワッペンに描かれたエイプルトン校のシンボルである白鳥をアヒルへと変えるものだった。
次第に校内で二人は凶悪イタズラペアとなり、幾度となく校長室に呼び出された。いつしか二人はシンボルを汚すものとして『鉤嘴』という異名がつけられた。二人を気に入らない先生も多いが、イタズラではあるが覚えたことをすぐに実践し優秀な成績へつなげる二人を好意的に思う先生も多かった。「面白く実践しなきゃ覚えない」と主張して、勉強すればするほどイタズラの凶悪さを増していった。成績が上がるほどに性質が悪くなる二人には頭を悩ませていたそうだ。
誰が言ったか知らないが、大人になることを焦ってはいけない。そんなことも二人はつゆ知らず、大人になることを忘れるほどにイタズラを続けていた。しかし、それもつかの間だった。
八回目の夏のことだ。二人は進路のことで悩み始めたのだ。
懇意にしていた先生たちは有名なビブリオテークに司書長見習いとして就職するように奨めたが、与えられた知識を研究に生かしたいと言い張り、フロイデンベルクアカデミアへ行くことにした。
エイプルトンからフロイデンベルクに行くことは名門から名門に行くことなのだが、伝統を重んじるエイプルトン校は破たんした校風で有名なフロイデンベルクを嫌い、その進路を『山狂い』と蔑んでいた。それには当然懇意にしていた先生も反対した。
一方のフロイデンベルクは来るものを拒まずの様子で、受け入れをあっさり了承した。最終的にエイプルトン全校を敵に回した二人は卒業式で最後のイタズラを決行した。式が終わった直後に卒業生全員が帽子を投げるのだが、帽子が宙に舞った瞬間を狙い、習った魔法をもとにすべての帽子を水分の多い時の白鳥の糞に変換したのだ。
二人は参加させてもらえなかったので遠巻きにその様子を見て大爆笑していたらしい。消化された泥と水草からなるそれが宙を舞う惨劇は言うまでもない。
フロイデンベルクに入ってからの話は、オージーもアンネリもあまり話したがらなかった。特にアンネリはさみしそうな顔をしてどこかへ行ってしまうのだ。
実験に参加し始めて三カ月が過ぎて、俺の退院ももう目前に迫ったころだ。無駄に長い治療の日々が終われば、実験の手伝いもそれまでの約束だ。暑苦しい夏も終わりが近づいて、太陽に焼かれた木々の葉は色を変えていく様相のまっただ中。カミュも二人との仲はだいぶ良くなり、一時期とは違い普通に話をするようになっていた。
しかし、アンネリの様子がおかしくなり始めたのだ。上の空でソワソワとしていて落ち着きがない。態度もどこかしおらしくしていることが多くなった。
ある日、わからないなりにオージーの解析をカミュと手伝っているときだ。その日はアンネリがおらず解析が長引きすでに夕方も近い時間だった。開け放していた窓から土の匂いがして、ふと外を見ると遠くにあった夏雲はいつの間にか近づいていて、暗く空を覆っていた。
一雨来るのだろうか。そう思う間もなく、大粒の雨が降り出したので、カミュが慌てて窓を閉めた。
アンネリは不在だったので、実質オージー一人で解析を行っていた。その最中にオージーがグリューネバルトに呼び出され、一人で部屋へ向かった。解析は一度中断となり、滝の前にいるような音のする窓の外を二人でぼんやり眺めてオージーが出てくるのを待っていた。
しばらく時間が経った後、二人の人間が出てきた。驚いたことにオージーのそばにいたのはアンネリだった。驚いて口を開けて二人を見つめてしまった。
しかし、どうしたのだろうか。オージーはがっくりと肩を落としていて、アンネリは視線が定まらず憔悴しきっていた。額に手を当てながら擦るオージーはゆっくりと口を開いた。
「すまない。イズミくん、カミーユさん。少しついてきてくれないか?今日はカミーユさんもいてくれてよかった」
視線が定まらず足取りもおぼつかないアンネリの肩を支えるオージーについていくと、いつか四人で話をした石垣に着いた。雨は激しくて傘を差していても濡れてしまうほどだ。止まるとアンネリはオージーの肩を強く振り払った。そのままバランスを崩して雨の中へ倒れてしまった。彼女は水たまりにはまり大きなしぶきを上げた。
水たまりの中に写る自分を殴るように腕をつくアンネリは、何かの書類を握りしめていた。みるみるインクが染みていくそれはどうやら何かの論文の一部のようだ。
「ごめん、なさい……」
強く降る雨の音で聞き取りづらい小さな声だが、それは謝罪だとはっきりと理解できた。
オージーは傘を持ちかえ、アンネリにゆっくりと近づいた。
「どうしてこんなことをしたんだ。アンネリ。これでは研究不正になってしまうよ。もしこのまま突き進んでしまったら卒業どころではなくなってしまう」
下を向いたまま何も言わないアンネリ。その傍らまで来て傘で彼女を覆った。オージーが目線を合わそうと屈むと、視線が合った瞬間表情をゆがめて顔をそむけた。
アンネリはオージーのデータを盗用し、全く違うものに改変して使ってしまったのだ。
オージーとアンネリの研究は内容は違えど同じ系であり、実験内容自体はほぼ変わらない。アンネリは俺たちが来たことで大きく実験が進められると思ったようだ。だが、アンネリは求める結果をなかなか出せなかった。
停滞し続けた日々の中で次第に焦りがつのり、似たようなデータをオージーのデータの中から探し出した。装置で計測していた波形の図の縮尺を変えてまるで違うようなデータを装い、自身の論文の図として載せようとしてしまったのだ。
盗用と改変、これはもはや融通でどうにかなるものではないと研究をしたことのない俺でもわかる。
「わたしは、わたしはただ早く卒業したかっただけなの。こんなところに、もう、いや、いたくない」
震えた声で吐き出すように彼女は言った。それを聞いたオージーは彼女を覗きこんだ。
「グリューネバルト卿がいやなのかい?」
「違う! あんな老害なんかどうでもいい!」
再び雨の音だけが聞こえる。
アンネリの口が小さく動き始めた。そして
「シーグバーン」
小さな声で彼女は言った。
次の瞬間、顔を上げて声を荒げた。
「わたしはシーグバーンが嫌なの!」
あっと口を開けてアンネリを一同が見つめてしまう。それも構わず彼女は続けた。
「何度も何度も誘われて不愉快だった。それだけじゃない!」
アンネリはシーグバーンに食事に誘われてたまについて行ったそうだ。最初はご飯だけだろうと思っていた。しかしその最中にアルコールを強要されるようになり、次第にエスカレートしていき関係を要求されるようになった。
それを避け続けたある日のことだ。
連れまわされているところにシーグバーンの元同僚が現れた。彼らはシーグバーンを見つけると高笑いするものもいれば、胸ぐらをつかんでいくものもいた。口々にシーグバーンの過去のことをすべて話していった。その話の内容は今まで聞かされていたシーグバーンの過去の話とはだいぶかけ離れた内容だった。研究所をつぶして回っている、と。彼らは気が済んだのか、大きな笑い声をあげて去っていった。アンネリは冗談だろうと思っていたが、その直後に態度が豹変したのだ。
シーグバーンは逃げようとするアンネリの腕をつかみ言い放った。
「もしグリューネバルトやその他のアカデミア関係者にばらしたり、言うことを聞かなかったりしたら、凌辱して二度と社会に出られないようにしてやる」
その日はわき目もふらず逃げ出した。それからも逃げ続けていた。
話し終えたアンネリは崩れそうになった。すばやくオージーが手を差し伸べ頬を撫でた。
「そうだったのか。どうして相談してくれなかったんだ。いや、気づいてあげられなかったボクが悪いな」
「やめてよ、オージー。私が悪いんだから」
腕をつかみ振り払うアンネリ。
「アナ」
オージーの手から傘がゆっくりと離れ、柄を空に向けて落ちていく。そして倒れそうになったアンネリを、オージーは力強く抱きしめた。
「アナ、大丈夫」
アンネリはオージーの背中に手を回した。そして嗚咽を上げて泣き出した。どこまで響きそうな大きな声で。
「大丈夫だよ。アナ。まだ論文は提出されていない。やり直せる。それにボクは君のそばを離れない。守るから。それでもアナには辛いかい?」
離れると二人は見つめあった。アンネリは首を横に振った。
それを見たオージーは、そうか、と小さな声で言うとこちらを向いた。
「イズミくん、カミーユさん。申し訳ないがもう少しだけ実験を手伝ってもらえないか? もう治療も終わってしまうから忙しくなると思うが、どうかお願いできないだろうか?」
俺に断る理由はない。横に並ぶカミュの様子をうかがうと、目をつむり頷いた。
俺たちは雨の中で再び抱き合う二人をいつまでも見守った。夕立があがるまで、ずっと。
* *
「そうか。だからどうした。修正しなければ不正は変わらんぞ」
「いえ以上です。グリューネバルト卿。お伝えしておきます」
書類から目を放し、報告をしたオージーに一瞥くれると視線を戻し小さく頷いた。
俺はこの人の頷くという行為は何か特別な意味があるのではないだろうか。この件に関してだけは、グリューネバルトは味方なのだろう。俺自身でもにわかに信じがたいが、心のどこかできっとそうだろうと思ってしまった。
報告が終わり部屋から出るとアンネリは少しだけ元気を取り戻したようだ。疲れ切ってはいるが笑顔が戻っていた。オージーはアンネリの頭を撫でて言った。
「昔を思い出すな。校長先生に叱られたとき、良くしてくれた先生たちにこうやってお願いしたものだな」
アンネリの隣に座った。
「エイプルトン時代も常につるんでいて、イタズラもしまくった。校長先生の部屋にある窓ガラスを粘性の高い虹色の液体まみれにしたり(時効)、魔術科とケンカしたときには魔法を唱えるたびに杖から屁の音(5回に1回の割合で排便の音)が出るようにしたり(時効)、出来心で僧侶科の制服を男はオレンジの全身タイツ、女は超ミニスカートにしたり(時効)いろいろあった」
オージーの腕に抱きつくアンネリは笑っている。
「あのときはやりすぎちゃってどれも半年くらい元に戻らなかったわよね。ミニスカート見て鼻のばしてたくせに。でも、とっても懐かしい。それ以外も色々わたしたち二人でやったのよね」
「ははは、そうだね。アナ」
二人は顔を合わせて笑い合っている。
彼らがやってきたことは物騒だが。その姿を見ているとどうもにやにやとしてしまうのを我慢できない。
「なんか、いいね。恋人同士かぁー」
「ほほえましい光景です。イズミは見ていなかったと思いますが、こっそり口づけしていましたよ。ふふふ。幼馴染と恋人同士とはいいですね。私も10歳くらいの男の子と、あっ、いえ、なんでもないです」
今の発言は聞かなかったことにしよう。カミュが捕まらないといいのだが。
「ボクとアナの、いやボクたちの実験を始めよう!」
俺たちと、アウグストとアンネリ、若い二人の錬金術師との物語の始まりだ。
読んでいただきありがとうございました。